2009年 10月 17日

〜閑話休題〜 ブラームスはお好きですか(15)

 さて、長々とブラームスを話してきました。ちょっと内容の変化が乏しくなって飽きてきましたね。本当は、一つ一つの話自体をもっと詳しく書きたかったのですが、あんまり長いと読まれなくなってしまうので、かなり割愛して書きました。逆に短絡的になってしまったところもあり、ガタガタした文章になってしまったところもありますが。
ともかく掲載部分だけで原稿用紙70枚分くらいにはなりました。原稿で見ると100枚超えてしまいました。やれやれ。
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 なので、ブラームスについては次回で一応終了。
最後は、最後なんだけれど、まだまだ、見るものはありますよ、と言うお話。
色々な見方をしてきましたが、具体的な曲の分析、演奏法については殆ど手付かずです。最初に第1楽章の冒頭を若干分析しましたが、まだまだ深めることが出来ます。また、見方と言う面でも考え方と言う面でも、まだまだ考察の余地があります。
そこで、こんなことも考えられますねぇ、こんな見方もありますねぇ、というお話をしておきたいと思います。
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 まずは、終わりのお話し。4楽章の終わり。つまりは曲の終わり。
 この終わり方は何でしょうか?
 まず、フェルマータがない。4泊分。トライアングルを除く斉奏で終わります。何としても「終わり」「以上」「もうなし!」と言う感じです。こうまで、終わらねばならないならば、いっそのこと短い音で終わっても良かったのに、と思います。その方が決然とした感じは出やすい。弓の心配もしなくて済む。何より潔い。でも、4泊分は伸ばしたかった。釘一本で蓋をするのではなく、大きな石で蓋をした感じですね。何故か?
 下手をすると、中のものが出てきちゃうからですね。釘をどんと打って終われなかった。何かを封印するように、重い重石を乗っけて、もう出てくるな!と終わるわけです。仮にフェルマータが付いているとどうなるか?フェルマータしている間に、出てきちゃう。そういうことです。フェルマータは拍感がないので、逆に復活がありえるわけです。曲の途中で仮の終止をするときは大抵フェルマータを用いますね。拍感がないことで、逆に楽曲を想起させる手法です。
 最後まで拍があると言うことは、4番と言う曲は、そして、少なくとも4楽章は、冒頭にある全音符のバーバーとしたテーマで出来ている割に拍感の大事な曲と言うことになりますね。逆の言い方をすると、初っ端のあの全音符にしっかりとした拍節感がないといけないと言うことですね。難しいですねぇ。良かった、トロンボーンじゃなくて。
 ともかく、一つ前にも書きましたが、躍動、運び、流れです。これを重要視しているからこそ、終わり方はこうするしかなかった。しかも、そもそもコラールですから、響きの奥行きがある。サウンドの力が物凄くある曲なんですね。これに封印するには、この終わり方しかなかったのでしょう。
 それから、シャコンヌであることにも注目しないといけませんね。パッサカリアでも良いですが、ともかく、終わらない、ことが身上です。永遠に繰り返す。これがシャコンヌ。監督と、「終わり」の話をしているときにご指摘頂いたのが、バッハのシャコンヌとの比較です。構造的には似ている、というか、同じなんですね。コーダの在り様と持って行き方が。ちなみに、あのシャコンヌもソナタ形式風です。バッハって凄い!。ブラームスも負けていられなかったんですね。ドイツ人魂ですかねぇ。ともかく、終わりのない情熱の昂ぶりが永遠に続くシャコンヌを終わらせるには、重くて大きな石が必要だったのですね。
 そして、本当は終わりたくなかった。続けたかった。永遠に音楽が鳴り続けたかった。この、「潔くね〜。」って感じも大切だなぁ、と思うわけです。「潔くね〜」をちゃんと感じて表現にした演奏って耳にしたことないですねぇ。「駄目ぇ、終わるのぉ〜」と「潔くね〜」が、拮抗している終わり方って面白いと思うんですけれどね。どの著名な演奏も、どちらかって言うと、「こう言う終止形なんだから、これで終わり!」って終わってる感じがします。
 まあ、そのことは分かった。重くて大きな石。ぎゅ~って終わる。よく分かりました。問題はその次。これ、演奏で考えると、とても大変なんですね。
 コーダは第24変奏からです。そこから、最後までが終わりの部分。既に重い大きな石は用意されているのです。ちゅうことは、これに見合うように音楽を持っていかなければならない。まあ、その様に書いてはあるわけですが、息を抜いたり、手を抜いたり、重いものを軽くしたりしてはいけませんよ、と言うことですね。躍動も運びも流れもそのままに、しっかりと終わりまで持っていかなくてはならない。しかも、最初に言いましたが、4楽章には輪廻の様に1楽章を想起させるきっかけが幾つもある。4楽章の終わりは曲のおわりですから、1楽章まで遡って、この終わりを覚悟しておかなければならないわけです。終わりは始まり。物凄いものを背負い、積み重ねながら弾き続けなければならない。考えただけでも息が詰まりますね。015.gif

 終わり方から、こんなことを考えることも出来るわけです。037.gif

 もう一つ。今度はこんな見方もありますね、と言うお話です。
 強弱記号。
 これに注目してみる。
 4番で使われている強弱記号、フォルテ-fとピアノ-pのアルファベット記号のみで考えると実はppp、pp、p、mf、f、ffの6つです(sは別ね)。mpとfffはありません。mfもわずかに4箇所だけです。
 チャイコフスキーさんはきっとビックリするでしょうね。ffffを書かずに交響曲が書ける!005.gif
 経過的に中間のmp、mfとなるところは沢山あるのですが、mp、mfでのびのびリラックスして力抜いて歌ってね、と言うところがないんです。殆ど、まるで。
 単純に見ると、ブラームスが緊張感のある音楽を求めていた、ということになります。でも、その通りなんだと思います。そもそも、ブラームスは交響曲でmp、mfの表記をするのを嫌っていたようですね。
そこで、変態チックに調べてみました。
面倒なので第1楽章だけですが、スコアに印刷されている記号の数です(箇所ではないです)。

ppp 5  pp 91  p 242  mf 5  f 273  ff 66

mfが如何に特殊かわかると思います。

また、意外なことにsfは230でした。
fは数小節間に渡ってかかる場合もあるのに対してsfは音符の一つ一つにピンスポットで書かれているために数が多くなるわけですが、多いでしょう。sやアクセントは音楽のスパイス。と言うか、息吹、脈動に関わる、もっともっと大事なものですからどうしても多くなりますね。

 こう言う統計的な分析がどのような意味を持つかは解釈の問題ですけれど、mfは要注意ですよ。
 特にホルンの方は。逆に言うとこのmfをきちんと解釈していないホルン吹きは「どうなのよ」と言われちゃう。良かったホルン吹きじゃなくて。

 このmfの使い方、実は他の交響曲でも同じなんです。mpとmfが極端に少ない。ピアノ協奏曲の2番の冒頭、ホルンの旋律が例外ですね。あれはmp。最も演奏者が緊張するところで、力まないで伸び伸びとした音楽を要求しています。嫌な人ですね。しかし、それにしたって、冒頭ではあるけれど、実は冒頭ではないんです。冒頭のホルンは高貴で悠然とした問いの流れの中から浮き出した一つの出来事です。これに呼ばれて主役のピアノが出てくる。実は緊張の極みの中での出来事。mpのちょっとのほほんとした雰囲気は微塵もない。pから逆算されたmなのですね。従って曲全体も緊張度の高い作品になる。これを勘違いしてしまうと、ダレダレのピアノ協奏曲になってしまう。
 4番に話を戻しますが、ここで使われているmfも経過的なもの、全体がppからクレシェンドしている途中から出るので、mfから出てね、と言っているものを除くと、本当に僅かです。mfの本質的な性格で書かれているところは例外。だから基本はppp、pp、p、f、ffの5つ。pppとffは両極なので、まあ、想像はつきますね。問題はpp、pそしてfです。ppp~ffの間で、この3つをきっちり使い分ける。しかも、強弱は相対的で全体的且つ局所的なわけです。緊張度の高いこの3つをきちんと意識して全体の整合を保ちつつ演奏するには相当、スコアを読み砕いていないと出来ませんね。まあ、出来ないんですけどね。統計的なところから見るとこんな感じですね。
 少なくて特徴的であること。多くて特徴的であること。敷衍的で特徴的であること。局所的で特徴的であること。これを解析すると全体が何となく見えて来る感じですね。
 でも、よい子のみなさんは真似しないで下さいね。
数えるのに時間がかかる割に、わかることは少ないから、こんなことしない方が良いかも。大体で良いと思います。027.gif

さて、いよいよ次回は最終回。
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by bassbassbassyy | 2009-10-17 01:53 | 音楽


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