音泉室内合奏団の食卓

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2009年 09月 15日

ブラームスはお好きですか?(8)

さて、世界史の時間です。027.gif
ブラームスが1885年に第4交響曲を書くまでに起きたヨーロッパの大事件のうち、ブラームスの周りの空気がどのようなものだったかを彩りそうなものを選んでまとめてみました。
あまり、興味のない方も時間があるようならば読んでみて下さい。あまり、ピンとは来ないかもしれないけれど、ヨーロッパの情勢がいかに複雑かは理解していただけると思います。030.gif


1842年ハンブルクの大火、ブラームスは9歳でしたが、この大火で自由都市ハンブルクは大打撃を受け経済崩壊の危機に瀕しています。翌1843年にブラームスは地元の音楽家マルクスゼンに師事しますが大変なインフレ状況で酒屋等のバイトをして家計を助けねばならなかったとのことです。

1848年2月革命、3月革命:パリで起きた農民と労働者の蜂起(2月革命)は翌月にはドイツ・オーストリア・イタリアにも伝播し各地で同様な革命(3月革命)が起きました。基本的には農労者の困窮に対する不満の爆発ではありますが、ヨーロッパ的な社会規範が一つ瓦解したと考えられる出来事です。特にメッテルニヒによるウィーン体制下の民族主義、民主主義の抑圧政策基盤はこのとき崩壊しました。革命自体は幾つかの局面の後に鎮圧されますが、音楽の都ウィーンでも多数の市民が弾圧の犠牲になっています。ちなみに、北イタリアのオーストリアからの独立運動を鎮圧したのがラデツキー将軍で、父シュトラウスが彼のための行進曲を書いたのもこの時です。

1852年フランス第2帝政:ルイ・ナポレオン=ボナパルトが第2共和制大統領の立場でクーデターを起こし、現政権制度を武力で解散した後、国民投票で皇帝となっりました。何で大統領なのにわざわざ、クーデターまで起こして皇帝になったのか、と思いますが、必然性はあるのです。おじさん(良く知ってるナポレオン)の失脚の関係で幼少時代をドイツ語圏で生活した彼は、2月革命の関係でフランス共和制大統領になったものの、政権内に友達がなく思う様に政治が出来なかったのですね。皇帝になった後、自分の思うように政治が行えるようになると、権威主義的傾向を強めるとともに、植民地政策でも帝国主義的となり、勢力拡大中の後進国ドイツとは何かと対立する様になります。

1862年ビスマルク、プロイセン首相に就任。実は我々の知っているドイツはこの頃はまだありません。この頃のドイツを説明するのはとても難しいし、正確には出来ないと思いますので、文献を読んで下さい。大雑把には、オーストリア帝国とプロイセン王国とドイツ連邦からなり、ブラームスのいたハンブルクはドイツ連邦の由緒ある自由都市(教皇から3回も認証されてます)でした。ブラームスにとっての「国」観ってのは、我々とは相当に異なると思います。
1864年統一ドイツ成立(大ドイツ主義:オーストリア主導)、ドイツ・デンマーク戦争、1866年ドイツ・オーストリア戦争、1867年北ドイツ連邦成立(小ドイツ主義:プロイセン主導)1870年ドイツ・フランス戦争
:戦争ばかりですね。
統一ドイツはドイツのことではありますが、オーストリアの思惑と南ドイツの諸勢力の思惑が重なって出来たドイツで、今日的なドイツよりかなり広いドイツが出来ました。これを許したビスマルクは政治に巧みだったのですね。時期に瓦解することを見越していたのです。66年の戦争でオーストリアの思惑を排した後、67年、今のドイツに近い統一ドイツを成し、1871年初代ドイツ帝国宰相に就任します。
フランス戦争では先のナポレオン3世が失脚し、その後の数ヶ月間、パリコミューン(労働者革命による社会主義国家)が実現します。それも、後に元の帝政政府に挽回されて、コミューンにかかわった市民の大量の処刑者を出します。
1878年社会主義社鎮圧法:社会主義思想はイギリスから発生して広くヨーロッパに行き渡っていたことは48年革命やパリコミューンをみてわかると思いますが、これは産業革命以降、資本主義経済の発展の陰で多くの貧困者と労働問題を社会が抱えていたからです。40年代にはマルクスが社会主義の理論強化を行い、やがて唯物史観論による革命の必然を説く様になります。前々から現体制から社会主義者への弾圧は行われていましたが、この法律はそれを制度化したわけです。同時に、災害保険、健康保険、老齢年金等の社会保障制度をビスマルクは実施してゆきます。「飴と鞭」と言われる政策です。街には貧困者があふれ、工場では婦人が、炭坑では子供が働いていました。事故も多く、大勢の労働者(主に子供)が日々死んでいたとのことです。

1881年オーストリア、ロシアと三帝協商、1882年オーストリア、イタリアと三国同盟。こうした同盟によりイギリス、フランスの大国を牽制しながら、条約当事国もまた緊張状態に起き下手に動くと火がつく仕組みを作ることでビスマルクはドイツの勢力拡大と一定の平和を手に入れました。

物凄い時代です。今の私たちの時代では、自民党から、民主党に変わっても日常的にはどうと言うことはありませんが、ブラームスの時代は、政治にかかわることは生きるか死ぬかの問題を必然的に孕んでいました。政治の影響力は強く、
この間、ブラームスはハンブルクからウィーンへ移り住んでいますし、オランダ、デンマーク、イタリアやスイスへ旅行もしています。友人も国籍は様々。国家観と言うものは相当に複雑になると思いますが、ブラームスは愛国者でした。71年にはヴィルヘルム1世に勝利の歌を献呈しています。同じ年にウィーンに移り住んでいる感覚も良くわからない。ともかく、ブラームスの生きた時代には、こんなことがありました。4番交響曲を書くまでの間に限りましたが、なかなか大変なもんだと思いますよ。
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by bassbassbassyy | 2009-09-15 13:00 | 音楽


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