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2014年 05月 07日

次はベートーヴェンなのだが・・・

さて、交響曲である。
だが、エルガーを書いたら面倒になって来た上に、挨拶文をまだ書いていない事を思い出した。
やれやれである。
取り敢えず、2楽章から。
3拍目の音から1拍目の音へと入る時に、5度音程をちゃんと意識しないと、暗くなりますね。
それはともかく、落ち着いたテンポではあるけれども、明確な推進力を持っていないと、だれて聴こえますね。1拍目も2拍目も決してスタカートではないのですが、そっと着地したら、ゆとりを持ちながらも快活な2拍目を弾いて、ジャンプのための3拍目、っていう感じですかね。良くわかりませんね。まあ、わかって下さい。ここの推進力を内在させたまま、もうちょいデリケートな一区切りをぬけると、32分音符、付点16分音符、32分音符、8分音符の音形が出て来ます。ついつい、大腿でやっちゃうんだけれど、テンポ自体はゆっくりなので、ちゃんと音の長さは意識しましょう。低音楽器は遅れがちになるので、しっかりみなさんと一緒にいましょう。
「B」のところで2拍子的に8分音符を弾いている方は2小節単位で考えましょう。弦楽器のボウイングではダウン、ダウン、アップ:ダウン、ダウン、アップ、となります。
さて、繰り返し記号の後ですが、ここは、みなさんピリピリと緊張して下さい。ここの緊張感は一人ひとりがキョロキョロと探りあうような緊張感です。これがクレシェンドして71小節目に入ると、全員がメダカ(イワシでも可)の群れで天敵に警戒するような緊張感に変わります。71小節のデクレシェンドはとてもとても大切なので、弦のみなさま、宜しくお願いします。弦のかたのボウイングはヴァイオリンからバスまで、:ダウン、ダウン。アップ、ダウン。アップ、アップ:で統一しましょう(変わるかもしれないけれど)。
「D」のところの16分音符は、監督から色々と言われると思っていたのですが、あまり言われませんでした(私が寝ていた可能性もありますが)。思うに、32分音符は転ばないように。F#とかBナチュラルとかの音程が悪くなりがちですね。音の縦目をつけながら、拍節感も大切に、弾きましょう。
「G」の前、7小節のところ、チェロ・バスのフォルテ、スポルトは汚くならないようにしましょう。
今夜は、ここまで。
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by bassbassbassyy | 2014-05-07 22:19
2013年 01月 09日

4分の2拍子

シンフォニーの4楽章が4分の2拍子で書かれていることについて、練習では触れられていない。
監督としては他に伝えるべきことが沢山あるのだから仕方がない。
また、このことについて簡略化して伝えてしまうと、必ず間違いが生じる。
だから、触れられていないのだと思う。
誤解されやすいのだ。

でも、とても大事なことではある。
例えば、2分の2拍子で書かなかったのは何故か。
書法の問題もあるが、2分の2は、要するに「気分」ではないのだ。
ここで「気分」等と書くから誤解が生じる。
しかし、まさに気分なのだ。
例えば「速さ」で考える。
我々のリハでの演奏を「速さ」の側面で捉えるならば、これは2分の2拍子で書かれている音楽になる。「速さ」で言えば、我々の演奏は充分に「遅い」からだ。しかも、「背負っている」。
1拍1拍に内包する重みがある。さらに言えば、1拍目が長過ぎて2泊目が短い上に、2泊目が重い。これで♩=144位でやっているのだから、新参兵の連帯が重装備で「早足」しているようなものだ。これは2分の2拍子の音楽である。
監督の言うようにアレグロ ヴィヴァーチェは必ずしも速さを強調する為の速度記号ではない。
「陽気に、快活に」せめて「快速に、快活に」程度である。
だから、そもそも、「速さ」はこの楽章を演奏する上での課題ではないのだ。
4分の2拍子はもっと自由な拍である。
2分の2拍子でアレグロ ヴィヴァーチェならば何かを背負いつつ突き進むイメージであるが、4分の2拍子は何かを拭い去ってでも突き進むイメージである。
嘗ての「巨匠」が演奏したようにゆっくりしたテンポから急速なテンポへ劇的な変化を生じさせることは、現代の感覚からすると少々変なのだが、かと言って、当時の大袈裟な演奏の一つと決めつけられる程軽薄なものでもない。4分の2拍子であることの自由度は相当なものなのだ。
なぜなら、当然のことながら1小節1拍子の4小節が楽節としての最小単位であるから、それを2拍子と捉えれば、「速さ」の変化は実はそんなには大きくないのだ。

でも、我々は4分の2拍子でやろう。そう書いてあるのだから。
4分の2拍子のアレグロヴィバーチェで演奏しよう。
陽気に、軽やかに、快活に。それは「速さ」ではない。
何かを背負い込むことでもない。拭い去ることで得られる快活さなのだ。
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by bassbassbassyy | 2013-01-09 23:28
2012年 03月 27日

音楽の立場

「音楽の立場」等と言うのは大袈裟であった。
そういう立ち位置もある、程度の話しではある。
先日の松本公演で演奏したバーバーの「弦楽のためのアダージョ」。
これは、後年「神の子羊(アニュス・デイ)」の歌詞を付けて混声合唱曲に編曲されている。
レクイエムやミサ曲に使われる「神の子羊」である。
これはウィキペディアで調べて初めて知ったのであるが、ついでに「神の子羊」についても調べてみたら、「なるほど」と頷ける事柄が幾つかあった。
弦楽四重奏第1番の第2楽章はなるべくして「神の子羊」になったように思う。

それにしても、レクイエムやミサ曲で歌われるアニュス・デイの歌詞は「神の子羊の祈祷文」を書き換えて使われているとは、全くもって知らなかった。

世の罪を除き給う天主の子羊、われらをあわれみ給え。
世の罪を除き給う天主の子羊、われらをあわれみ給え。
世の罪を除き給う天主の子羊、われらに平安を与え給え

これが、本当の祈禱書の翻訳である。
レクイエムでは、この下の二文は、「われら」ではなく「彼ら」に言葉を置き換えて歌われている。
dona eis requiem
私は「彼ら」と言うのがオリジナルだと思っていた。
しかし、このことで、幾つかの合点を得ることが出来るような気がしている。
キリスト教における音楽の位置である。
クラシック音楽の多くがこの位置の範疇に入るかもしれない。
これは、なかなかな、気付きであった。

それから、「犠牲」の意味である。
私も音楽監督も昨年の震災に関連付けて、この曲を演奏することにした。
監督の言う「音楽は祈り」との言葉は、実はとても多くの意味をもつのだが、それでも核心的な部分を最も表現している楽曲の一つが「弦楽のためのアダージョ」であるからだ。具体的に何を祈るのではなく、ただ「祈る」ことそのものの音楽的表現と考えられる。
そう考えて選曲したのだが、「神の子羊」における「犠牲」の考え方(否定的な考えも含め)を知るにつけ、ただ事ではなくなってしまった。
かつて、昭和天皇が亡くなられた時にNHK交響楽団が追悼演奏会でこの曲を演奏した。これは、葬式音楽としての「バーバーのアダージョ」事始めであるJ.F.kの葬式の真似事に過ぎない。
N響に限らず、多くの国の多くの権威あると言われる、放送局や国営オーケストラが、その国の代表的な人物の葬式でこれを演奏する。なんの意味があったのだろう?
オリバーストーンが映画「プラトーン」でこの曲を使ったのは、大いに意味があった筈だ。
音楽は言葉で考えてもしょうがないところが沢山ある。しかし、音楽に想起された某かは、わからなくても充分意義深い。が、わかれば成る程と合点がいくものであるし、わかれば「葬式音楽ではない」と言ったバーバーの思いにも行き当たる。J.F.Kの葬式でこの曲を使った人はそれなりに理解していたのだろう。その後の「真似事」とは一緒ではない。
そして、一時代を超えて、今、言葉では想像出来ない、被災した多くの人々の痛みや苦しみが音楽で理解されるのである。
残された者の痛み。この曲にはそこに通ずる某かがあるのだ。
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by bassbassbassyy | 2012-03-27 23:32
2011年 03月 21日

松本公演

 多くの方の思いやりと協力によって、松本公演を開催することが出来た。
小さな演奏会だが、もの凄く大きな演奏会になった。
人としての先達に見守られ、意思を共にする仲間と、たまたま通りがかったという方まで含めた多くのご来場者のみなさんとともに、生きていることの喜びを実感した。そして、その喜びは、身を裂くような痛みを伴っていた。
私の知らない人が、瓦礫の下にいる。冷たい海の底にいる。冷たい雨に凍えている。眠れぬ夜を過ごしている。
アンコールのピアノを聴きながら、私は、私の知らないそうした人々と共にいると感じた。

今、この災厄は最も目に見える形で顕われている。
しかし、時間の経過とともに私の目から遠ざかって行くことになる。その地の人の途方もない悲しみや多くの障害を残したまま、やがて、あまり人目につかなくなる。すると、人の心が離れはじめる。
一生懸命節電に協力した人、なけなしの生活費から義援金を出した人、そういう善意の人々の心が段々と離れ始める。社会の負った損害が、今よりもっと浸透して、遠くの人々にまで及ぶようになって来ると、みんな自分が生きることに必死にならざるを得なくなって来る。そのこと自体は社会の不可抗力的な性質と言える。
でも、その地の人の悲しみや障害は、その時でも現実なはずだ。
それは忘れてはいけないことだと思う。

地震の前、リビアやエジプトで多くの市民が理不尽な死を迎えている。その前にも、そのまた前にも、世界の何処かで、自分の隣で、自分の知らない誰かが理不尽な死を迎えている。
ショスタコーヴィッチを演奏し、アンンコールに月の光をやったとき、何十年も前に流刑地のシベリアで死を待ちながら月を眺めている収容者を思った。そして忘れない。

私のような、忘れっぽい人間が言うのもなんだが、人と言うのは忘れっぽい。だから生きて行けるとも言うが、そろそろ、思い出しておいた方が良いことが沢山ある。忘れてはならないことが起きている。

前回のブログでは、非力な私が出来る最良の方法として、必要最低を旨とする生活を書いた。それは確かにその通りだが、それで、別の人を死なせることになる可能性にも配慮する必要はある。

今回の松本公演では、みんなが出来ることをやった。なるべく燃料を使わず、公共の負担をかけず。
議論した訳ではないが、みんながちゃんと災害のこと、音楽のこと、演奏会のことをしっかりと考えて、きちんとした意思をもって、演奏会を開催した。お客さんも音楽を求めていて、私たちが、この状況で音楽をしていることの意味がちゃんと伝わった。
目に見える援助も出来た。みんなの意思で決め、お客様にもご協力頂いて集めた義援金は9万円を越えた。
実は、開催が正しいのか、間違っているのかはまだわからない。
でも、開催して良かった。これは間違っていない。
とても、良い演奏会になった。
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by bassbassbassyy | 2011-03-21 18:49
2009年 10月 16日

唐突ですが、SNSでの話しを受けて   音泉で「革命」を取り上げようとするわけ

前もって言っておきますが、字ばっかです。
事務局長は覚悟して読むように。

 実は、こう言う問題提起を待っていました。
 はいそうですか、とあっさり受け入れるには難儀この上ない選曲ですからねぇ。反対意見が出ないのが却って心配でもありました。
 私は、団の運営を考える上で、この選曲は全く厄介なことであるなぁ、と今でも思っています。しかしながら、音泉としての音楽へのアプローチを考えると、艱難辛苦はあろうとも良い試みではないかとも考えています。選び取ると言う意味においては私には確信はありません。しかし、別の意味では、これで良いと考えていますし、覚悟も出来ています。

 そんな訳で、これから書くことは、この曲を想起する理由ではなくて、この選曲を受け入れる理由です。従って音楽監督がこの曲を選ばれたお考えとも異なるかも知れませんし、チェロ弾き男さんの意見に対する反論にはならないかも知れません。あしからず。
私が、この選曲を伺った際に、考えた順にお話します。

①音泉はそもそもアンサンブルを目的とした合奏団です。アンサンブルで出来る曲ならば何でも演奏の可能性はある、と言うのが基本的な姿勢です。その意味でドヴォルザークのチェロコンチェルトは限界への挑戦、に近い発想がありました。アンサンブルで出来るかという点に関して、音楽監督は「革命」はアンサンブルで出来るとはっきり言っていますので、演奏の可能性からは除外する理由はありません。この点で言えばむしろチェロコンチェルトの方が除外対象に近いのではないかと思っています。

②編成の問題ですが、現状の音泉の活動範囲から言うと、演奏可能な編成の範囲です。
楽器集め、人集めには尋常ならざる努力が必用ですが、幸い、メンバーの協力が得られれば必要楽器、人数は集められそうです。しかし、皆さんの協力が得られなければ無理です。
これについては、これまでのやり方を改めることを検討していますので、おいおい、お話しますね。また、経営的な面においても、これに堪え得る計画を立てるための試みを実施中です。その結果に応じて現実的な算段は出来ると思います。

③音泉で取り上げる曲目について以前よりみなさんに広く伺っておりましたが、具体的に私の元に伝えられた曲目は僅かでした。ただ、僅かながら演奏に取り上げるに非常に意味のある曲目だったので、これを取り上げる手順について熟考しているところでした。直ぐにやるよりも、何かを成し遂げた後でやる方が良い演奏に繋がると考えていたからです。そのとき、この選曲を伺いました。リクエストのあった曲に至るには「革命」は非常に良い題材であり、これまで音泉で取り上げた数々の演奏曲目の線上にはまるものと考えられました。「革命」とその後、幾つかの段階を経た上でそのリクエストにお答えできれば、今、取り上げるよりもより良い、意味深い演奏が出来る、と考えています。

④「その後の音泉」を考える上で「革命」は良い区切りとなると思われました。「その後の音泉」とは、以前の小編成のアンサンブルと言うことです。このことは既に皆さんにお伝えしているところです。しかし「革命」後、直ぐに小さくなれるわけではありません。音泉のコンセプトをもう一度明確にした上で、これまでご協力頂いたメンバーの皆さんに納得いただける形に持っていかなくてはならないと考えています。また、小さくすると言っても音泉で実現しようとしている試みには少なからぬ人員が必要ですし、全てのメンバーがいつでも音泉のために時間を作ってくれるわけではありません。これらを合わせて考察すると少なくとも2管編成分のメンバー表が埋まるくらいの方々が、音泉のメンバーでいて頂かなくてはなりません。私の考えでは、それは「革命」を演奏する人数にほぼ合致します。

⑤人の縁とは、そう簡単に価値付け、評価できるものではありませんが、それでも、誰しもが「このご縁は大切にしなければ」と思うことがあります。音泉を10年間続けてきて色々な方との出会いがあり、親交がありました。どれも貴重なものですが、今この時にそれを深めておかなければ後悔することになるご縁もあります。これは私個人の問題としてではなく、メンバー全員にとって貴重であるかどうかを計るわけですから、そう簡単には言えない事ですが、とても幸いなことに、比較的簡単に、誰もが同じように貴重に思えるご縁に音泉は恵まれました。このご縁を活かし、深めるための選曲という考え方もあると、私は考えています。

⑥「革命」でなければならない、という理由を私自身は明確に見出しているわけではありません。しかしながら「革命」ではいけないという理由は、はっきりと見出すことが出来ません。それならば「チェロコンチェルト」も「運命」も「ジュピター」も何らかの否定的な範疇に入ってしまうでしょう。例えばシューマンの交響曲1番や3番なら、私は明確に出来ないと言うことが出来ます。リストの殆どのオーケストラ曲もベルリオーズもワーグナーの序曲全ても、ドビッシーやラベル、ファリャ。出来ないと言い切れる曲はまだまだ沢山ありますが、「革命」は①②の条件を満たしているならば、出来ないと言える理由が見出せないのです。

 以前「ジュピター」を取り上げたとき、実は私はその選曲に懐疑的でした。良く知られた名曲であり、難曲でもあります。各パート譜に書かれていることは比較的単純で、この曲を難曲たらしめているのは、むしろ音符の隙間にあります。皆さんがこの曲を3回舞台に乗せ、その度にしっかりと練習することに飽きてしまうのではないか、音泉らしい「ジュピター」は出来ないのではないか、我々としての完成度に比べ聴衆の耳が既成の「ジュピター」に慣れすぎているのでは、等と色々懸念しました。これらの懸念が的外れであったことはそれぞれの演奏会で証明済みですが、同時に、あんなに良い演奏が出来たのに、ある種の未熟さも露呈したと思います。
 音楽には、否が応でも立ち向かわねばならない試練が付きまといますが、出来る出来ないに拘わらず、これとしっかり対峙する姿勢が音泉には薄れつつあったと思います。しかも「ジュピター」で露呈した未熟さは我々でも充分に乗り越えられるものでした。これを端的に指摘したのは亡くなられた平世さんです。
 「革命」には音泉に必用な姿勢を求める素地があります。比較的に解りやすく、技術的には困難でも、感覚的には「バーゼル」に比べれば少し楽かも知れません。しかも、弦と管との絡みの中で実現します。ステップとして捉えても妥当と言えます。

 それから、何より大事なのは、やってみると案外、楽しいかも知れないということです。
ショスタコヴィッチの楽曲はとても多いので全てを知る訳ではないのですが、同年代のその他の作曲家と比べると良く耳にしてきた方ではないかと思います。でも、今この曲に対峙した時、少なくとも自分は何も知らないことを認めざるを得ない。それを解き明かして行く楽しみがあります。テクニカルな苦労ならベートーヴェンの4番や9番も同じではないでしょうか?「革命」の2楽章はきっと楽しく弾けると思いますよ。

 音泉は趣味の集いですから、楽しくあるべきだと私も考えています。その楽しさを追求するにはどうしても苦しいところも背負わねばなりません。音楽をまじめに楽しむ、と言うことは、何も苦しい練習を沢山してプロのように楽器を扱えねば駄目だ、と言うことではありません。苦しいところも全部含めてしっかりと向き合い、各人なりの方法でこれにアプローチすることが、音楽を楽しむことだと思います。その各人が集まっての音泉です。苦しみをも共有するからこそ楽しみもあるのではないかと思います。

 音楽を広義に捕らえて人間活動の一環であり、社会性の一面であり、歴史である(つまりは文化ですな)とすると、アマチュアの演奏とは常に何某かの責任放棄を伴っています。作曲家に対し、楽曲に対し、聴衆に対し、人生を賭して音楽に掛けている演奏家に対し、社会に対し、歴史に対し、そして自分自身に対し。私は必ずしも皆さんに同意を求めるものではありませんが、出来ればそれを、我々は我々なりに音楽に対峙している、と言うことで少しは補いたいと思っていますし、その思いは共有したい。ですから、音泉の運営においても常にそういう側面を意識しています。ある楽曲を演奏するからには最低限、何々だけは皆で分かち合えるくらいにならないと意味がない、と言う目標設定をしています。そして、それは連綿と続いている。メインと言われる曲も、アンコールも、デュエットも、40人からの交響曲もです。全部が連綿と繋がる中で、一つ一つの音楽に託されているものを少しでも大切にしていきたい。大切さを増したい。この思いと、監督の選曲のあり方は今のところ一致していると思います。
 
 選曲の手順は、皆さんからのリクエストに基づいて監督と私が相談して決めています。相談とは言っても、選曲は音楽監督の先権事項です。監督が気遣って相談してくれている、というところですね。反面、監督の決めたことを代表としての私が否定するとなれば、これは音楽監督の任免事項に繋がります。取り上げる楽曲に反対したからと言って、音楽監督を辞めてください、とは決して言いませんが、音楽監督からすれば同じことです。監督も相当な覚悟で選曲に臨んでいる。これを大した理由もなく駄目出しすれば、不信任と取られても仕方ないでしょう。皆さんには全く見えないところでの話ですが、音泉が民主的な運営手法をとらない以上、私も監督もそれなりの緊張関係を保ちつつ運営にあたっています。いくら明確な規則はないと言っても一つの楽団である以上、歴史的な踏襲による一定の不文律は守らねばならないと言うのが私の持論です。そうした中で、今のところ音楽監督は充分に信用出来る選曲をしていると、私は自信を持って皆さんにお伝えすることが出来ます。

以上、6項目が音泉で「革命」を取り上げる訳で、付随する事柄を少々付け加えました。言葉足らずで意味不明、理解不能、もしくは、このような考え方に対する反論、意見、何でも仰っていただけると嬉しいです。一人で考える事には限度がある。みんなで考えて参りましょう。

選曲に対する意見を始めに述べて頂いたチェロ弾き男さんには、良い機会を作っていただいたと思います。ありがとうございました。叶うならば、チェロ弾き男さんに続くコメントがあればと思ったのですが、ちょっと、言いにくいことでもあるかも知れませんね。でも、言いにくいなんてことはまるでありませんので、余計に気遣わずどんどんコメントして下さい。
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by bassbassbassyy | 2009-10-16 00:36
2009年 08月 17日

ブラームスはお好きですか?(4)

投稿が!少ない。007.gif
まあ、そうだろうな、とは思ってますけど、少な過ぎる!021.gif

怒っても、しょうがないので(怒っちゃいないけど)、続きを書く前に、監督が投稿して下さった事柄について、ちと、解説というか、折角なので詳しく書きましょう。017.gif

前々から言ってますが、わたしたちは何かを考える時に言葉で考えています。今日の晩ご飯は何にしよう?トンカツが良いかな? とか、みんな言葉で考えています。音楽を考えるときも言葉で考えてる。

汐じゃなかった塩味を強くしようか、味噌味にしようか、と想像して料理するのと同じように、暗い感じで奏でようか、滑らかに吹こうか、この旋律には望郷の念が出ているはずだ、と具体的に言葉で考えて演奏をする。自分自身がタマネギや人参や牛肉になって、ただ良い素材であろうとしても駄目です。

ちゃんと、自分で料理して、その料理を持ち寄る事で宴会になる。その為には、ちゃんと音楽も考えて作っておかなければ駄目よ、と言う事ですね。

さらに、物事は何でもそうだけれど、頭の中で考えた事は言葉にして口に出す、出来れば文章にする、ことで補強される。他の人と語り合う事で補完される。
最終的には楽器で具体的にする訳だけれども、それ以前に自分の意志をはっきりさせる事はとても重要で、「こう弾くのだ」と言う意志もなく、ただ譜面に書いてある記号部分を表層的になぞっていても実は効果的な練習にはなっていない。「こう弾くぞ」と具体的なイメージをもって練習する事で楽器は「音」ではなく「音楽」を奏でることになる。

これをみんなで持ち寄るから、楽しい宴会が出来ると言う訳です。043.gif

 一人で練習する、これは必要な事だし大事なこと。しかし、楽器の基礎的な訓練でさえ、「自分はこう弾く」と言う具体的なイメージを持たなければ、決して音楽には結びつかない。まして、合奏を目指すならば、仲間と音楽について語り合う事は、一緒に練習する事と同じくらい大事なことなのだと言う事なのですね。041.gif
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by bassbassbassyy | 2009-08-17 10:48
2009年 08月 06日

ブラームスはお好きですか?(2)

”情緒的で甘美”、良いではないか。そう聴こえるのだから、そう演奏すれば良い。これも一つの意見ですね。冒頭の「シ~ソ」にうっすらとポルタメントを入れてみたりしてね。ちょっとゆっくり入ると言うのもありますな。シを少し長くたっぷりとして息を合わせるとかね。色々あります。016.gif

でも第1主題を覆ているのは、相当な緊張感ではないかと思うのです。最初から落下と跳躍の連続。しかも、第1楽章はソナタ形式だけど、第1主題は少しずつ形を変えて第2主題や展開部にも出て来る。第1楽章全編にこの第1主題が変奏されてちりばめられている。のみならず、全楽章、曲全体を暗示している、と言うのが私の見解です。譜面だけ見ていてもあまりわからないんだけれど、実際に演奏した時に、どこかでこの第1主題が鳴り続けている。これは間違いない印象なのですが、そう思ってスコアを精査すると、実際にそうなってる。賑やかな、第3楽章でさえ第1主題が隠されている。034.gif

この第1主題に、何かを差し挟む余地なんてないんじゃないかな。まあ、大雑把でちゃんとした言い方ではないけれど、この交響曲を大きな変奏曲にみたてると、冒頭からの8小節間は変奏曲のテーマと同じで、ここで変なことをすると後の重厚長大な(何しろ4楽章まであるのだ)変奏部分でテーマが想起されにくくなってしまう。かなり、観念的な言い方だけど、そう言うこと。そう思うのです。楽譜に書いてある以上の何かをして、敢えて、この曲の表裏に染込まれている第1主題との繋がりを薄めてしまう程の何かの効果と言うのはちょっと考えにくい。繋がりを解いて別の物を目指すと言うのなら話しは別だけれど、それでは音泉でこの曲をやる必要はないですからね。きちんと指揮者のいるところでやれば良い。だから、情緒的ではいけないのです。014.gif

さて、”情緒的で甘美”はいけない、と決めつけてしまうとかえって、茶々を入れたくなる。管楽器ですな。「dolce」と書いてある。ド~ルチェェェ、である。しかし、やりにくいドルチェですね。スラースタッカートにご丁寧に休符まで入っている。甘味料たっぷりのべとべとと甘ったるいドルチェではなさそうだけど、単純に機能的な後打ちでもない。池辺晋一郎さんが「ブラームスの音符たち」で指摘しているように、これはカノンですな。不完全なカノン。1小節1和音を優先する為に不完全に終わるカノン。しかし、大事なカノンです。ルネッサンス期に多くの技法が生み出されたカノンは、ブラームスの尊敬するバッハが傑作を沢山書いていますね。そのカノンの技法を冒頭に持って来た。しかも、和声の進行を優先する為に不完全に終わるカノンを、です。dolceはこのカノンを意識したものであることはまちがいありません。つまり、後追いの旋律ですね。後打ちではありません。です。管楽器の方(フルート、クラリネット、ファゴット)はこのことをちゃんと意識しておかないと、味気ないことになりますね。015.gif

そして、和声。カノンに優位する和声。これは主にヴィオラとチェロによって分散和音で示されますが1小節ごとの展開です。8小節間に8つの異なる和声。ただし、2番ホルンとコントラバスは4小節間ペダルです。後半は受け継いだ4番ホルンとバスが3度、4度、4度、4度と下がるので1回転半して主音の下属調になりますね。この大旅行を終えてすっかり元に戻ろうかと言うところで戻らない。バイオリンのCの音に導かれてもう一つ別の旅に出かけます。重々しく苦渋の旅ですね。これを、たったの8小節間でやってのける。しかも、表情は緊張しまくりのP(ピアノ)です。まあ、若干の抑揚はつくでしょうが、基本的には音量の変化はありません。009.gif

ヴァイオリンとコントラバスは何をする余裕もなく、ひたすら、緊張感を維持しなくてはなりませんね。ともかく緊張感を持続します。ヴィオラ、チェロはどうすべきか?第1は音程。1小節ごとにきちんと響きが変わって行かなければならない。アルペジオだから難しいですね。もう一つ、私なら、このオーケストレーションで有り勝ちな運びのギクシャクや緩慢が起こらないように「歌(dolce)」でカバーしますね。ヴィオラ、チェロの上向形分散和音ではヴィオラは喰って入って上で緩んでちょうど良い感じではないでしょうかね。どうだろう?006.gif

木管楽器も2拍目は気持喰う感じでちょうど良い。これが、如何にも喰ってる喰ってる、ってわかるようでは駄目なので、歌を用いいる訳です。しかも、歌っていることも感じさせないような歌でないと駄目です。001.gif

これらは相当に積極的なアプローチですよね。たった8小節だけですが、相当疲れる。神経使って、色々考えて、アンテナ張り巡らせて、とても大切なものを、何事もないように提示する。ただあるがままに。そうすることで、このテーマが後々様々に現れる中で、徐々に人の心に染込んでゆく。曲を聴いている人は、始めは「む!」くらいの感心だけど聴き進めて行くほどに、それぞれのイマジネーションが広がって、後から思うに「情緒的で甘美」な印象となる。このテーマは、最初から”情緒的で甘美”なのではなく、そんな仕掛けの結果として生じる訳です。そのためにも、”情緒的で甘美”な始まりをしてはいけないと思います。どうでしょう?041.gif
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by bassbassbassyy | 2009-08-06 22:16
2009年 08月 03日

ブラームスはお好きですか?

サガンをどうこう言おうと言うのではありません。あくまで、ブラームス
しかし、改めてこう訊かれると、「好きです」と答えてしまう。
みなさん、如何ですか?030.gif
何だかんだ言ってはいますが、私はブラームスが好きです。
「さよならをもう一度」(「ブラームスはお好きですか?」の映画化)ではブラームスの3番の第3楽章(例の奴)が効果的に使われて、まあ、なんちゅうか、人生の淋しさ、儚さが上手いこと表現されておりました。イングリッド・バーグマンは奇麗だし。人生の寂寥の部分に触れるところが良かったですな。ブラームスの音楽には全般にそんなところがある。心の琴線に触れる何か、ですな。
これを「ロマンチック」と言うのが大方の見方のようですね。
これから音泉で演奏する第4交響曲なんか最初から、キター!と言う感じですね。
念のため、ロマンチックという言葉の意味を調べてみると、「現実を離れ、情緒的で甘美なさま。また、そのような事柄を好むさま。空想的。「―な夢にひたる」」となっています。”情緒的で甘美なさま”にちょっと悲しい感じを付け足すと、冒頭の主題はまさにそうしたイメージと受け止められるのかも知れませんね。演奏でも、色々な録音がありますが、殆どどれを聴いても、このイメージと相違ない演奏です。"情緒的で甘美”です。016.gif

でも、少し考えると、この"情緒的で甘美”にはどうしようもない違和感が生じます。021.gif

ブラームスは間違いようもなくロマン派の作曲家ですから時代の潮流の中で「言葉的なもの」を音楽に織り込んでいたとしても、至極当たり前のことのようですが、本人はそういうことを望んでいなかったようです。ブラームスはベートーヴェンに憧れ、バッハを敬い、形式や様式を重んじていました。ご存知の標題音楽と絶対音楽の論争では絶対音楽作者の代表的存在として担がれていましたし、本人もそのことに異議を唱えてはいませんでした。一方の標題音楽の先鋒は可哀想なブルックナーが(ワーグナーの代理として)担がれていました。このことが”情緒的で甘美”という印象と馴染まなくさせています。
こういうときは、疑ってみる。
あの、第1主題は本当に”情緒的で甘美”で良いのか?
ブラームスにとって交響曲とは純粋に音楽的なものでした。言葉で表現出来るものならば詩にすれば良い。それで足りないのなら詩に音楽を付ければ良い、くらいの考えではなかったかと思われます。器楽曲作家のように見られ勝ちですが、民謡を採譜したり、詩に曲を付けることはブラームスにとって楽しみでもあり立派に創作の仕事の範疇だったようです。既にある言葉の作品に器楽を持ち込むことはしたのです。しかし、器楽曲には言葉を持ち込まなかった。どの器楽曲にも標題的なものはありません。頑に絶対音楽的であった訳です。音楽の元となるテキストは一切用いられていませんでした。となれば、もし、”情緒的で甘美”なイメージがそこにあるならば、それは「想念」として組み込まれたことになります。しかし、ブラームスの伝記を読んでもそのような記述は見られません。まあ、これについての見解の一つは調性から得られるのですが、それは別の機会にお話ししましょう。
結論から言うと、楽曲そのものに"情緒的で甘美”なる物は織り込まれていない、と言うことです。ただ、この曲を聴いた人が、心に”情緒的で甘美”な某かのイメージを湧かせやすいということ、なのだと思います。
これは、演奏する場合にはとても重要なことだと思います。特に4番のような出だしをされると、演奏者にも"情緒的で甘美”な思いが沸き上がって演奏をそのようにしてしまいかねない。説得力のある演奏の一つとしてそのようなやり方をする「指揮者」は大勢いるだろうけれど、少なくとも音泉ではこれは出来ない。022.gif

ブラームスの4番の音泉の演奏では”情緒的で甘美”は根拠が見出せない限り考えないことにしたい、と言うのが現在の私の考えで、幸い、監督も同様なお考えからその方向で進まれるようです。
問題は、みんなでそのように出来るのか?と言うこと。長年親しんで来た、場合によってはそのように演奏したこともある”情緒的で甘美”なイメージを払拭出来るか、と言うこと。なにしろ冒頭から、だもんね。
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by bassbassbassyy | 2009-08-03 01:32
2009年 06月 12日

音泉ブログ登場

色々な方法を試みてきたけど、中々上手くいかない。コミュニケーションとは中々難しいものです。
そんな訳で、これも試み。
ともかくやってみましょう。a0126211_1018730.jpg
やってみないとわからない。やってみて初めてわかることはやらないとわかりませんからね。
皆様、ここが意見集約の場になれるよう、どうぞ投稿の方、宜しくお願い致します。
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by bassbassbassyy | 2009-06-12 10:22