2009年 08月 03日

ブラームスはお好きですか?

サガンをどうこう言おうと言うのではありません。あくまで、ブラームス
しかし、改めてこう訊かれると、「好きです」と答えてしまう。
みなさん、如何ですか?030.gif
何だかんだ言ってはいますが、私はブラームスが好きです。
「さよならをもう一度」(「ブラームスはお好きですか?」の映画化)ではブラームスの3番の第3楽章(例の奴)が効果的に使われて、まあ、なんちゅうか、人生の淋しさ、儚さが上手いこと表現されておりました。イングリッド・バーグマンは奇麗だし。人生の寂寥の部分に触れるところが良かったですな。ブラームスの音楽には全般にそんなところがある。心の琴線に触れる何か、ですな。
これを「ロマンチック」と言うのが大方の見方のようですね。
これから音泉で演奏する第4交響曲なんか最初から、キター!と言う感じですね。
念のため、ロマンチックという言葉の意味を調べてみると、「現実を離れ、情緒的で甘美なさま。また、そのような事柄を好むさま。空想的。「―な夢にひたる」」となっています。”情緒的で甘美なさま”にちょっと悲しい感じを付け足すと、冒頭の主題はまさにそうしたイメージと受け止められるのかも知れませんね。演奏でも、色々な録音がありますが、殆どどれを聴いても、このイメージと相違ない演奏です。"情緒的で甘美”です。016.gif

でも、少し考えると、この"情緒的で甘美”にはどうしようもない違和感が生じます。021.gif

ブラームスは間違いようもなくロマン派の作曲家ですから時代の潮流の中で「言葉的なもの」を音楽に織り込んでいたとしても、至極当たり前のことのようですが、本人はそういうことを望んでいなかったようです。ブラームスはベートーヴェンに憧れ、バッハを敬い、形式や様式を重んじていました。ご存知の標題音楽と絶対音楽の論争では絶対音楽作者の代表的存在として担がれていましたし、本人もそのことに異議を唱えてはいませんでした。一方の標題音楽の先鋒は可哀想なブルックナーが(ワーグナーの代理として)担がれていました。このことが”情緒的で甘美”という印象と馴染まなくさせています。
こういうときは、疑ってみる。
あの、第1主題は本当に”情緒的で甘美”で良いのか?
ブラームスにとって交響曲とは純粋に音楽的なものでした。言葉で表現出来るものならば詩にすれば良い。それで足りないのなら詩に音楽を付ければ良い、くらいの考えではなかったかと思われます。器楽曲作家のように見られ勝ちですが、民謡を採譜したり、詩に曲を付けることはブラームスにとって楽しみでもあり立派に創作の仕事の範疇だったようです。既にある言葉の作品に器楽を持ち込むことはしたのです。しかし、器楽曲には言葉を持ち込まなかった。どの器楽曲にも標題的なものはありません。頑に絶対音楽的であった訳です。音楽の元となるテキストは一切用いられていませんでした。となれば、もし、”情緒的で甘美”なイメージがそこにあるならば、それは「想念」として組み込まれたことになります。しかし、ブラームスの伝記を読んでもそのような記述は見られません。まあ、これについての見解の一つは調性から得られるのですが、それは別の機会にお話ししましょう。
結論から言うと、楽曲そのものに"情緒的で甘美”なる物は織り込まれていない、と言うことです。ただ、この曲を聴いた人が、心に”情緒的で甘美”な某かのイメージを湧かせやすいということ、なのだと思います。
これは、演奏する場合にはとても重要なことだと思います。特に4番のような出だしをされると、演奏者にも"情緒的で甘美”な思いが沸き上がって演奏をそのようにしてしまいかねない。説得力のある演奏の一つとしてそのようなやり方をする「指揮者」は大勢いるだろうけれど、少なくとも音泉ではこれは出来ない。022.gif

ブラームスの4番の音泉の演奏では”情緒的で甘美”は根拠が見出せない限り考えないことにしたい、と言うのが現在の私の考えで、幸い、監督も同様なお考えからその方向で進まれるようです。
問題は、みんなでそのように出来るのか?と言うこと。長年親しんで来た、場合によってはそのように演奏したこともある”情緒的で甘美”なイメージを払拭出来るか、と言うこと。なにしろ冒頭から、だもんね。
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by bassbassbassyy | 2009-08-03 01:32


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