カテゴリ:音楽( 41 )


2011年 03月 16日

確信

 前回、松本公演の開催を強く宣言しました。
これは、覚悟のためです。
確信ではなく、覚悟です。
「行動が思想を決定するのだ」とのセリフ、記憶にある方はまだまだ多いと思います。
何と心細く、気弱な言葉だろうか。こんな言葉に酔わなくては起こせなかった行動とは何であろうか、と思います。
今日、団内から「何故開催するのか?」「止めた方が良い」との意見が届きました。
開催するぞ、との号令下、みんなが苦労して準備を進めている最中で、それを知りながらこれを言うことはとても勇気のいることだったと思います。
そして、その意見を聴けて、とてもほっとしている自分がいます。
多分、出演するみなさんが多かれ少なかれ持っている気持であり、意見だと思います。
さらには、日本中の大多数の方が、同じ立場にあれば、そのように思い、考えるだろうと思います。
これは、とても大事なことです。

今、被災地では、食料、衣料、燃料、薬剤等、あらゆるものが不足していて、少しでも手に入れたいとの思いは、生死に関わるところから発せられています。あらゆる援助を待ちわびている。
直接的な援助の手段を持たない我々に出来る最良のことは、物資の消費を節約し、公共の施設設備を必要最低限以外利用せずに、余力として社会に蓄えさせることです。これが、巡り巡って被災地への援助の厚みとなる。電気を節約する、病気にならないように細心の注意を払う、事故を起こさない。こうした少しの努力を集めることで、被災地で電球1個を灯すことになったり、医師を一人派遣出来るようになったり、消防士を一人、救援に携われるようになったりするのです。

なのに、何故、燃料と時間と労力とその他諸々を使い、周囲の人に時に迷惑をかけ、助けてもらいながら長野で演奏会を開催するのか。
本当にそんなことをする必要があるのか。
こんな時に開催しても、お客さんも来ないし、反感を買うだけではないのか。

私は演奏会を開催する理由として正当性のある説明が出来ません。
正しいか間違っているか、わからない。少なくとも正しいときちんと説明することは出来ない。
でも、必要と言うことならば、必要だと言える。
多くの方に無駄と思われることをして、正しくないと思われるかも知れないことをして、しかし、これは必要だと言うことが出来る。
私自身は非力で何も出来ないような人間です。一人で楽器を弾いても誰かが聴いてくれるような美しいメロディーは奏でることが出来ません。そもそも、その為の楽器ではないし、そうした楽器をそこまで高める技術も持ち合わせていません。何人かに集まってもらって初めて音楽として聴いて貰えそうな曲の一部分を受け持つことが出来ます。いつも誰かと一緒にやることでしか音楽を作れない。音楽の中で、共にあろうとする積極的な意識と姿勢が互いに出会うことでしか、何かを伝えられない。
でも、いつもそこにあるのは拙くても素晴らしい音楽です。
聴いてくれた人がお世辞ではなく、楽しんだり、ほっとしたり、悲しくなったりする音楽です。
音泉にはそれが出来る。
そうしたことが、世界に必要ではない時があるとは思えない。
全ての人に必要かどうかはわからないけれど、多くの人に必要なはずだと言うことはわかっている。
今は尚更必要だと言える。日本中が怯え、緊張している。
だから、やれることをやろうとするならば、慎ましく生活することも大事だし、それはやれるし、するのだけれど、けれども、その前に、それと同じくらい、大切なこととして、音泉として演奏をすることだと思う。
それは、同じようなことが出来る人々もいるとは思うけれども、音泉でなければ出来ないことに違いないのだ。

当たり前のことを、中から、きちんと言って貰えて、私は恵まれた代表だと思う。
そして音泉は充分に多くの迷いと躊躇の中で健全だと言える。
このブログをご覧になった出演者は、少しは確信に近づけたであろうか?
私は、おかげで、演奏会前に確信が得られた。
みなさん、しっかりやりましょう。
[PR]

by bassbassbassyy | 2011-03-16 23:09 | 音楽
2011年 03月 12日

松本公演

20日に予定している松本公演について。
本日時点では開催予定と致します。

大規模な災厄が生じた後の、演奏会等の催しは、被災された方への配慮は当然あって然るべき。
しかし、配慮=自粛と言うのは少々短絡に過ぎるように思う。
戦争中、「歌舞音曲」と全部ひっくるめて官憲に揚げられてしまった時代とは違う。
また、平成になった時に何でもかんでも自粛となったのともわけが違う。

話しはそれるが、私が、団のみなさんにメールで送ったり、ここに記したりしている事柄、テクニカルなことから心情においてまで全てについて、「精神論」をぶった覚えは一切ない。僅かな方に山崎の「精神論」には不快を覚えると言うようなご指摘を受けた。どうやら「精神論」の意味を知らないで使っているらしい。ふざけた話しである。

でも、今日は「精神論」として記したい。
遺憾ながらも、松本公演は時期的に追悼であり激励である演奏会になる。
地震から生じた一連の災厄のせいだから、全く持って遺憾である。
しかし、追悼と激励は人として当然の心情ではないか。
ならば、遺憾等とはせずに誠心誠意追悼し激励するのが音泉としてのあるべき姿であると考える。
このような成り行きもまた、音楽に対して正直であるべき道筋ではないかと思うのだ。
そして、追悼であり激励であるならば、いつの演奏会にもまして真摯であるべきと考える。
演奏自体はいつもと同じ様に音楽に集中すれば良いのだが、そこに無なる境地を付け足したい。
音楽か無か、ではなくて音楽と無である。
そうして音楽を捧げたい。
災厄に遭われた人々、そうした人々を救うために頑張っている人々、何か手助けをしたいと考えている人々、立ち上がろうとしている人々、そして、既に何も感じることの出来なくなった人々と、その人々と繋がっている全ての人々へ。

このような心情をみんなに無理強いして物理的限界を超えようとすることが「精神論」である。
「精神論」が何であるかも知らずに言葉遊びをするような人間は必要ない。
今度の松本公演ではこの「精神論」で行くのだ。
[PR]

by bassbassbassyy | 2011-03-12 22:19 | 音楽
2011年 02月 16日

誉めて生じること

子供を育てていると、難しいと思うのが誉めることである。なので、難しく考えないために、誉めたいと思った時に誉めることにしている。でも、要注意なのがその他の兄弟である。とある状況で、弟を誉めたとき、それを見ていたお兄ちゃんがどう思うか、これには少し配慮がいる。

以前、秋の本番を翌週に控えた、とあるオケのリハに参加した時のことである。
中々思うようにならずも、少しは集中して一定の成果を見せた前半練習後の中休憩時間に、指揮台に上がった中年の団長さんが、事務連絡かと思いきや、いきなりセカンドヴァイオリンの若い女の子を誉め出した。その子は社会人2年目の公務員さんで大学生になってからヴァイオリンを始めたとのことだから、まだ楽器を持って6年。オケで弾くには充分なテクニック等持ち合わせていない。それが、とても良く練習していて上手になった、と、言うのである。目立たない子で、セカンドヴァイオリンのいつも後ろの方で弾いているから、目の悪い私には顔も良くわからない。私は耳もあまり良い方ではないので、どのぐらい上手くなったのかまるでわからないのだが、ともかく上手になったと言う。
さすが、団長さん、良く団員さんのことを見ているものだ、と感心した。
いつも、眠い目を擦ってリハに望んでいるどこぞの団長とはえらい違いである。

でも、その後が良くなかった。

彼女は仕事が終わってから毎日2〜3時間も自主練習して頑張っている。だから上手になったのだ。と団長さんは言う。確かにそれだけ頑張れば上手くなるだろう。これは良い。
みんなも、頑張って練習すれば上手くなるのだから、ちゃんと自主練習をしなさい。と団長さんは言った。これがまずかった。
ああ、これはちょっと配慮がないかな?と、思ったら、案の定、後半練習のみなさんのモチベーションは下がりっぱなしで、だらしのない練習になってしまった。田舎のオケで、団員の皆さんは純朴素朴な方が多く、それだけに団長の言葉が痛かったようだ。

全く、同じようなことが、この間、あるオケのリハで起こった。同じ結末に至った。
どこでも、いつでも同じようなことが起こるものである。

頑張って沢山練習をして上手になった方の努力はとても尊い。
それは間違っていない。
もし、これを、それなりの年齢から初めて、それなりの練習量で、それなりの努力で、それなりの先生について、それなりに勉強もして、まあ、他にも色々あるだろうけれど、頑張ると、プロになれるかも知れない。
でも、市民オケの団員は違う。
たまたま、時間が取れて、先生にもレッスン受けて、一生懸命練習した。けれど、上手く弾けない人が稀にいる。何がいけないのか、くよくよと思い悩んで、寸暇を惜しんで練習する。でも上手くならない。
もう少し多くの人は、たまたま、時間が取れて、練習するけど、先生に見てもらえず、独自の効率の悪い練習しか出来ず、上手くならない。
もっと、多くの人は、時間がなくて、それでも、何とか時間を見つけて、効率の悪い自己流の練習をして上手くならない。
そして、大部分の人は、本当に仕事に忙殺され、生活に謀殺され、疲弊したところで時間もなく、毎週のオケの練習時間が自分の楽器の練習時間だったりする。当然、上手に弾けるようになどなるわけがない。でも、音楽がやりたくて市民オケに所属して、本当にぎりぎりなんとか、オケに来る時間を作ってやってくるのである。定時に帰り上司に睨まれ、遅くに帰宅し奥さんに睨まれ、若しくは夕食を作らず子供にぶつくさ言われ、あちこちに迷惑をかけて、ぺこぺこ頭下げてやってくるのが、多くの市民オケの団員なのだ。練習して上手くなれ、と言われても練習することが出来ないのである。
それを、たまたま、時間を作ることが出来て充分に練習出来た人と比べられて、同じようにやれ、と言われれば、気持が萎えるのは当たり前である。個人練習の出来ない自分はここにいてはいけないのか?と思ったりもする。
音楽家であるマエストロやトレーナーに言われるのなら仕方ない。しかし同じ団員でもあるはずの団長から言われてしまっては、立つ瀬がなくなってしまうのである。
では、市民オケは上手くならないのか?そんなことはない。音楽はテクニックも大事だが、知っていることも大事なのである。音楽を知っている、こと、である。リハのマエストロはテクニックについても語るが、殆どは音楽の知って欲しいところを語っているのである。これが伝わらなければオケは駄目なのだ。
まあ、でも、これは、実は結構どこにでもある話しなのかも知れない。

さて、誉めることで生じるのはこれだけではない。
むしろ、こっちが原則である。
誉めた側に虚栄心があると、これは少しもののわかった人には瞬時にバレてしまう。そしてシラケる。誉められた本人がもののわかった人ならば、馬鹿にされたと思うだろう。
ところが、誉めた本人は、以外とそこに気が付かないのである。だから、必ず繰り返す。
誰かを誉めて、その人の周囲の人々のモチベーションまで高めるには、まず、誉める人間が虚心坦懐でなくてはならない。

私はなかなかその境地に達しないので、人前で誰かを誉めることがそうそう出来ない。

誉めて生じる「+」はあるけれど、きちんと考えてしたいですね。良い勉強になりました。
[PR]

by bassbassbassyy | 2011-02-16 23:36 | 音楽
2011年 01月 02日

一生懸命と本気

年頭のご挨拶に、今度の東京公演に出演するみなさんにご挨拶のメールを送りました。
当たり前の言葉で、今更ながらの「一生懸命」と「本気」を使いましたが、ここで改めて辞書を引かれる方は、まず、いないと思いますので、ちょっと、書いておこうかなぁ、と、思います。
国語の先生なら良くご存知のことと思いますが、「一生懸命」はもともと「一所懸命」から起こった言葉と言われています。比較してどっちが正しいと言うようなことはもうないような程、両方とも親しみのある言葉ですね。でも、「一所懸命」はその字の通り「一所」=「領地」を命懸けで守ることを示す言葉なので、場所や立場やものを死守するさいに使用する方が気持的にしっくりします。一方、「一生懸命」は何をするのでもともかく、命懸けであれば「一生懸命」として使って差し支えない訳です。
さて、これを踏まえて、あえて「一生懸命」を極々当たり前に使ってみました。本当は「一所懸命」を使ってみたい気持もあったのですが、この点については「その心は・・・」、お読みになったみなさんが「整え」て頂くのが宜しいかと存じます。
次に、「本気」ですが、これは本気以外の説明のしようがない言葉です。まあ、「真面目な気持」と言う説明がありますが「真面目」を辞書で引くと「本気であること」となります。
そんな訳で、辞書で引いて「本気」となる言葉が最初にありました。「真面目」「ぞっこん」「等閑」です。最後の等閑は「本気ではない」という意味です。
さて、「真面目」ですが、。元々はしきりに瞬きをする様をさしていた言葉だそうですが、これには「誠意のある」と言う意味が込められています。「等閑」は「誠意のない様子」と言うことが直ぐに浮かびますね。これは両方とも「様」から「心」を判断して指し示している言葉です。行動や様子から人の心が読み取れるとする考え方が基礎にあります。従って、そもそもの行動や様子が「本気」と受け取れないようなことでは、問題外、と言うことです。
さて、「ぞっこん」はおおまかの説によると「心底」に由来するようです。「心底より申します」と言う言い方が昔にはあった様で、「ウソ偽りのないことを言う」と言う意味と「私の言うことをきいて下さい」という意味があったのではないかと思われます。これは先の二つの例とは異なり自分の心を基に本気であることを指し示している言葉だと私は理解しました。
本気であることには、行動や様から読み取れる面と自身の心の底から顕われるという面と二つの意義があるのですが、両方とも大事なことだと思います。
私自身がそうでなくてはならないことなので、あまり人のことをとやかく言っては申し訳ないのですが、どうしても、そうであって欲しいなと思ってしまう方が見受けられる。と、言うか、人は時々そうなってしまう。私自身がそうなってしまう時がある。
でも、そう言うときはきっと、こんなブログは読まないのでしょうね。
難しいですね。
当たり前の言葉に、これだけの意味があるのは書いている私自身驚いてしまうのですが、「全て」ではないのですが「つきつめて」物事を考えることは意義のあることです。
音楽もそうです。
一つの曲もそうだと思います。
「これ」は「こうだ」と強く主張するためには、それなりの説得力を持たなければならない。
思い付きや一時の感性だけでは、どうにもならない。
ショスタコーヴィッチだってリヒャルトだって、丸山先生だってみなさんそうです。
だから、やる方も、一生懸命、本気で演奏しなきゃいけないのです。
[PR]

by bassbassbassyy | 2011-01-02 22:01 | 音楽
2010年 09月 16日

そろそろ、ショスタコーヴィッチの話しをしよう。

でも、ゆっくりとしか出来ない。

そもそもボロボロだったミニチュアスコアーが引っ越しのどさくさで、何処かに入り込んでしまったのを機に、近所にあるヤマハで全音のミニチュアスコアーを買ったら、記憶にない解説がついていた。以前持っていたのは音友だったらしい。
まあ、それはともかく、寺原信夫さんの書かれた解説で印象的なのは、誰もが語る当時のショスタコーヴィッチがおかれていた背景を綴った後に、「第5交響曲の特徴について」と題して、ショスタコーヴィッチ自身の話しや論文、また、トルストイの書いた記事を通して、楽天性や明るさを紹介していることである。作曲家:寺原信夫自身の言葉としてではなく、作曲家本人と当時のソヴィエト連邦を代表する芸術家である文豪の言葉を、当事者の証言として、それを裏付ける権威の証言として、紹介している。「大いなる精神的葛藤の悲劇的衝突を通じて、世界観としての楽天主義を主張したかったー」とショスタコーヴィッチが言っている。「ショスタコーヴィッチの明るい人生観は、ソビエトの聴衆に理解され受け入れられたー」とトルストイが言っている。解説を書いた寺原信夫さんは自分では何も言わない。
これは、解説なので必ずしも著者自身の考えを書かなくてはならないとうものではない。一般的に理解されているところの事柄を紹介するのは至極真っ当なことである。でも、「変」なのだ。

ショスタコーヴィッチが楽天的で社交的な人物で、ブラームスのようにいつも不機嫌で、ベートーヴェンのように誰彼かまわず怒鳴りちらしたり、シューマンのように自分の殻に閉じ篭ったりしなかったのは本当のことだと思う。サッカーが好きで子供が好きで、「証言」にあるようには、軽々に人を貶めるようなことは言わなかったはずだ、と言うのも本当だと思う。
でも、本人が言う「世界観としての楽天主義」の主張は信じられない。
多分、寺原信夫さんも信じられなかったのではないかと思う。

私は、素人で、専門的な知識を持たないので、あまり逡巡しない。
もし、本当に「世界観としての楽天主義」ならば4楽章はハ短調からハ長調にするだろう。1楽章もハ短調となるだろう。ニ短調は変だ。
こう感じてしまうのは私が調性に対してきちんとした知識と考察力を持っていないからかも知れないし、ショスタコーヴィッチの調性に対する考え方を知らないからかも知れない。
若しくは、ベートーヴェンの真似は出来ないと考えたのかも知れない。

でも、こう考えたらどうだろう?
「良心、または正義観としての楽天主義」
これだと、ニ長調と言うのは中々にすっきり収まる。

どうです?
みなさんは、寺原信夫さんの解説をどのようにお読みになりますか?
[PR]

by bassbassbassyy | 2010-09-16 02:18 | 音楽
2010年 09月 13日

すべきこと

 Aオケの定期演奏会、みなさまお疲れ様でした。
凄い演奏でしたね。毎回だけれども、演奏後の疲れ方が尋常ではない。
私は、「団友」という立場で、ひょっこり現われて、しめしめと演奏しているのですが、団員のみなさんが半年間かけて積み上げて来たものを壊すこと無く、出来うるならば、より効果的な演奏でお役に立てれば良いなと思って、望んでおります。なかなか、思うようには演奏出来ず、充分にお役に立てているとは言えないのですが・・・。
毎回毎回思うのは、もっと練習してきちんとやらねば、と言うことです。
本番が終わると、本当にすべきだったことが色々わかって、あそこもここも出来なかったなぁ、と思う。
すべきことを、ちゃんとするのは、やはり難しいことなのですが、やらなくちゃいけませんね。
S先生へのご恩や、監督や、音泉の団員でもあるAオケのメンバーや、私を親しく受け入れて下さっているAオケの団員のみなさんのお気持ちに、少しでも答えられるようにしたいです。
今日は仕事も休んで、ダラダラ、ゴロゴロ、本当に何もせずに粗大ゴミ化して家人にも迷惑をかけながら、そんなことを考えていました。
一生懸命やりますので、また、宜しくお願いします。
[PR]

by bassbassbassyy | 2010-09-13 22:43 | 音楽
2010年 09月 09日

久しぶりに、ショスタコーヴィッチ

映画評論家の故水野晴朗さんが007シリーズの「ロシアより愛をこめて」を、「007危機一発」との邦題で映画ファンだけでない多くの人々に興味を湧かせた話しは有名である。
特に「危機一発」との当て字を使う当たりは心憎い。
このような成功例(?)ではあるのだが、違和感は拭い得ない。
フレミングの原作も、映画も、ロシアは出て来ない。故に、解り易く、人々の気を惹きやすい邦題を付けた訳だが、映画を見てしまうと、「ロシア」に俄然意味が見出せて、折角の邦題も煤けて見えるのである。
興味のある方はレンタルDVD観るか、小説を買って読んで下さい。

さて、邦題が非常にまずい具合に作用してしまった例がある。
「革命」
この邦題を考えた方は凄い。
本当に革命っぽく聴こえてしまうのである。

でも、本当は「革命」とは殆ど関係ないのである。
ショスタコーヴィッチ:交響曲第5番「革命」
って、言われると、もう、「革命」なわけだけど、本当は関係ない。

まず、多くの方にこの呪縛から解き放たれて頂かなくてはならない。
これからは「革命」ではなくて「タコ5」と呼びましょう。

さて、広報部長、音泉では「革命」、どうします?
標題ついている方が、お客さんは来やすいんだけれど。
[PR]

by bassbassbassyy | 2010-09-09 22:42 | 未分類
2010年 06月 02日

宇宙と人

2回目の合宿が終わり、あともう少し蒸し暑くなると、本番である。
今度の軽井沢公演においてホールに響くのは宇宙と人である。
文学的表現としての無機的な宇宙は、如何様な方法であれ観測され表現される。そうした時には既に有機的な何らかの象徴である。知覚することにおいて人の介在がないものはないように、我々の知る宇宙は人の仲介した宇宙である。初めて火星の表面を見た人は、人がそれを見ることが出来るように操作した結果を見ているのだ。だから、我々の見る物は全て人に還る。我々は物を見て人を見るのだ。己を見るのである。
こんな極端な物言いを真に受ける人は随分少なくなったけれど、でも、これって本当の一部ではある。
あまりバカにしてはいけない。
必ずしも意図していたわけではないが、今度のプログラムは、そんなプログラムなのだ。
そんな、って、どんな?
と、言われれば、来てみればわかる、と言うに決まっているので、こんな問答はただの宣伝である。

「ケフェウスノート」という曲は透明な印象のある(ある意味無機的な)響きで構成されたヴィジュアル的宇宙なのだが、これがとても人間臭い。別なところにも書いたのだが、NHK特集かなんかで「宇宙」という番組を放映するならBGMにもってこいである。透明感のある響きがいかにも宇宙っぽいのだ。こんなにも、「いかにも」的に音を重ねることが出来ると言うのはやはり凄いことだと思う。聴き終えた後に20分間沈思黙考したあげく「わからん!」と言わなければならない多くの現代音楽の中で、これも現代音楽だよ、って言うのはちょっと不公平な気がするぐらい、凄いことである。でも、そこがとても人間臭い。この曲を作曲された吉松 隆さんのことは全然存じ上げないのだが(ご挨拶はしたことがあります)、色々あるとしても、根は良い人なんじゃないかなぁ、と思わせる人間臭さを感じてしまう。
「二つのヴァイオリンのための協奏曲」は科学者がコンピュータが吐き出した数字の羅列を見て「成る程、宇宙はこうなっていたのか」とつぶやく時のような宇宙である。そんな場面が本当にあるかどうかは知らないけれど。
音が響き合い、動き、脈打ち、躍動し、微動だにせず、消えて、立ち上り、覆い、掠れて、凛とし、ありとあらゆる形容を数学的な的確さで表現しているが、それは人間を表現しているのではなくて、ただ、人間は真ん中にいる、のがこの曲である。「ケフェウスノート」とは全然別の宇宙である。人間が知り得た宇宙とは、人間が作り出した宇宙である。物理学者がどんなに無はまったくの無ではないよ、と言ったってそれはそう言う無を観測と言う人間行為によって、あるいは理論という思考によって、作り出された現実であって、それ以外に表現しようがなく、確率的というのは、所詮、概念でしかない。でも、宇宙はそう言う体系の中で成立している、というところの宇宙。こんな話しよりバッハを聴いている方が余程宇宙を感じられる。でも、バッハの宇宙は、どちらかと言うと人間臭いのではなく、人間がいる、ということの音楽だと感じる。
そして、どうあっても、宇宙とは無縁的に人間的な音楽としてのブラームス。心の音楽。心情の音楽。でも感情ではないし、感傷でもない。音楽による思考。音楽による感情。音楽による心情。
ブラームスには無機的であるところの概念は最初からない。私が見たから、そこに森があるのだ。そのくらい、人間なブラームスの交響曲は、徹底的に宇宙的ではない。土。道。街。家。畑。橋。城。自然が大好きで、アルプスが大好きで、重いお腹でとろとろ登る山道が大好きなブラームスは、自然に感動し、アルプスに畏敬し、そう感じながら、山道に苦しむ人間が(自分が)大好きだったのだ。
ブラームスの視点は最後に現われるけれど、私は、大地から見上げているような気になる。
象徴的な2つの宇宙とその狭間の、今ここにはない無数の宇宙を観測し、気が付いたら、恐ろしい程のズームアップで地上から宇宙を見上げている自分を見るのだ。
そんな、演奏会に出来たら、どんなに素晴らしいことだろう。
[PR]

by bassbassbassyy | 2010-06-02 23:16 | 音楽
2010年 04月 17日

を、張り替えに出しました。
弓の毛です。
実に3年振り。014.gif
すごいでしょー。

つるつるの毛で良く数々の演奏会を乗り切った!
と、思われたあなた、甘いですよ。

つるつるの弓の毛は実は便利である。
「これはダメだ!」002.gif
と思った曲に望む時は松ヤニを塗らなければ良いのである。

例えば、S師の振る某Aオケでフィンガルをやった時等、高い音&早いパッセージの弾けない私はつるつる弓で臨んだものである。
少しは音が出るから、本気で熱演できるし、それでいて周りに迷惑をかけず、ヴィジュアル系として思う存分働けるのである。003.gif

さて、冗談はこれくらいにして、
弓の張り替えでお金がなくなってしまった。
合宿に行けない。困った。042.gif
[PR]

by bassbassbassyy | 2010-04-17 22:20 | 音楽
2010年 03月 15日

 が今年の音泉のテーマです。014.gif
音泉のこれまでの「乗り」とはちいと違う。
自省的であり、内向的です。015.gif
しかし、外向きに、積極的にこれを進めると「革命」があるわけです。031.gif
まあ、言葉並べて喜んでいるだけですが、「変」から「革命」に至る道筋で、我々はこれまでの10年間に培って来た事柄とは、繋がっているけれど、一つ、二つ、高見からの見地を持たなくてはなりません。舘野さんとの共演はそこに位置付けされています。042.gif

音楽を楽しく演奏することは我々の理想です。これを文句なしに実現したとはとても言えない状況ですが、楽しむことの個々の意味は、みなさんが感じられたと思います。その「楽しさ」の位置付けをみなさんの個々の立場から、「人間」としての立場へ想像を膨らませて考えて見るのは、悪いことではないように思うからです。

絶望は、その絶望を背負ってしまった人にしかその絶望の意味はわからない。まあ、喜びもそうなのかも知れにけれど、何となく喜びは共有出来そうじゃないですか。でも、絶望は共有出来そうとは思えない。同じような状況が作り上げた二つの絶望が、それを背負った人にとって同じように感じられるとは思えない。何故でしょう?それは、絶望にはその人の生立ちや性格が色濃く反映されるからです。喜びだってそうなんですが、こちらは生立ちや性格よりも、そのときの状況がものを言う場合が多い。
そもそも、絶望を背負った人が、その絶望を誰かと分かち合えたと考えることは稀でしょう。

その絶望を、出来れば想像して欲しい。
さらには、その絶望の先にあった希望と喜びのことまでも想像して欲しい。
音楽表現云々の問題ではありません。
でも、これから来年の東京公演までは、絶望を常に意識しないではおれない、音泉となるはずです。その先にはいつも喜びがあるとは限りませんが、その先に「喜び」があることを信じて進む日々となるはずです。015.gif

さて、「変」には、もう一つ意味があります。
「半音下」という意味です。
[PR]

by bassbassbassyy | 2010-03-15 23:02 | 音楽