2009年 09月 25日

ブラームスはお好きですか?(12)

では、そろそろ「演奏」に焦点を当てて話を進めましょう。003.gif

これまで、考察してきた事柄については音楽に対して副次的に派生している事柄です。演奏する上で知っていて損はない。場合によっては必要な知識。そう思って下さればよいかな。でも、独りよがり的なイメージに従って弾いてしまうと不味いな、とか、演奏上の注意についてこれまでより慎重にならないといかんかな、とかブラームスってよく分からんけど、成る程、具体的なイメージはないのか、とか理解していただけるともっと良いかも。

実際、作曲家が交響曲のどこに人生観や生活観を滲ませるかは全く分かりません。多分、本人も分からないと思います。言いたいこと、と滲み出るものは異なるからです。普通の曲を演奏する際にはこの両方を意識しなければならない。この主題は何々を想起させるように書いてある、だから、ああせい、こうせい・・・とかね。
 ブラームスの場合は思想、信条、物語と言った言葉で分かる言いたいことは、特になかったはずなので、却って難しいかな?でも、音楽として言いたいことはあったはずです。「これが私の音楽です」と切々と訴えているように、私には思えます。切々として全体で一つ、そんな感じです。だから、どこが大事、あそこはこのイメージ、と言う具合に割り切った言い方が出来ない。ベートーヴェンと同じで、息つく所がないのですね。この間、上越で1番を演奏させて頂きましたが、まあ、別の理由もあるのですが、最後まで持ちませんでした。心身ともに。申し訳なかったなぁ。一応でも、トラとしてのっているのに充分にお役に立てなかった。その位、疲れます。これまで、ブラームスの交響曲は全て演奏しました。けど、ちゃんと考えていなかったせいか、途中で駄目になるほど疲れたことはありませんでした。でも、色々考えて、こうも、切々と音楽を訴えられると、どの音一つ気が抜けなくて、ともかく譜読みだけでも疲れた。そういう風になるんです。本当に。
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 さて、話は変わりますが、また、いきなり、私事ですが、早いパッセージが弾けません。4分音符=130だと16分音符はもう弾けませんね。絶対に。同じ音を刻むのが精一杯です。それ以上はしません。と、言い切ってしまうと監督が怒るので、事実とは異なりますが、弾くための努力は怠らず、常に邁進しているのですが、悲しいことに演奏には結び付いていない、と申しておきましょう。この間のチャイコフスキーの4番の4楽章なんか「グシャグシャ、グシャグシャ、グシャグシャ、ブンブン、ドンドンドン」で、なにやってんだか全然わかりませんでした。太鼓みたいなの。
でも、実際問題、「私の音を聴いてくれぇぇぇ」というところは早いところでは無理ですね。ムリムリ。絶対。音を聴かすなら、私の場合は何と言っても全音符とか2分音符ですね。第一、あの魅惑的な白丸が良い。物事の深淵を感じさせますな。なるべくなら、程よい長さで弓の心配をしなくて良いところ。そしてポジション移動がなくて音程の心配をしなくて良いところが良いです。もう、俄然心を込めて弾き込んじゃいますな。皆さんは如何ですか?木管の皆さんは「やっぱ、メロディーでしょ」と、言うかも知れない。確かに全音符だけで出来ているメロディーならば言うことなしですな。でも、実際はメロディーは難しい。弾くのも吹くのもだけど、それだけではない難しさがあります。どなた様かのご指示のように「低いところは大きく少し長めに、駆け上がったら行ったらフォルテピアノクレッシェンドで前へ進まないとダメです。」とか言われると、もう、何がなんだか分からなくなっちゃう。「私の音を聴いてぇぇぇ」どころではなくなっちゃうのが現実ではないでしょうか。でも、あの指示は必要だからあるのであって、伊達ではありません。オケ全体の中で音楽を引き出すために、全てのパートの関連を考え精査した結果です。これを違えてしまっては、自分自身がそこにいる意味がなくなってしまう。結局、メローディーでは「私の音を聴いてぇぇぇ」というのはそのままでは実現できないでしょう。その代わりに、「こう弾いて欲しい」と言う要求が出ますので、これを一生懸命実現すれば良い。時々「やりすぎです」とか「大げさに言ったのです」とか言われてしまいますが、そのときはそれで直せば良い。時には、「私なりに全体を考えてこう弾かないといけないと考えましたぁぁぁ」的なことをやってみるのも良いでしょう。間違っていなければ、指でOKサインが帰ってきます。
ともかく、メロディーは大変です。そんな訳でやはり全音符でしょう。もう、全身全霊込めて、えいやぁ、とばかりに弾いてしまいます。
PPPなのに。
 そう、悲しいことに全音符のところは半分はPP以下、半分はff以上ですが、ffのところは金管楽器や太鼓もffなので「私の音を聴いてぇぇぇ」が実現されないのです。私(Bass)の場合。やり切れませんね。
 そこで、音を聴いてもらうのは無理でも、心だけは込めることにしました。思いっきり心を込める分には誰にも文句は言われません。でも、どんな心を込めれば良いのでしょうか?清清しい夜明けの様な静寂のpppに憎悪の心を込めてもしょうがないですからねぇ。そういうわけで、音楽を考えるわけです。ここはどの様な心を込めればよいのか、と。そこが出発点です。
ここを出発点とすれば、作曲家の心を求めるようになる。考えていなければ、何も求めてはいないことになります。

くどい様ですが、早いところは弾けませんので心の込めようがない。監督、怒ってるかなぁ。
ともかく、早いとこ以外は、つまり弾けるところは、すべて心を込めたい。
そこで、今度は監督の心に迫るわけです。
音楽監督は音楽の専門家であります。曲を演奏する際にはまず、楽譜に対峙してこれを良く知るところから始まる、とのたまわれたことがあります。楽譜からは色々なことが読み取れます。でも、読み取りたいのは見て取って分かることだけ、ではありません。「何故?」を読み取らねばならない。楽理や奏法や音楽にまつわる専門的な知識が備わっていれば「何故」を見つけることも出来るのでしょう。そうそう、「音楽をする」という責任感もないといけませんね。早いとこが弾けないアマチュアとしてはどうでしょう?「音楽をする」という責任感は自負していても、それに伴う知識がない。困りましたね。わからんのです。
何が「何故」なのか。「何故」ばかりは、何で「何故」なのかを自分で分かっていないと誰にも「何故」を問うことが出来ません。
こういうときは、常に原点にもどるにかぎりますな。
どんな音を出すべきか?
やはり、ここから始めれば間違いない。
音楽は音の集合ですが、一つ一つの音に意味があるから、集合したところで大きな意味になる。今、目の前にある音の意味を考えなければ、いつまでたっても意味のある音楽にはなりません。意味が集まったところでの整合性は後から考えましょう。上手くすると誰か(多分、監督が)教えてくれるでしょう。
では音の意味とは何でしょう?色々な言い方があり、見方がありますが、ここでは役割と考えたいですね。一つの和音の中で、一つの音には、その和声に対する役割があります。基本的に言えば主音が一番良く響かねばならない。内声は少し小さめ出なければならない。でも、和音が二つ並ぶと、それまで「小さめに」と言われていた役割が変わってしまうこともあります。音が連なれば、こっちが大きく、こっちが小さく、という具合に役割も複雑化します。「その複雑化するところがわからないのよ!」と、言うことであれば、一つ分からないところが分かったことになりますね。これを「何故?」に繋げるには、楽器で弾いてみることです。しっくりする音が見つかればしめたものですね。すると、これは「何故」になる。何故しっくりするのか?とね。
一つの交響曲で、一体幾つの音があるか、パートによっても異なりますが(同じ給料でも)、ともかく、相当な数の音があります。この一つ一つに「何故?」が生じる可能性があるわけですし、その可能性は私たちのようなアマチュアにとっても「何故」であり得るわけです。
 今度は、その何故に自分なりの答えを見つける必要があります。分からないけれど弾く、と言うのでは、説得力に欠けます。是非とも自分なりの答えを見出したいですね。
自分なりの答えを見出したところで、多分、監督と同じ土俵の端くらいには位置できたものと考えてみてください。監督の答えと、自分の見出した答えと、同じであっても、異なっていても、構いません。見比べて、精査し、より良い結果が得られるかもしれない。こういうことの積み重ねの結果として、楽器を通じて音を重ねることが「息」を合わせることになります。タイミングを合わせるだけのアンサンブルを超えることにもなりますね。それに、こう言うのをアウフヘーベンと言うのです。ドイツ音楽をやるのだから、アウフヘーベンしないとね。
「そんなに、頭ばっかり使っていられるか!インスピレーションだって重要じゃないか!」との話もありますが、真に直感的なものは思考訓練の賜物です。スポーツと同じで、音楽的思考の訓練をして身に着けた結果としての反射神経的なものこそが、音楽の場で求められるインスピレーションなのだと思うのです。どうでしょう?もっとも豊かなインスピレーションは訓練の幅が広がり、例えば美味しいラーメンを食べる、という訓練が音楽の美しいメロディーにつながったりもする、と、監督は本気(?)で考えています。
こうして蓄積したものは、自然と滲み出るものです。例えば指揮者が「ここは、こうやって、ああやって」と指示します。一見すると演奏者は雁字搦めになって自由がなくなった気がします。でも、音の可能性は想像以上の広がりがあります。色々考えた事柄は、指揮者の指示に従った、さらにその先にも開けています。アマチュアの場合、大概、指揮者の指示は音楽全体の整合性に基づくものです。その上に、演奏者の解釈上の何某かが結びつけば、それは結果として良い音楽に結びつくでしょうし、自分の充足感も得られるわけです。もし、これを自分考えのみ優先でやってしまうと、指揮者の意図とずれてしまい、結果としてアンサンブルから外れてしまうでしょう。
ちょっと、難しく書いていますが、例えば屋根の上のちぇろ男さん。決して音楽のことばかりを考えている人ではありません。仕事もそこそこするし(そこそこしかしない)、休日にはゴルフも(ばかり)します。
でも、仕事の合間合間(年中)に、ふと音楽のことを考える。ゴルフにうつつを抜かしているようでも、コースを歩きながら来週の演奏会(そういうわけで本番1週間前の練習に出ていない)のことを考える、酒を飲みながら、あの指揮者はこうする、ああする、(金くれ金くれ:カラヤン/悲愴)と皆を笑わす、こうしたことが、演奏に出る(出て良いのか?)。指揮者に指示されればその通りに弾けるように練習も(多分)しますが、自然に自分の持ち味をその中に織り込んでいる。この方の場合、あまりに自然なのでそういう過程が見えてこない。でも、まあ、「何故」を考えると言うのとはちょっと、違う気もしますが、音楽のことに頭を使っているのは確かです。ちぇろ男さん、引き合いに出してごめんなさい。
 「何故」の積み重ねがないと、ただ指揮者の言うとおりに弾いていることで「私は誰?」に陥ってしまう場合もあります。この場合は、実はまだ救いがある。音楽に対するそうした自分の姿勢に疑問がもてたわけですから。中には、「私は誰?」の疑問にも行き当たらない方もいます。時間つぶしか、何だか分からない目的でオケには来ているけれど、唯言われるがままに楽譜の音を出して満足してしまう。実は、プロの演奏家の方にも大勢、そういう方がいらっしゃいます。そういう方は音楽を人生の喜びにすることはなかなか難しいでしょう。別の喜びなら直ぐに手に入れるでしょうが。
 演奏者こそは音が全てです。これを機能的に正しい音を出すことが全てと、勘違いしている方が大勢いらっしゃる。そうではなくて、演奏者は出した音が全てなのですね。その出した音に全てが現れてしまう。だからこそ、能動的であってはいけない。積極的に、一つ一つの音に自分を込めていかなければならないのですね。
 そんな訳で、早いとこ、が最後に残されました。
私は、弾けないので、どうしたら良いかは皆さんが考えてみてください。
私は弾きません。

まあ、結局のところ、演奏者としては曲のどこが大事、と言うよりも、全てに意味を見出し、心を込めることが大事と言うわけです。

言っていることと、やっていることにギャップがあるのが、また味わい深い。


さて、そろそろ、合宿の時間ですね。
行って来ます。
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by bassbassbassyy | 2009-09-25 21:47 | 音楽


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