音泉室内合奏団の食卓

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2012年 03月 27日

音楽の立場

「音楽の立場」等と言うのは大袈裟であった。
そういう立ち位置もある、程度の話しではある。
先日の松本公演で演奏したバーバーの「弦楽のためのアダージョ」。
これは、後年「神の子羊(アニュス・デイ)」の歌詞を付けて混声合唱曲に編曲されている。
レクイエムやミサ曲に使われる「神の子羊」である。
これはウィキペディアで調べて初めて知ったのであるが、ついでに「神の子羊」についても調べてみたら、「なるほど」と頷ける事柄が幾つかあった。
弦楽四重奏第1番の第2楽章はなるべくして「神の子羊」になったように思う。

それにしても、レクイエムやミサ曲で歌われるアニュス・デイの歌詞は「神の子羊の祈祷文」を書き換えて使われているとは、全くもって知らなかった。

世の罪を除き給う天主の子羊、われらをあわれみ給え。
世の罪を除き給う天主の子羊、われらをあわれみ給え。
世の罪を除き給う天主の子羊、われらに平安を与え給え

これが、本当の祈禱書の翻訳である。
レクイエムでは、この下の二文は、「われら」ではなく「彼ら」に言葉を置き換えて歌われている。
dona eis requiem
私は「彼ら」と言うのがオリジナルだと思っていた。
しかし、このことで、幾つかの合点を得ることが出来るような気がしている。
キリスト教における音楽の位置である。
クラシック音楽の多くがこの位置の範疇に入るかもしれない。
これは、なかなかな、気付きであった。

それから、「犠牲」の意味である。
私も音楽監督も昨年の震災に関連付けて、この曲を演奏することにした。
監督の言う「音楽は祈り」との言葉は、実はとても多くの意味をもつのだが、それでも核心的な部分を最も表現している楽曲の一つが「弦楽のためのアダージョ」であるからだ。具体的に何を祈るのではなく、ただ「祈る」ことそのものの音楽的表現と考えられる。
そう考えて選曲したのだが、「神の子羊」における「犠牲」の考え方(否定的な考えも含め)を知るにつけ、ただ事ではなくなってしまった。
かつて、昭和天皇が亡くなられた時にNHK交響楽団が追悼演奏会でこの曲を演奏した。これは、葬式音楽としての「バーバーのアダージョ」事始めであるJ.F.kの葬式の真似事に過ぎない。
N響に限らず、多くの国の多くの権威あると言われる、放送局や国営オーケストラが、その国の代表的な人物の葬式でこれを演奏する。なんの意味があったのだろう?
オリバーストーンが映画「プラトーン」でこの曲を使ったのは、大いに意味があった筈だ。
音楽は言葉で考えてもしょうがないところが沢山ある。しかし、音楽に想起された某かは、わからなくても充分意義深い。が、わかれば成る程と合点がいくものであるし、わかれば「葬式音楽ではない」と言ったバーバーの思いにも行き当たる。J.F.Kの葬式でこの曲を使った人はそれなりに理解していたのだろう。その後の「真似事」とは一緒ではない。
そして、一時代を超えて、今、言葉では想像出来ない、被災した多くの人々の痛みや苦しみが音楽で理解されるのである。
残された者の痛み。この曲にはそこに通ずる某かがあるのだ。
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by bassbassbassyy | 2012-03-27 23:32


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