音泉室内合奏団の食卓

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2009年 06月 30日

見た目、デフォルメしない、文章。

でかおさんの言う、フレーズの分解について、ストラヴィンスキーは間違いなくキュビズムの影響を受けていると、私は考えています。そんな話しは聞いたことも読んだこともないけれど。

だから、単なる分解ではなく一点透視図法のアンチテーゼとしての多点透視図法(こんな言葉あるのかな?)ですから、本人なりのルールを設けて、千切っては角度をかえて繋げているのだと思います。問題は、演奏する上でこれを知ってどうなる、と言う具合なのですが、リズムの問題もあるので合わせて考えてしまいましょう。

ストラヴィンスキー他ロシアの作曲家に限らず、騎馬、乗馬の関連は2拍子と3拍子の絡みが多いように思いますね。これは激しいタイプの舞踏に繋がって行きます。古くはタランテラのような。

ここにより強烈なアクセント(殆どガツンと言うような踏み込み)をデフォルメしてつけると、
例えばバーンスタインのウェストサイドにある「アメリカ」の様なリズムが産まれます。
これはタタタ、タタタ、タタ、タタ、タタ、(全部で12)で納まりが良いのです(映画のダンスも思い出すとわかり易いです)。

しかし、別のデフォルメをすると、例えばDave Brubeckの「Blue Rondo A La Turk」の様にすることが出来ます。
これはタタ、タタ、タタ、タタタ、(全部で9)で若干納まりが悪い。
でもこちらの方がクールを演出出来る。例え変拍子でも、単純なリズムの連続は、変な言い方ですがホルモン的なんですね。ところが納まりを悪くすると知としての緊張感が一気に高まる。納まりの悪さの調節が難しいですが。

一点透視図法の人物画でも景色でも、歴代の画家は様々な方法で物語を埋め込むことが出来ました。これは経験的な「知」のありようです。作る方にも、観る方にも同じ物語の素地があります。

しかし、キュビズムに見られる多点透視図法は画家の思惑が画面を支配していながら、その思惑は見る者の経験では計れない。物語は見えているのに(人物だったり、建物だったり、キュビズムは「もの」を捉えていますからね)。そこで、考える。
この「考える」という行為がピカソやブラックが絵を見に来た人に求めた行為だったとすると、ストラヴィンスキーも同じことを求めているのではないかと思われます。これを生理的に高めるのがリズムです。先に述べた通り2拍子と3拍子の絡みは、元来的には野生に根ざしますが、変拍子を備えることで知的緊張を一気に高めてしまう。
聴く方は「これは何だ?」と考えますよ。
もちろん、答えはわかりません。それはあんまり問題ではない。
高度に知的な手法で「これは何だ?」に誘い込むことが大事なんです。

演奏する人間はストラヴィンスキーに協力して、キュビズムの作品を書いているようなものです。そこには演奏者の「物語」はあまり求められていません。寸断した寸法を正しく把握し、正しい角度で再現しなければならない。
でも、これだけでは音楽にならないこともストラビンスキーは良く知っていたようです。
一つは形式。ソナタ形式ですね。
もう一つはアンサンブル。人の息吹を感じさせる空間の演出を忘れていない。これは形式と密接な関係がありますね。
この二つがなければ「これは何だ?」と考えさせる余地を与えないのと同じですからね。
だから、演奏者はいつにも増して、「感じたように」やることは出来ません。アンサンブルや踏襲されて来た形式はあるけれど、単にそれを足がかりに感情の赴くままに演奏しては、分断したフレーズを正しくはめ込むことが出来なくなってしまう。小海のようにね。
聴く人を感心させ、感動させ、さらに、考えさせなければならない。
変拍子にするしないに関わらず、2楽章、3楽章も同じですね。

私は、こんな風に考えていますが、みなさんはどう思います?
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by bassbassbassyy | 2009-06-30 03:51 | 音楽


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