2010年 06月 02日

宇宙と人

2回目の合宿が終わり、あともう少し蒸し暑くなると、本番である。
今度の軽井沢公演においてホールに響くのは宇宙と人である。
文学的表現としての無機的な宇宙は、如何様な方法であれ観測され表現される。そうした時には既に有機的な何らかの象徴である。知覚することにおいて人の介在がないものはないように、我々の知る宇宙は人の仲介した宇宙である。初めて火星の表面を見た人は、人がそれを見ることが出来るように操作した結果を見ているのだ。だから、我々の見る物は全て人に還る。我々は物を見て人を見るのだ。己を見るのである。
こんな極端な物言いを真に受ける人は随分少なくなったけれど、でも、これって本当の一部ではある。
あまりバカにしてはいけない。
必ずしも意図していたわけではないが、今度のプログラムは、そんなプログラムなのだ。
そんな、って、どんな?
と、言われれば、来てみればわかる、と言うに決まっているので、こんな問答はただの宣伝である。

「ケフェウスノート」という曲は透明な印象のある(ある意味無機的な)響きで構成されたヴィジュアル的宇宙なのだが、これがとても人間臭い。別なところにも書いたのだが、NHK特集かなんかで「宇宙」という番組を放映するならBGMにもってこいである。透明感のある響きがいかにも宇宙っぽいのだ。こんなにも、「いかにも」的に音を重ねることが出来ると言うのはやはり凄いことだと思う。聴き終えた後に20分間沈思黙考したあげく「わからん!」と言わなければならない多くの現代音楽の中で、これも現代音楽だよ、って言うのはちょっと不公平な気がするぐらい、凄いことである。でも、そこがとても人間臭い。この曲を作曲された吉松 隆さんのことは全然存じ上げないのだが(ご挨拶はしたことがあります)、色々あるとしても、根は良い人なんじゃないかなぁ、と思わせる人間臭さを感じてしまう。
「二つのヴァイオリンのための協奏曲」は科学者がコンピュータが吐き出した数字の羅列を見て「成る程、宇宙はこうなっていたのか」とつぶやく時のような宇宙である。そんな場面が本当にあるかどうかは知らないけれど。
音が響き合い、動き、脈打ち、躍動し、微動だにせず、消えて、立ち上り、覆い、掠れて、凛とし、ありとあらゆる形容を数学的な的確さで表現しているが、それは人間を表現しているのではなくて、ただ、人間は真ん中にいる、のがこの曲である。「ケフェウスノート」とは全然別の宇宙である。人間が知り得た宇宙とは、人間が作り出した宇宙である。物理学者がどんなに無はまったくの無ではないよ、と言ったってそれはそう言う無を観測と言う人間行為によって、あるいは理論という思考によって、作り出された現実であって、それ以外に表現しようがなく、確率的というのは、所詮、概念でしかない。でも、宇宙はそう言う体系の中で成立している、というところの宇宙。こんな話しよりバッハを聴いている方が余程宇宙を感じられる。でも、バッハの宇宙は、どちらかと言うと人間臭いのではなく、人間がいる、ということの音楽だと感じる。
そして、どうあっても、宇宙とは無縁的に人間的な音楽としてのブラームス。心の音楽。心情の音楽。でも感情ではないし、感傷でもない。音楽による思考。音楽による感情。音楽による心情。
ブラームスには無機的であるところの概念は最初からない。私が見たから、そこに森があるのだ。そのくらい、人間なブラームスの交響曲は、徹底的に宇宙的ではない。土。道。街。家。畑。橋。城。自然が大好きで、アルプスが大好きで、重いお腹でとろとろ登る山道が大好きなブラームスは、自然に感動し、アルプスに畏敬し、そう感じながら、山道に苦しむ人間が(自分が)大好きだったのだ。
ブラームスの視点は最後に現われるけれど、私は、大地から見上げているような気になる。
象徴的な2つの宇宙とその狭間の、今ここにはない無数の宇宙を観測し、気が付いたら、恐ろしい程のズームアップで地上から宇宙を見上げている自分を見るのだ。
そんな、演奏会に出来たら、どんなに素晴らしいことだろう。
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by bassbassbassyy | 2010-06-02 23:16 | 音楽


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