音泉室内合奏団の食卓

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カテゴリ:音楽( 41 )


2009年 10月 28日

ブラームスはお好きですか?(16)

 クラシック音楽の曲には指揮者がいないと駄目な曲と指揮者がいない方が良いかも知れない曲とがあります。こんな分類は誰もやっていないけれど。でも、現代では殆どの楽団や劇場オーケストラは音楽監督のポストに指揮者を雇い、彼のプロデュースで演奏会を計画します。なので、どの曲に指揮者が必要か必要でないかを判断してるのは多くの場合、指揮者自身です。ウィーンフィルのようなオーケストラは例外でしょう。彼らは、自分たちのプログラムと指揮者を自分たちで決めていると言っています。いずれにせよ、こう言う分類は実は当たり前に行われているわけです。ただ、普通に考えて、小編成の室内楽には指揮者はいらないと判断されているし、オーケストラには指揮者が必要と判断されている、ということです。なので、この、普通、をとって考えて見ましょう。分類する人によって結果が随分と異なるのではないかと思いますが、私は以下のように考えます。
私の場合、交通整理の問題は避けられないものの、音楽の質を1番の基準に考えます。

楽曲が何であるかは敢えて問いません。027.gif

 例えば、モーツアルト。これは断然指揮者がいない方が良い曲が多いと思います。指揮者がいることを前提として書いている曲も少ないし。交通整理の問題がなければオペラでさえ指揮は必要ないでしょう。ジュピター等は強い意思を感じますが、文学的な意味で協約的ではありませんので、指揮者によって意思が統一される方向へ向かうと変な曲に聴こえます。
 ベートーヴェンは、多くの曲で、本当を言うと出来ればいた方が良い。音の意思と言うものを具現化し、方向性を定めるには指揮者がいた方が合理的です。そして、ベートーヴェンの楽曲はそう言う曲が多い。ピアノソナタ21番「ワルトシュタイン」なんて「?」な演奏を聴くと、「上手いんだから指揮者がいれば良い演奏になるのに」、とよく思います。ピアノソナタの演奏に指揮者がいたら変だけれど、音楽自体にはそれだけの内容がある。構造自体は後期ロマン派の楽曲群に比べたら簡単ですけど、精神性との統一は実に難しく出来ているように思います。
 シューマンは絶対指揮者が必用ですね。交通整理はもとより、バランサーとしての役割も重要です。アンサンブル自体は出来なかないようにも思いますが。
 ちょっと、「例えば」が長くなってしまいましたが、つまりはアンサンブルの問題はハードルとしてはわざと低く見積もっています。だって、我々だって充分とは言えないけれどドボルザークのチェロコンチェルトをやってしまったのですからね。本当は音楽の熟練者が集まれば出来ないはずはないのです。でも、やらない。楽曲における音楽の性格に統一性を持たせて物事を効果的に主張する方が演奏するほうも、聴く方も合理的なんです。指揮者は音楽をとても素晴らしいものにしてきました。でも、これが音楽の本質の一部を歪ませてしまっている面もあるわけです。人は、なんに付け慣れてしまうからねぇ。特に、ベートーヴェン以降のロマン派といわれる音楽は音楽に文学的表現を求めますからね。意思を束ね、方向性を定め、その方向性を殊更に一方向へ向ける必用のある曲、方向性が一定ではない曲、が出来てしまう。こういう曲には指揮者が必用になるのですね。先のワルトシュタインは一人の人が弾くにはテクニカル的なものと音楽の意思の関連がとても難解なので、よっぽど強い意志を持って思い切った形での選択が出来ないと支離滅裂な演奏になってしまう。こういう事を整理できる人が必要なんです。ピアノは弾いているのは一人なのにね。ピアニストって大変ですよね。かよさんは凄いなぁ。003.gif

 さて、「ブラームスはどうなのよ?」と言うことですね。問題は。034.gif

 ブラームスは、上に書いたような意味では、指揮者がいない方が良い曲が多いと、私は思います。交響曲は全て指揮者がいない方が本来的なブラームスが出来るはずだと思うのです。1番はちょっと違いますが。こんなこと言うとS師には怒られそうだけれど。
 理由は、これまで書いたものを読み返して頂ければわかると思います。再三言うようにブラームスは音楽を音楽で語った訳ですから、演奏者がきちんと音楽を語れれば指揮者はいらないのです。取りまとめて、方向性を定めるべき意思はブラームスの音楽では音楽そのものだからです。
 でもね、演奏家が音楽を語らなくなってしまってはどうしたって指揮者は必用になるし、本当の本当に演奏家から音楽が消えてしまうと、ブラームスはもう音楽として聴けなくなってしまうのですね。郷愁に満ちたメランコリックな響きだけになってしまう。これは悲しいことです。007.gif

 私たち音泉は演奏家としては未熟な者の集まりです。充分に音楽を語れるとは思えません。(そうではない方々もおられますが。)
「だったら、指揮者が必用じゃないか!」と仰る方がおられると思いますが、その通りです。新潟では指揮者が棒を振って下さいます。
だから東京と新潟では大きな差が生じるはずです。
この差は私たちの未熟さの分になるはずです。
これを実感したい。実感して頂きたい。
 S師が新潟でも吹きたいと仰せになった時は「はちゃ〜」と思いましただよ。その後、不幸な偶然の連なりから幸運に転じて、やはり棒を取って頂くことになって、どんなにホッとしたことか。042.gif
 逆に言うと、東京公演で私たちが、どれだけ演奏家としての自覚の元に演奏出来るか、と言うことの達成度が高ければ高い程、この差は埋められるはずです。
 でも、本来、音泉が大きな楽曲を演奏するときでも指揮者をお願いしなかったのは、単に経済上の理由(要するにギャラですね)だけではなく、アマチュアであっても演奏者たる位置を自分たちなりに確認すべし、との意思があったためです。最初に交響曲を演奏したのは、第3回演奏会松本公演のモーツアルトでした。普通なら弦楽合奏で指揮者を必要とするブリテンのシンプル・シンフォニーを5人で演奏したのは第2回演奏会東京公演です。交響曲は第20回以来だと思われている方も居られるかも知れませんが、ずっと前から、実はやっているのです。演奏者が、皆同じ立場でコンサートを行う。ワルツ、ポルカだって、本当は監督をなるべく立たせないで演奏したい。まあ、これは伝統的な「弾き振り」に則っているので、そんなには拘りませんが。
 音泉はもともと、演奏者が本来的に音楽をしよう、それで演奏者としての本来の立場を取り戻そう、とする意思を含む団体なのです。これは私と監督が霊泉寺温泉のお湯に浸かりながら話し合ったことです。のぼせてなければ間違いありません。
 しかし、音泉の現状を端的に言うならば、「音楽監督頼り」です。発音から弓の使い方から、音程から、楽譜の読み方から、山菜の採り方まで(これは良いのか)、何から何まで、音楽監督の指導を頼っています。これでは、ブラームスはメランコリックな響きだけになってしまう。監督が教えてくれるのを待っていては駄目です。手取り足取りご指導を願っていては良い演奏は出来ません。自分で探求し、出来るならば自分で決める。その末に、これでどうだ、と、音楽監督に自分の音楽を託す。煮るなり焼くなり好きにしやがれべらんめい、と言うところまで自分で持っていく。この努力に勤しむ姿勢が音泉らしいブラームスに繋がると思います。017.gif
 まあ、なかなか持ってけないんですけどね。頼り癖というのはなかなか抜けない。けれど、そう言う努力をする。そういう姿勢でいることが大事。かつ、その上で、全体の調性者であり裁定者である監督の指示にはまずは従う。従った上で納得いかないときは、納得いかないと問えばよい。監督だって間違えることはあるでしょう。(キノコ採りのときは間違えないで欲しい。)人に頼っておいて完全無欠を求めてはいけません。

 音泉は、音楽する自分とは何か、というトートロジーです。単純な自分探しとは違います。これは、同時に音楽とは何か、人生とは何か、という2つの哲学に繋がります(力んで考える必要はないんですけれど)。この解を求めるために管楽器と弦楽器によるアンサンブルを10年続けている。指揮者に頼っていてはこの解は見つかりませんが、音楽監督に頼っていても同じことです。私自身も、そもそも依存的ではありましたが、ここ数年、特に依存的になってきたような気がします。色々なことが原因として言えるとは思いますが、自分自身以外の何かのせいにしたってあまり意味はありません。やってくれること、そうなっていること、そうなること、というのは流れに甘えているだけですね。流れは誰かが作っているのです。例え流れに翻弄されても、僅かな力でも、流れは自分でも作らなきゃいけない。人に認めてもらうとか、知ってもらうとか、大事ですけれど、そうじゃなくても良いから、自分なりに流れを作っていると、言えるとよいですね。何にせよ、自分の立地点は自分で決めねばなりません。そういう立場を物言わず貫いている方もちゃんとおられます。
この解の探求の上にブラームスは存在しています。ついでに言うとバーゼルも。014.gif

 さて、今年の音泉のテーマは「愛」です(久々に登場)。
最後まで言わないつもりだったけれど、種明かししちゃうと、ブラームスは愛されたかった人なんです。ブラームス・ブログの最初の方で、何となく、否定的に示唆してはあるんですけどね。まあ、だから、音泉のテーマも愛なんです(←偶然を必然のように装う例)。
 ブラームスは多くの人と同じように、お金も、地位も、名誉も必要としましたが、もっと身近で、暖かく、親しみのあるものとして、「愛」を欲していました。愛されるためには愛さねばならないことも知っていましたので、そのように努めました。自ら出向き、働き、語り、笑い、慰めました。おかげで現実的な生活の面においては様々な愛に支えられて孤独なわりに幸福だったと思います。しかし、音楽における「愛」には充分に満たされることがなかったように思います。自らは提示することしか出来ませんからね。残っている書簡にも書かれていないようなので、想像に過ぎませんが、ブラームスの必要としていた理解を示せたのはクララだけだったのではないかと思います。それは今日も同じ状況にある、と思います。今日、ブラームスを理解し、楽曲をこよなく愛している演奏は皆無に近い。思い入れのある演奏はもちろんありますけれど、思い入れと愛とは違います。または、分析し構築する。CD訊いても、解説読んでも、評論読んでも、何となく「?」がついて回る。過去から現在までの偉大な指揮者や演奏家等の実績を前にして、私がこんなことを言うのはとてもとても僭越なことですけど、そう感じてしまう。
 ブラームスの音楽は、愛されたがっている。ならば、ブラームスの音楽を愛してやまない音泉の演奏、と言うもはやれないものだろうか?それが、音楽を愛し、自分を愛し、他者を愛することに繋がるということです。でも、ドルチェじゃないですよ。私たちは自分の「愛」をもっと厳しく鍛えねばなりませんからね。016.gif

 なんか説教みたいな話も混じってしまいましたが、これは私が自分に言い聞かせていることであります。私の言葉に引っかかりを感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、勘弁してくださいね。
 私には楽器を自由に扱う技術が充分にはありません。もちろん練習はしますが、足らないことは音楽をやる上で、何を持ってしても補うことの出来ぬことです。なので、せめて、音楽をする心には必要充分な研鑽を積みたいと思っています。それが少し言葉になってしまった、と、言ったところですかね。
 それから、これまで書いてきたことは私の考えです。なるべくきちんとした根拠のあることを書いてきましたが、とりとめのない憶測も時には含まれています。どの部分は根拠があって、どの部分が適当なのかは想像してみて下さい。矛盾している箇所も幾つもあります。両極を含有する大意というものも想像してみて下さい。何度も書いていますが、みんながこれから演奏する曲についてみんなが考えて持ち寄り、曲に託しながら、納得いくように練習して演奏に活かすことが重要なのだと思います。
ブラームスのお話はこれで終わりです。
頑張りましょう。041.gif
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by bassbassbassyy | 2009-10-28 00:36 | 音楽
2009年 10月 17日

〜閑話休題〜 ブラームスはお好きですか(15)

 さて、長々とブラームスを話してきました。ちょっと内容の変化が乏しくなって飽きてきましたね。本当は、一つ一つの話自体をもっと詳しく書きたかったのですが、あんまり長いと読まれなくなってしまうので、かなり割愛して書きました。逆に短絡的になってしまったところもあり、ガタガタした文章になってしまったところもありますが。
ともかく掲載部分だけで原稿用紙70枚分くらいにはなりました。原稿で見ると100枚超えてしまいました。やれやれ。
042.gif
 なので、ブラームスについては次回で一応終了。
最後は、最後なんだけれど、まだまだ、見るものはありますよ、と言うお話。
色々な見方をしてきましたが、具体的な曲の分析、演奏法については殆ど手付かずです。最初に第1楽章の冒頭を若干分析しましたが、まだまだ深めることが出来ます。また、見方と言う面でも考え方と言う面でも、まだまだ考察の余地があります。
そこで、こんなことも考えられますねぇ、こんな見方もありますねぇ、というお話をしておきたいと思います。
030.gif
 まずは、終わりのお話し。4楽章の終わり。つまりは曲の終わり。
 この終わり方は何でしょうか?
 まず、フェルマータがない。4泊分。トライアングルを除く斉奏で終わります。何としても「終わり」「以上」「もうなし!」と言う感じです。こうまで、終わらねばならないならば、いっそのこと短い音で終わっても良かったのに、と思います。その方が決然とした感じは出やすい。弓の心配もしなくて済む。何より潔い。でも、4泊分は伸ばしたかった。釘一本で蓋をするのではなく、大きな石で蓋をした感じですね。何故か?
 下手をすると、中のものが出てきちゃうからですね。釘をどんと打って終われなかった。何かを封印するように、重い重石を乗っけて、もう出てくるな!と終わるわけです。仮にフェルマータが付いているとどうなるか?フェルマータしている間に、出てきちゃう。そういうことです。フェルマータは拍感がないので、逆に復活がありえるわけです。曲の途中で仮の終止をするときは大抵フェルマータを用いますね。拍感がないことで、逆に楽曲を想起させる手法です。
 最後まで拍があると言うことは、4番と言う曲は、そして、少なくとも4楽章は、冒頭にある全音符のバーバーとしたテーマで出来ている割に拍感の大事な曲と言うことになりますね。逆の言い方をすると、初っ端のあの全音符にしっかりとした拍節感がないといけないと言うことですね。難しいですねぇ。良かった、トロンボーンじゃなくて。
 ともかく、一つ前にも書きましたが、躍動、運び、流れです。これを重要視しているからこそ、終わり方はこうするしかなかった。しかも、そもそもコラールですから、響きの奥行きがある。サウンドの力が物凄くある曲なんですね。これに封印するには、この終わり方しかなかったのでしょう。
 それから、シャコンヌであることにも注目しないといけませんね。パッサカリアでも良いですが、ともかく、終わらない、ことが身上です。永遠に繰り返す。これがシャコンヌ。監督と、「終わり」の話をしているときにご指摘頂いたのが、バッハのシャコンヌとの比較です。構造的には似ている、というか、同じなんですね。コーダの在り様と持って行き方が。ちなみに、あのシャコンヌもソナタ形式風です。バッハって凄い!。ブラームスも負けていられなかったんですね。ドイツ人魂ですかねぇ。ともかく、終わりのない情熱の昂ぶりが永遠に続くシャコンヌを終わらせるには、重くて大きな石が必要だったのですね。
 そして、本当は終わりたくなかった。続けたかった。永遠に音楽が鳴り続けたかった。この、「潔くね〜。」って感じも大切だなぁ、と思うわけです。「潔くね〜」をちゃんと感じて表現にした演奏って耳にしたことないですねぇ。「駄目ぇ、終わるのぉ〜」と「潔くね〜」が、拮抗している終わり方って面白いと思うんですけれどね。どの著名な演奏も、どちらかって言うと、「こう言う終止形なんだから、これで終わり!」って終わってる感じがします。
 まあ、そのことは分かった。重くて大きな石。ぎゅ~って終わる。よく分かりました。問題はその次。これ、演奏で考えると、とても大変なんですね。
 コーダは第24変奏からです。そこから、最後までが終わりの部分。既に重い大きな石は用意されているのです。ちゅうことは、これに見合うように音楽を持っていかなければならない。まあ、その様に書いてはあるわけですが、息を抜いたり、手を抜いたり、重いものを軽くしたりしてはいけませんよ、と言うことですね。躍動も運びも流れもそのままに、しっかりと終わりまで持っていかなくてはならない。しかも、最初に言いましたが、4楽章には輪廻の様に1楽章を想起させるきっかけが幾つもある。4楽章の終わりは曲のおわりですから、1楽章まで遡って、この終わりを覚悟しておかなければならないわけです。終わりは始まり。物凄いものを背負い、積み重ねながら弾き続けなければならない。考えただけでも息が詰まりますね。015.gif

 終わり方から、こんなことを考えることも出来るわけです。037.gif

 もう一つ。今度はこんな見方もありますね、と言うお話です。
 強弱記号。
 これに注目してみる。
 4番で使われている強弱記号、フォルテ-fとピアノ-pのアルファベット記号のみで考えると実はppp、pp、p、mf、f、ffの6つです(sは別ね)。mpとfffはありません。mfもわずかに4箇所だけです。
 チャイコフスキーさんはきっとビックリするでしょうね。ffffを書かずに交響曲が書ける!005.gif
 経過的に中間のmp、mfとなるところは沢山あるのですが、mp、mfでのびのびリラックスして力抜いて歌ってね、と言うところがないんです。殆ど、まるで。
 単純に見ると、ブラームスが緊張感のある音楽を求めていた、ということになります。でも、その通りなんだと思います。そもそも、ブラームスは交響曲でmp、mfの表記をするのを嫌っていたようですね。
そこで、変態チックに調べてみました。
面倒なので第1楽章だけですが、スコアに印刷されている記号の数です(箇所ではないです)。

ppp 5  pp 91  p 242  mf 5  f 273  ff 66

mfが如何に特殊かわかると思います。

また、意外なことにsfは230でした。
fは数小節間に渡ってかかる場合もあるのに対してsfは音符の一つ一つにピンスポットで書かれているために数が多くなるわけですが、多いでしょう。sやアクセントは音楽のスパイス。と言うか、息吹、脈動に関わる、もっともっと大事なものですからどうしても多くなりますね。

 こう言う統計的な分析がどのような意味を持つかは解釈の問題ですけれど、mfは要注意ですよ。
 特にホルンの方は。逆に言うとこのmfをきちんと解釈していないホルン吹きは「どうなのよ」と言われちゃう。良かったホルン吹きじゃなくて。

 このmfの使い方、実は他の交響曲でも同じなんです。mpとmfが極端に少ない。ピアノ協奏曲の2番の冒頭、ホルンの旋律が例外ですね。あれはmp。最も演奏者が緊張するところで、力まないで伸び伸びとした音楽を要求しています。嫌な人ですね。しかし、それにしたって、冒頭ではあるけれど、実は冒頭ではないんです。冒頭のホルンは高貴で悠然とした問いの流れの中から浮き出した一つの出来事です。これに呼ばれて主役のピアノが出てくる。実は緊張の極みの中での出来事。mpのちょっとのほほんとした雰囲気は微塵もない。pから逆算されたmなのですね。従って曲全体も緊張度の高い作品になる。これを勘違いしてしまうと、ダレダレのピアノ協奏曲になってしまう。
 4番に話を戻しますが、ここで使われているmfも経過的なもの、全体がppからクレシェンドしている途中から出るので、mfから出てね、と言っているものを除くと、本当に僅かです。mfの本質的な性格で書かれているところは例外。だから基本はppp、pp、p、f、ffの5つ。pppとffは両極なので、まあ、想像はつきますね。問題はpp、pそしてfです。ppp~ffの間で、この3つをきっちり使い分ける。しかも、強弱は相対的で全体的且つ局所的なわけです。緊張度の高いこの3つをきちんと意識して全体の整合を保ちつつ演奏するには相当、スコアを読み砕いていないと出来ませんね。まあ、出来ないんですけどね。統計的なところから見るとこんな感じですね。
 少なくて特徴的であること。多くて特徴的であること。敷衍的で特徴的であること。局所的で特徴的であること。これを解析すると全体が何となく見えて来る感じですね。
 でも、よい子のみなさんは真似しないで下さいね。
数えるのに時間がかかる割に、わかることは少ないから、こんなことしない方が良いかも。大体で良いと思います。027.gif

さて、いよいよ次回は最終回。
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by bassbassbassyy | 2009-10-17 01:53 | 音楽
2009年 10月 14日

ブラームスはお好きですか?(14)

 失業中も中々忙しくて、更新が疎かになってしまいました。009.gif
 忙しい2週間でありました。酒飲んだり、演奏会出たり(普段と変わらんか)。実は、原稿自体は出来ているんですけど、こうして、前置きと言うか、つなぎを書かなくてはならなかったりして、掲載するのも結構大変なんです。
まあ、愚痴はこれぐらいにして。
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 で、ブラームスですが、そろそろ本番も近づいて来たので、終わりにしないといけませんな。どうしようか?013.gif
 ともかく、今回は音程、バランス、テンポについて考えて見たいと思います。
 はっきり言って、私がベース弾きだから言うのですが、ブラームスはベースです。
コントラバスが一番良い。何しろ難しい(早い)パッセージがない。私でもほぼ、弾けます。1番はちょっと難しい(早いところが結構ある)。2番は少し難しい(早いところがまだある)。3番はとても素晴らしい(早く弾くところがない)。4番は素晴らしい(早く弾くところが少ししかない)。それでいて効果的、且つ格好良い。なので、みなさん、ご自分が演奏される際には、必ずコントラバスを聴きながら演奏して下さい。
何何、音程が悪い!?
大丈夫、解放弦はしっかりチューニングメーターで合わせておきます。
何何、走る!?
大丈夫、しかり付いて来てくれれば、音楽を引っ張っている様に聴こえます。
何何、間違ってる!?
大丈夫、かな?まあ、ベースってのは間違えるもんです。
何何、休んでる!?
そりゃ、休みますよ。後ろの先生だって、1から3楽章まで休んでいるんだから、我々だって休みます。
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 まあ、バカはこれくらいにして、ブラームスの交響曲を演奏する場合に大事なのは低音。これはピアノで弾いた場合の左手の動き(特に小指と親指)のことです。パッセージの展開する最初の音を補強した小指か親指で弾くのがブラームスらしい音の作り方の基本でございますな。単純な例ではハンガリーの5番のテーマの伴奏の左手。1拍目強拍は親指でしっかりと弾きますよね。鍵盤をしっかり奥まで叩きつつ圧す。何と、ブラームスさんはこの単純明快な基本が大好きです。交響曲の場合でもピアノ演奏に置き換えた場合、左手の動きとして基本を捉えると和声の動きはほぼ予想出来ます。その響きの中で自分がどんな役割を演じているのか考えれば、比較的簡単(簡単ではないけど)にツボが見出せるでしょう。これは高音だけで彩られている部分にも有効です。
和声はリズムに比べると、明確な進行を示していますし、音は取りやすく出来ています。それだけに外すと痛いのですが、これは練習すれば外さない確率は上がりますから、済む話しですね。確実に音を取ること、和声上の役割を考える上では、ピアノ的に左手を意識すること。これでブラームスサウンドは我々のものです。なんちゃって。
このことばかりに執心していると大きな間違いに遭遇することになりますが、まあ、取り敢えず、最低限、ベースが弾いているところではベースの音を聴くこと。ベースが聴こえなくなってしまったら、それは音の出し過ぎか、別のことに気を取られ過ぎているかです。気にかけるべきは、もちろんその時々の主旋律ですが、ベースが主旋律を意識している限り、ベースを越えなければ大丈夫なわけです。それで駄目になっちゃったら、ベースのせいにすれば良い。これで、音程と音量はほぼばっちり。
でも、本当にこれをすると、ブラームスって、実は静かな音楽だってことが解ります。
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 では、テンポ。
 4番で大事なのは推進性です。先に行く力。でも単純な馬力の問題ではない。むしろ、トルクの問題。直進性ではなく回転運動における軸に関わる力と作用点までの距離の問題。また、回転軸を持つ系の問題。でかおさんの領域ですね。私の説明で良くわからない場合はでかおさんに訊いて下さい。潜在的な一定の力が常に軸に働いていて、軸からの距離が運動量を決定するんだけれど、回転軸を持つ系の、例えばマテリアルの問題みたいなのも意識してみたりして、みたいな感じです。テンポっていうのは各楽章で異なるから、トルクも異なると考えて良いのですが、何れにしても相当な力がある。どんな抗力が働いても仕事量は変わらない。強力なトルクがかかっている、と言う感じの推進性です。例えば、小節線。これを越える時には常に何らかの抗力が発生している。ゆっくりしている旋律上では、しかし、淡々と歩みは変わらず進んで行きます。でも激しいところでは抗力が大きい。と、進むことが出来ない。でも、軸にかかる抗力が増強しても一定のトルクが強大に働いているので、歩みを止めることがない。抗力は打ち破られて、トルクは不変なのであります。この場合、軸を持つ系のマテリアルな問題はどうしても生じてしまう。折れてしまうようなものではないんだけれど、固いゴムと鉄とを比べると多分、鉄の方が軸の回転速度に近い時間で抗力を打ち破る。ゴムだと打ち破るまでに時間がかかる。撓るからね。CDで聴ける幾つかの良い演奏の中での、演奏の質の違いは、このマテリアルな問題なのかな。中心軸からの距離は音の大きさや激しさ。だから、この推進性がきちんと表現出来る限りにおいては、アゴーギグの範疇も自然と広がる。この推進性がもっとも表現しやすいのは、予め許容されているアゴーギグの範疇が最も狭い場合、と言うことになりますな。でも、実際のブラームスの指示はそんなに多くないし、複雑でもないのだから、ある程度のアゴーギグは期待されていると考えるべきでしょうね。推進性の意味を考えずにアゴーギグを付けると、直ぐに不自然さが前面に出てしまう。飾り的アゴーギグ。これはブラームスの音楽を駄目にしてしまう。最近はプロの演奏でもこういうのが多いですね。残念。
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 多分、トルク等と言わずに直進力で説明した方がわかりやすいんだろうけれど、直進力だと説明しにくいなぁ。
 自動車で考えましょう。
 タイヤが回っていて前進すると言うこと。ブラームスの場合の前進性は、タイヤを回す力だろう、ということです。
 常に前進しようとする力が働いています。障害や躊躇はあるけれど少しも歩みは止まらない。こんなとき、淡々と進むよりも、障害や躊躇がある方が、歩みの止まらぬ様子がよく分かる。でも、止まってしまう、後ろを向いてしまう瞬間が出来てしまうと明らかな推進生というのは感じられなくなってしまう。淀んでも、強い抵抗に合っていようとも、断固としてタイヤを回し続ける決意が全編を貫いてこその推進性というもの。それが4番にはなくてはならない。嘆息のような旋律でも、時間が止まってしまったかのような古風な教会旋法でも、常に前進している。その歩みは絶対的な力に支配されていて潜在的に物凄い力を秘めている。そんな推進性が求められている、ということですね。
これを表現するためには、きちんと拍節を理解していること、一つ一つの障害、小節線や旋律の終わりや始まり、フェルマータ等をしっかり認識して対処すること。つまり簡単に超えないこと、が大事だと思います。若干凸凹した方が推進性は表現できる、と言うことですね。だから、事前に楽譜に印を付けて、そこに来たら周りを伺い合いましょう。その所々できっと何かが起きています。これだけでもブラームスらしさが出るでしょう。
却って解らなくなっちゃったかな。テンポの問題は演奏者総体の覚悟(精神の力)の問題ですからね。
みんながそう思ってやらなくちゃ駄目なんだと思います。034.gif
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by bassbassbassyy | 2009-10-14 00:44 | 音楽
2009年 10月 05日

ブラームスはお好きですか?(13)

 合宿、お疲れさまでした。006.gif
 合宿、疲れました。042.gif
今回の演奏会は色々な方に随分とお世話になっているのに、何故か、孤独に一人でやっているような気がすることがあります。それが疲れた気分にさせるのですが、ああ、なるほど、こういうのが、独りよがりなんだなぁ、と思い至りました。021.gif

 演奏も同じですね。合宿で監督にご指摘頂いたのですが、バーゼルの1楽章でどうしても8分の1音符分早く入ってしまうところがありました。自分なりにスコアを見て他の楽器との絡みを確認して、メトロノームで練習して、完全に大丈夫、と思っていたところなので、ありゃりゃ、って感じでしたが、もう一度、スコアで確認したらヴァイオリンの節を間違えて記憶しておりました。練習の録音聴いたら、ばっちり8分の1音符分間違えて自信満々に入っておりました。小海のときは間違っていなかったので、言われなかったら(明らかに間違いなので言われないわけないけれど)気付かず本番でもやるとこでした。これも、独りよがりですね。039.gif

 自己弁護ですけれど、音泉のようなやり方では、この独りよがりは起き易いと思います。
明らかなタイミングや音程の間違いならば、注意を受けるので直せますが、解釈違いは見逃されることも多いと思います。特に音の強弱は、明らかでいて分かり難い。強弱記号は相対表記ですから解釈一つで如何様にも解されます。その解釈が独りよがりとならないための基本は、楽譜から前後、全体をきちんと読み込むことでしょうが、これはなかなかアマチュアには分かり辛い。合奏の中で監督に指摘して頂くまでは分からない。でも、監督だって全てを指摘できるわけではありません。限られた練習時間の中でやっていることなので、分かっていても指摘できないことだってあるでしょう。そんなときは、気が付いた人が指摘してあげられると良いですね。030.gif
「ここ、こう弾いていたように聴こえたけど、本当はこうじゃない?」てな具合に。何が正しいのか、より良いのか、分からなくなったら、監督に訊けば良い。幸い、音泉の練習では休憩時間は沢山あります。伺う時間はたっぷりあります。
 また、監督の指摘と自分の考えとが異なることもあるでしょう。自分の考えの根拠が曖昧であれば、成る程と思って受け入れることも出来ますでしょうが、ニュアンスに関すこととなると根拠を説明するのも難しいし、かと言って、はいそうですか、と、受け入れてしまうのも、何となく許せない気になってしまうものです。そんなときも、そのまんま監督に伺ってみるのが良いと思います。監督は音楽の良き理解者であると同時に、合奏のより良き裁定者でもあります。楽理的に自分の主張は正しいのだ、としても、合奏する上で演奏効果の妨げになることもあります。話し合って納得して直すのが一番良い。音泉はそれが出来る場です。意見はどんどん監督にぶつけましょう。間違っても、私にはぶつけないでください。027.gif

 で、ブラームスですが、案の定と言っては大変失礼なのですが、自分はこう弾きたい、というのがなかなか出来にくいようですね。CDの演奏などの模倣をすると、それで出来たような気がしてしまいますが、実際は楽譜とも違えるような状態になっているだけ。と言うことがしばしばあります。今回の合宿では聞覚え的な演奏に終始してしまうところが多少なりともなくあったように思います。先ほどの私のバーゼルの様に、聞覚えではなくて自分なりにスコアを精査したつもりでも、とんでもない間違いを起こすことがあるわけで、聞覚えとパート譜の読み流しでは変てこなことになるのは無理からぬことです。ゆっくり音楽に割く時間がなかなか取れないのは、失業中でもそうなのですから、働いていれば尚更のことと思います。しかし、何とか時間を作ってじっくり、ゆっくり楽譜と向き合いたいものです。特にブラームスの音楽においては聞覚えによる模倣は演奏上好ましくないことをはっきり認識しておきましょう。
 仮に万人が認めるブラームスの名演がCDで出ていて、これをかっちり真似したとします。
確かにブラームスらしい音は出来るかもしれません。その意味では模倣も意味のないことではないと思います。しかし、ブラームスは音楽を曲に託しています。音楽とは自ら生み出すものです。借り物では、本当に音楽していることにならない。子供の歌う民謡でも、酒場で奏でられるダンス音楽も、そこで奏でる者が自らを晒して喜んだり、寂しさを紛らわしたり、楽しんだりしているから音楽と言えます。ブラームスの考えていた音楽とは楽理上の音楽ではなくその様に人の心に根ざしたものだったと思います。ブラームス的にはドイツ人の心の奥底から発せられる心根のある音楽こそが音楽だった。それが交響曲に託されている。だとすれば、借り物はまずいですよね。それから、独りよがりも。拙くても自分のものであるべきだし、自分自身とみんなとが、たとえそこに驚きや、発見があったとしても(むしろそれは素晴らしい)、理解し了解できる音楽でなければならないと、思うのです。
どうでしょう?
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by bassbassbassyy | 2009-10-05 00:39 | 音楽
2009年 09月 25日

ブラームスはお好きですか?(12)

では、そろそろ「演奏」に焦点を当てて話を進めましょう。003.gif

これまで、考察してきた事柄については音楽に対して副次的に派生している事柄です。演奏する上で知っていて損はない。場合によっては必要な知識。そう思って下さればよいかな。でも、独りよがり的なイメージに従って弾いてしまうと不味いな、とか、演奏上の注意についてこれまでより慎重にならないといかんかな、とかブラームスってよく分からんけど、成る程、具体的なイメージはないのか、とか理解していただけるともっと良いかも。

実際、作曲家が交響曲のどこに人生観や生活観を滲ませるかは全く分かりません。多分、本人も分からないと思います。言いたいこと、と滲み出るものは異なるからです。普通の曲を演奏する際にはこの両方を意識しなければならない。この主題は何々を想起させるように書いてある、だから、ああせい、こうせい・・・とかね。
 ブラームスの場合は思想、信条、物語と言った言葉で分かる言いたいことは、特になかったはずなので、却って難しいかな?でも、音楽として言いたいことはあったはずです。「これが私の音楽です」と切々と訴えているように、私には思えます。切々として全体で一つ、そんな感じです。だから、どこが大事、あそこはこのイメージ、と言う具合に割り切った言い方が出来ない。ベートーヴェンと同じで、息つく所がないのですね。この間、上越で1番を演奏させて頂きましたが、まあ、別の理由もあるのですが、最後まで持ちませんでした。心身ともに。申し訳なかったなぁ。一応でも、トラとしてのっているのに充分にお役に立てなかった。その位、疲れます。これまで、ブラームスの交響曲は全て演奏しました。けど、ちゃんと考えていなかったせいか、途中で駄目になるほど疲れたことはありませんでした。でも、色々考えて、こうも、切々と音楽を訴えられると、どの音一つ気が抜けなくて、ともかく譜読みだけでも疲れた。そういう風になるんです。本当に。
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 さて、話は変わりますが、また、いきなり、私事ですが、早いパッセージが弾けません。4分音符=130だと16分音符はもう弾けませんね。絶対に。同じ音を刻むのが精一杯です。それ以上はしません。と、言い切ってしまうと監督が怒るので、事実とは異なりますが、弾くための努力は怠らず、常に邁進しているのですが、悲しいことに演奏には結び付いていない、と申しておきましょう。この間のチャイコフスキーの4番の4楽章なんか「グシャグシャ、グシャグシャ、グシャグシャ、ブンブン、ドンドンドン」で、なにやってんだか全然わかりませんでした。太鼓みたいなの。
でも、実際問題、「私の音を聴いてくれぇぇぇ」というところは早いところでは無理ですね。ムリムリ。絶対。音を聴かすなら、私の場合は何と言っても全音符とか2分音符ですね。第一、あの魅惑的な白丸が良い。物事の深淵を感じさせますな。なるべくなら、程よい長さで弓の心配をしなくて良いところ。そしてポジション移動がなくて音程の心配をしなくて良いところが良いです。もう、俄然心を込めて弾き込んじゃいますな。皆さんは如何ですか?木管の皆さんは「やっぱ、メロディーでしょ」と、言うかも知れない。確かに全音符だけで出来ているメロディーならば言うことなしですな。でも、実際はメロディーは難しい。弾くのも吹くのもだけど、それだけではない難しさがあります。どなた様かのご指示のように「低いところは大きく少し長めに、駆け上がったら行ったらフォルテピアノクレッシェンドで前へ進まないとダメです。」とか言われると、もう、何がなんだか分からなくなっちゃう。「私の音を聴いてぇぇぇ」どころではなくなっちゃうのが現実ではないでしょうか。でも、あの指示は必要だからあるのであって、伊達ではありません。オケ全体の中で音楽を引き出すために、全てのパートの関連を考え精査した結果です。これを違えてしまっては、自分自身がそこにいる意味がなくなってしまう。結局、メローディーでは「私の音を聴いてぇぇぇ」というのはそのままでは実現できないでしょう。その代わりに、「こう弾いて欲しい」と言う要求が出ますので、これを一生懸命実現すれば良い。時々「やりすぎです」とか「大げさに言ったのです」とか言われてしまいますが、そのときはそれで直せば良い。時には、「私なりに全体を考えてこう弾かないといけないと考えましたぁぁぁ」的なことをやってみるのも良いでしょう。間違っていなければ、指でOKサインが帰ってきます。
ともかく、メロディーは大変です。そんな訳でやはり全音符でしょう。もう、全身全霊込めて、えいやぁ、とばかりに弾いてしまいます。
PPPなのに。
 そう、悲しいことに全音符のところは半分はPP以下、半分はff以上ですが、ffのところは金管楽器や太鼓もffなので「私の音を聴いてぇぇぇ」が実現されないのです。私(Bass)の場合。やり切れませんね。
 そこで、音を聴いてもらうのは無理でも、心だけは込めることにしました。思いっきり心を込める分には誰にも文句は言われません。でも、どんな心を込めれば良いのでしょうか?清清しい夜明けの様な静寂のpppに憎悪の心を込めてもしょうがないですからねぇ。そういうわけで、音楽を考えるわけです。ここはどの様な心を込めればよいのか、と。そこが出発点です。
ここを出発点とすれば、作曲家の心を求めるようになる。考えていなければ、何も求めてはいないことになります。

くどい様ですが、早いところは弾けませんので心の込めようがない。監督、怒ってるかなぁ。
ともかく、早いとこ以外は、つまり弾けるところは、すべて心を込めたい。
そこで、今度は監督の心に迫るわけです。
音楽監督は音楽の専門家であります。曲を演奏する際にはまず、楽譜に対峙してこれを良く知るところから始まる、とのたまわれたことがあります。楽譜からは色々なことが読み取れます。でも、読み取りたいのは見て取って分かることだけ、ではありません。「何故?」を読み取らねばならない。楽理や奏法や音楽にまつわる専門的な知識が備わっていれば「何故」を見つけることも出来るのでしょう。そうそう、「音楽をする」という責任感もないといけませんね。早いとこが弾けないアマチュアとしてはどうでしょう?「音楽をする」という責任感は自負していても、それに伴う知識がない。困りましたね。わからんのです。
何が「何故」なのか。「何故」ばかりは、何で「何故」なのかを自分で分かっていないと誰にも「何故」を問うことが出来ません。
こういうときは、常に原点にもどるにかぎりますな。
どんな音を出すべきか?
やはり、ここから始めれば間違いない。
音楽は音の集合ですが、一つ一つの音に意味があるから、集合したところで大きな意味になる。今、目の前にある音の意味を考えなければ、いつまでたっても意味のある音楽にはなりません。意味が集まったところでの整合性は後から考えましょう。上手くすると誰か(多分、監督が)教えてくれるでしょう。
では音の意味とは何でしょう?色々な言い方があり、見方がありますが、ここでは役割と考えたいですね。一つの和音の中で、一つの音には、その和声に対する役割があります。基本的に言えば主音が一番良く響かねばならない。内声は少し小さめ出なければならない。でも、和音が二つ並ぶと、それまで「小さめに」と言われていた役割が変わってしまうこともあります。音が連なれば、こっちが大きく、こっちが小さく、という具合に役割も複雑化します。「その複雑化するところがわからないのよ!」と、言うことであれば、一つ分からないところが分かったことになりますね。これを「何故?」に繋げるには、楽器で弾いてみることです。しっくりする音が見つかればしめたものですね。すると、これは「何故」になる。何故しっくりするのか?とね。
一つの交響曲で、一体幾つの音があるか、パートによっても異なりますが(同じ給料でも)、ともかく、相当な数の音があります。この一つ一つに「何故?」が生じる可能性があるわけですし、その可能性は私たちのようなアマチュアにとっても「何故」であり得るわけです。
 今度は、その何故に自分なりの答えを見つける必要があります。分からないけれど弾く、と言うのでは、説得力に欠けます。是非とも自分なりの答えを見出したいですね。
自分なりの答えを見出したところで、多分、監督と同じ土俵の端くらいには位置できたものと考えてみてください。監督の答えと、自分の見出した答えと、同じであっても、異なっていても、構いません。見比べて、精査し、より良い結果が得られるかもしれない。こういうことの積み重ねの結果として、楽器を通じて音を重ねることが「息」を合わせることになります。タイミングを合わせるだけのアンサンブルを超えることにもなりますね。それに、こう言うのをアウフヘーベンと言うのです。ドイツ音楽をやるのだから、アウフヘーベンしないとね。
「そんなに、頭ばっかり使っていられるか!インスピレーションだって重要じゃないか!」との話もありますが、真に直感的なものは思考訓練の賜物です。スポーツと同じで、音楽的思考の訓練をして身に着けた結果としての反射神経的なものこそが、音楽の場で求められるインスピレーションなのだと思うのです。どうでしょう?もっとも豊かなインスピレーションは訓練の幅が広がり、例えば美味しいラーメンを食べる、という訓練が音楽の美しいメロディーにつながったりもする、と、監督は本気(?)で考えています。
こうして蓄積したものは、自然と滲み出るものです。例えば指揮者が「ここは、こうやって、ああやって」と指示します。一見すると演奏者は雁字搦めになって自由がなくなった気がします。でも、音の可能性は想像以上の広がりがあります。色々考えた事柄は、指揮者の指示に従った、さらにその先にも開けています。アマチュアの場合、大概、指揮者の指示は音楽全体の整合性に基づくものです。その上に、演奏者の解釈上の何某かが結びつけば、それは結果として良い音楽に結びつくでしょうし、自分の充足感も得られるわけです。もし、これを自分考えのみ優先でやってしまうと、指揮者の意図とずれてしまい、結果としてアンサンブルから外れてしまうでしょう。
ちょっと、難しく書いていますが、例えば屋根の上のちぇろ男さん。決して音楽のことばかりを考えている人ではありません。仕事もそこそこするし(そこそこしかしない)、休日にはゴルフも(ばかり)します。
でも、仕事の合間合間(年中)に、ふと音楽のことを考える。ゴルフにうつつを抜かしているようでも、コースを歩きながら来週の演奏会(そういうわけで本番1週間前の練習に出ていない)のことを考える、酒を飲みながら、あの指揮者はこうする、ああする、(金くれ金くれ:カラヤン/悲愴)と皆を笑わす、こうしたことが、演奏に出る(出て良いのか?)。指揮者に指示されればその通りに弾けるように練習も(多分)しますが、自然に自分の持ち味をその中に織り込んでいる。この方の場合、あまりに自然なのでそういう過程が見えてこない。でも、まあ、「何故」を考えると言うのとはちょっと、違う気もしますが、音楽のことに頭を使っているのは確かです。ちぇろ男さん、引き合いに出してごめんなさい。
 「何故」の積み重ねがないと、ただ指揮者の言うとおりに弾いていることで「私は誰?」に陥ってしまう場合もあります。この場合は、実はまだ救いがある。音楽に対するそうした自分の姿勢に疑問がもてたわけですから。中には、「私は誰?」の疑問にも行き当たらない方もいます。時間つぶしか、何だか分からない目的でオケには来ているけれど、唯言われるがままに楽譜の音を出して満足してしまう。実は、プロの演奏家の方にも大勢、そういう方がいらっしゃいます。そういう方は音楽を人生の喜びにすることはなかなか難しいでしょう。別の喜びなら直ぐに手に入れるでしょうが。
 演奏者こそは音が全てです。これを機能的に正しい音を出すことが全てと、勘違いしている方が大勢いらっしゃる。そうではなくて、演奏者は出した音が全てなのですね。その出した音に全てが現れてしまう。だからこそ、能動的であってはいけない。積極的に、一つ一つの音に自分を込めていかなければならないのですね。
 そんな訳で、早いとこ、が最後に残されました。
私は、弾けないので、どうしたら良いかは皆さんが考えてみてください。
私は弾きません。

まあ、結局のところ、演奏者としては曲のどこが大事、と言うよりも、全てに意味を見出し、心を込めることが大事と言うわけです。

言っていることと、やっていることにギャップがあるのが、また味わい深い。


さて、そろそろ、合宿の時間ですね。
行って来ます。
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by bassbassbassyy | 2009-09-25 21:47 | 音楽
2009年 09月 24日

ブラームスはお好きですか?(11)

前回の続きです。
ソナタ形式だ循環形式だ、と言いながら、その形式がどのような型をしているかは学習済みでも、意外とそうした個々の形式の意味については考えていないことがありますよね。そこで、今更ながらに、ソナタ形式について解説しました。今回はブラームスがソナタ形式の何に拘っているのかを、考えて見ます。そして、ちょっと、長くなるけれど、一度まとめますね。019.gif

 交響曲では第1楽章にソナタ形式を用いるのが一般的ですが、それは、ソナタ形式自体に存在感があり、人の心に広大な空間を作るためです。これを1楽章に据え、聴衆の心に出来た空間に、これに続く各楽章で物語を展開させることで、自分の考えやイメージを聴衆に伝えようとしたわけです。それがロマン派の多くの作曲家の手法です。
 
 しかし、ブラームスは、少なくとも私の考えでは物語を持っていません。そこには音楽あるのみです。ブラームスが第1楽章にソナタ形式を用いたのは、過去の大家の作品がそのようにしているから、という理由も説明の一つでしょうが、ブラームスなりの理由があったはずです。
 それは、一つはソナタ形式がドイツ的な思考方法に合致していたからです。思考方法ですから、イメージではありません。思想信条でもない。ただの方法です。ブラームスにとっては「そのように致しました。」という意識もなかったかも知れません。日常的に何かを考えるように音楽を考える。言葉ではなくて音楽で音楽を考える。すると、それは自然にドイツ観念論的な方法に則って考えられる。極めて自然にソナタ形式が発想できたと思います。
 また、一つは、「存在感」だと思います。ブラームスは聴衆に忘れられないような存在感のある音楽を提示したかった。それも、自分が慣れ親しみ、聴衆も良く知っている方法で、です。ここに、ブラームスのドイツ的なものの一端が垣間見られます。
 ブラームスの交響曲における構築性の必要性は、人の心に音楽を提示するための空間確保であるわけです。また、その手段そのものが、存在感を主張しているわけです。そして、そこにブラームスは自分の人生観や生活感が滲み出ることを知っていた、または期待していたのではないかと思います。しかも、それは非常にドイツ的なあり方です。
このことは、形式についてのみ言えるのではなく、メロディーや音の考察にも、事情は多少異なりますが、そのまま利用出来ると思います。
 例えば、メロディーは小さな宝石です。生れ出た最初は形も歪で、色も鮮明さに欠けますが、いらないものを除き、削り、磨きをかけることで、宝石になります。この宝石を交響曲の中でどのように使うかで、何を表明出来るのか?ブラームスが表明すべきは音楽そのものです。メロディーが持つ歴史的民族的意味合いや叙情性は物語との関連がないので音楽存在そのものへ収斂されてゆきます。だから、極論を言ってしまうと、よく磨かれたメロディーならば、基本的に何を使っても構わないわけです。書いてみると、随分思い切ったことの様に思われますが、きっとそのはずです。しかし、メロディーは交響曲の中で磨かれた姿のままでいられるわけではなく、繰り返され、変奏され、分割されます。これに堪えうるものでなければならないし、他のメロディーとの組み合わせも考慮しなければならない。そうして選択されたものが交響曲で使われるわけです。音楽の手段に堪え得るメロディーだけが使われている、という程に音楽的な理由はないでしょう。また、実際に理論を扱う様に2つのメロディーを止揚させてみる。止揚することで生じる、大きな変化をみて、音楽的な奥行きがでるかどうか、を調べもしたでしょう。そうして、交響曲に使うメロディーを厳選します。選ばれたメロディーだけが交響曲に使われます。
 でも、実際はブラームス自身、個々のメロディーに対してそれぞれへの愛着はあったと思います。交響曲で堪え得なかったメロディーは歌曲になったり、室内楽になったりしたのではないかと思います。ともかくも、メロディーもまた構築性と等しく音楽の存在感を醸し出すものでなければならないと言うことです。041.gif

 さて、生活史を見たり、歴史を見たりした後に、楽典の話しに至ってしまいましたが、そろそろ、もう一つの結論に至っても良い頃だと思います。
次回は、一つの結論に至ることとしましょう。029.gif


 第1楽章の第1主題を扱った後からここまで、色々な話題を散文的に扱ってきたので、若干まとめてみる必要がありますね。
今日において、ブラームスの音楽は、深い意味を持ち、それに見合う強いサウンドの力を持ちながら、構築性の表現が困難なため、または聴衆の理解力が低いために、「心」に響きにくい。

この最初の結論から、我々が構築性のために何が出来るのか?という疑問に行き当たりました。そこでブラームスの交響曲の構築性は何のためにあるのか?ブラームスは何のために交響曲を書いたのか?を考えました。
そこでは、ロマン派の多くの作曲家と異なりブラームスの交響曲には表題性がなく、理念や物語を託しているのではない事を見出し、そして、音楽のための音楽であることを結論付けました。しかし、全ての作曲家の内なる音楽は理念や心情を超えて、人生観や生活観に根ざしたものが必ず含まれており、どんなに表題的な音楽であってもそれは滲み出ていることを考察しました。ブラームスの交響曲は表題的ではなく、純粋に音楽的であるので、ブラームスが滲み出しているはずの世界観や人生観に着目してみました。
そこで、ブラームスにとっての規範が何であるか、人生観まではなかなか踏み込めないものの、社会背景と照らしてどのような生活態度であったかを調べました。生活歴に関しては、でかおさんの紹介もあって「回想録集」に委ねましたが、社会背景については大雑把ですが、それを概観しました。結果、ブラームスは「古き良きドイツ」と、その「ドイツ人の生活」を人生の規範に据え、その枠組みから踏み出すことを躊躇していたように見えました。音楽もまた社会と隔たったところに位置づけました。このことは、自らが尊敬するシューマンとはまったく異なった生き方でありました。そこで、音楽に立ち返りブラームスの人生観や生活観が滲み出ているはずの、メロディー、構築性、音そのもの、から特に構築性について「形式」を詳しく見ることで関連を見出そうとしました。形式との関連を見ることでおのずと、メロディーや音そのものとの関連も見えてきました。ブラームスは彼自身より古い手法によって音楽を音楽に託せる事を見出し、その手法で音楽の存在を際立たせることが出来ました。その手法とはソナタ形式であり、メロディーもまた交響曲に耐えうるように磨き、選別することで音楽の存在を主張し、音そのものもまたこれに習う形でブラームスの交響曲に現れているだろう、ということまで、たどり着きました。

 そして、一つの結論に至りましょう。要するに上の20行あまりをまとめるわけです。
 若干言い換えも入りますがご容赦を。

 ブラームスの交響曲は音楽の存在を主張するためにあり、そのためにソナタ形式等、従来的な方法で作られている。これらは、「古き良きドイツ」を規範とするブラームスの信条にも合致した方法であった。こうして絶対音楽としての交響曲をロマン派の時代に築くことが出来たが、そのためにブラームスは自らの存在する時代、社会と自らの音楽に隔たりを置かねばならなかった。

 長々と書いてきましたが、言っていることはこれだけです。と、言うわけでもないのですが、ともあれ、まとめは以上です。

 そして、ここから次の話題に進むわけですが、その前に一つの疑問だけ呈しておきたいと思います。
 少しだけ本文に書いたのですが、社会と自らの音楽に隔たりを置かねばならなかったことで、ブラームスの立ち居地は微妙に歪みを生じたことと思います。「古き良きドイツ」人であるブラームスが、尊敬するシューマンの在り様と異なった位置に自分を置かねばならなかったこと。それは音楽的な意味合いはまるで異なるものの、若い頃に「穏やかに」決別したリストの立ち位置に近いことを意味したこと。この二つから生じているはずです。
 それは、またブラームスの人生的な課題であり、社会に直面している自分の姿でもあったわけです。また、何より音楽的な意味で自分が何を成しているのか不安にさせる立ち位置でもありました。この歪みは間違いなく音楽、特に交響曲に現れているように思います。しかし、その歪みがどのように「含意」されているか?これは、大きなテーマになり得ると思いますが、ここでは考えずに、演奏を実践しながら噛み締めたいと思います。038.gif
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by bassbassbassyy | 2009-09-24 00:32 | 音楽
2009年 09月 21日

ブラームスはお好きですか?(10)

 ブラームスの人と歴史についてかなり長々と考えてきましたが、これが交響曲にどう影響しているのか、これを考えることで、演奏上なにが変わってくるのか、そこらへんに話しを持ってかないと、脱線したまま終わっちゃいそうなので、そろそろ音楽に話しを戻します。でも、”見えてくる”のはまだちょっと先になります。037.gif

 ロマン派の多くの作曲家は自らの理念を現世との関係を持ちながらも一歩か二歩、場合によってはブルックナーのようにまるで関係ないと思われるところまで進ませて、音楽に託す傾向があります。過去であれ未来であれ、もしくは宇宙であれ、現世と連なりながらも現世とは異なる理想(反理想)世界を音楽に託すわけです。こう書くと分かりにくいのですが、要するに、現実の出来事をヒントに物語の世界を作り上げてそれを音楽にするわけです。
 例えば、国民学派のスメタナについて考えても、「我が祖国」のボヘミアは民族自立に燃え立つ当時の現状のボヘミアではなく、ボヘミアの自然とその自然の中で生活する人々を描いています。その描写は社会的な性格のものではなく、ボヘミアの自然と人との不変的な関係性にある一種の理想郷です。そうした理想郷的「我が祖国」だからこそ第2の「国歌」たるを得るわけです。
 悲劇的な意味合いでは、例えばマーラーなんかも同じことです。常に自分探しをしなければならず、立地点としたいはずのユダヤの血は社会的差別に会い、そこに安住することが出来ない。この現実に対する心の葛藤をイメージしたものが曲に宿る。メンデルスゾーンやシューマン、良く知られているロマン派の音楽家は誰もがそうした傾向を持っています。
 しかし、ブラームスは交響曲に音楽を託しているので、現世とも、理念とも、そもそもの隔たりがあります。何度も言うようですが、そこには意識的には現れ得ない、人生観や生活観が滲み出るのみです。そこでブラームスが作曲した交響曲に対して大切にしなければならないのは、音楽の背景となる理念や物語性ではなく、メロディーや構築性、そして、そこに生み出される音「そのもの」だろう、と言うことです。それを素直に探求することでまた、滲み出ている人生観や生活観が表現されると考えられるわけです。
 でも、こういうことも言えると思います。物語性が欠けているのなら、音楽としての構築性は何のためにあるのか?と。
 以前から述べているとおり、音楽の構築性は、空間と時間の両方を人の心に創造し、そので何かしらが行われる様を提供する場であります。時空世界と物語がなくて、何のための構築性か?
まずは、このことを知るために、あらためて形式について考えて見ます。

 ベートーヴェンが荘厳で緻密なしっかりとした建物みたいなソナタ形式を用いたのは、そこに庭や村や森の背景をくっつけて一つの城下町を作るためです。城下町には色々な人が住み生き生きと活動しています。領主もまた、悪い領主であれ、良い領主であれ、城下の人々とまみえながら生活しています。そこに物語が生まれた。狭苦しい制約ばかりの生活を強いられているのは、この城下では領主領民共々で、圧力は「外圧」です。共に手をとり、勝ち得た自由を喜びを持って掲げました。この曲が「運命」なわけです。別に領主、領民でなくても構いません。城を寺や、役所や会社に例えたって何ら問題はありません。ともかく、人が社会的に生活するくらいの広がりのある空間です。ソナタ形式は人の心に時間的経過を含む広大な空間を作ることが出来ます。それ自体が物語的要素を持っていますが、交響曲では、そこにロンドやスケルツォ等の別の形式をくっつけて、物語を、より広く、深いものに仕上げているのです。
 ベートーヴェンはロマン派の作曲家ではありませんが、ロマン派の作曲家に必要な空間作りの技法は殆ど全て彼の技法に拠ります。後の作曲家はそれを応用することになりました。ソナタ形式を用いることで人の心に音楽のための空間が出来ることを、いわば「発見」し、その作り方を整えたのがベートーヴェンであったわけです。
 ソナタ形式の最も重要な効果は音楽の存在感を醸し出すことです。ソナタ形式は文章で言えば「起承転結」。これはその他の形式にも言える事ですが、ソナタ形式の存在感は格別です。例えば循環形式は一つのまたは複数の旋律がその他のものの間に繰り返し垣間見られることで、音楽を印象付けますが、主題となる旋律や流れそのものは印象的ですが、全体としての存在感には欠けるものがあります。有名なところではサンサーンスのオルガン付きがありますが、どうでしょう?存在感がありますでしょうか?印象的ではありますが。
 ロンド形式はどうでしょう。これも、比較的単純な構造で基本的には二つの旋律が一つの別の旋律を挟んで繰り返されます。速いテンポの躍動的な旋律が繰り返されることで爆発的な高揚感があります。ベートーヴェンの第7交響曲の4楽章はまさに興奮しますね。でも、存在感は今一つではないでしょうか。循環形式もロンド形式も、この応用がジャズです。ブルースは一定のコード進行によって支えられている一つのテーマを何十回も繰り返すことで演奏されています。ブルースの曲は何千とあるのに、コード進行の型は一つです。たった12小節の繰り返しが、世界中で多くの人々を魅了しているのです。こうした、比較的な単純な作りの音楽は、もとはどこの民俗音楽でも行われていることで、人の心は「繰り返し」によって何らかの高揚感を生む、ということが利用されているわけです。クラシックではシャコンヌやパッサカリアも同じですね。

 ソナタ形式は序奏の後、異なる二つの旋律が提示され、それらが変奏され、再現され、終結します。特に大事なのは提示された旋律が変奏される際に大きな変化を感じる調性に移行することと、再現される際には二つの旋律(主に第2主題が)が調性も(第1主題に)より近い関係に置き換えられ、この二つが融和することです。当然第1主題は変奏されながらも何度も繰り返されるので非常に印象的になりますが、第2主題もまた印象的であり、再現されたときには第1主題に寄り添ってこれを支えて奥行きを醸し出します。限られた時間の中で旋律が繰り返され変奏し、融和することで空間的な広がりと時間的経緯を印象付けるわけです。さらに、終結部において、主調は守りながら(守られないこともたまにあります)比較的自由に第1主題や第2主題、他の旋律を様々な形で綾なす様に繰り広げ終結させることで、だめ押しする(ベートーヴェンはここが得意)。他の形式に比べ圧倒的に存在感があるのは空間的な広がりと時間的経緯が印象づけられるからです。また、再現部で「融和」すると言う事柄はドイツ観念論的な思考方法に近いものがあります。対立する概念(第1主題と第2主題)が様々に精査(変奏)された後に止揚(アウフヘーベン)する。ソナタ形式はドイツ人の思考法、19世紀の世界を代表する考え方の一つと同じような方法で現せられているわけです。ドイツ人にとっては音楽と言葉を同じ方法で考えることが出来たわけです。
 得意になっちゃいますよね。音楽は自分たちのものだと思うでしょう。
 ベートーヴェン自身、ソナタ形式の基本的なお約束事については少しづつ、ちょっと変えちゃえ、と変形させています。ブラームスの頃には色々な変形が行われて、逆にソナタ形式の効果が薄れてしまうものも沢山作られていました。今日、良く聴かれる曲はその後の淘汰に勝った音楽と言えますね。

ちょと、長くなったので、回を分けます。
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by bassbassbassyy | 2009-09-21 02:00 | 音楽
2009年 09月 18日

ブラームスはお好きですか?(9)

世界史の時間は些か退屈だったかも知れませんね。
ともあれ、今度は、そんな社会背景を有したブラームスについて、どんな人だったのか、ちょっと考えて見ます。014.gif

 ブラームスは特別に音楽の発展を考えている人ではなかったことは、「古典的」「保守的」と言った言葉でよく紹介されている通りです。しかし、変わったことを拒絶したり、新しいことを意味なく嫌ったりすることはなかったようです。同時代のブルックナーとの争いは、その殆どがメディア上で作られた物であったし、今日よく理解されている、ワーグナー派の代表としてのブルックナーと争ったと言う構図は事実ではありません。「指輪」のことは公然と茶化したり、嫌ったりしていましたが、ブラームス本人が、ほぼ死ぬまで大切にしていた「マイスタジンガー」の実筆総譜は面白いやり取りの末、ワーグナーから直接貰ったものでした。ワーグナーを尊敬しているとも言っています。ただし、自分の作るものにおいては、古典的なものを手本として、さらに人に教えるときは自分のものではなく、古典から引用して音楽の基礎として定着したものを教えていたようです。
 こうした、「昔からのもの」を大切にする気風は日常にも反映されており、それはブラームスにとって「古きよきドイツ的なもの」となって生活の折々に繁栄されています。「古きよきドイツ」とは自らがプロテスタントであったことにも関係しますが、「ヨーロッパの田舎」としてのドイツ人気質がその本質だと思われます。
 これは今日我々が抱いている現国家ドイツのドイツ人のイメージとはかけ離れていると思います。しかし現在でもドイツ人の本質はそこにあると考えている人は大勢いるようです。ドイツで生活したことのあるわたりさんに伺うと分かると思いますが、田舎人ドイツ人のイメージには質素で、朴訥で、まじめで、内向的で、シャイでありながら、明るく、社交的で、親切で、親しみやすく、家庭を大切にし、大地を愛する、というものがあります。
 ドイツにおける産業革命の後、プロイセン帝国やウィーンで流行った「ビーダーマイヤー」とはそうした古くからのドイツ人気質を現すものでした。国政や外交に関心がなく、華美な装飾を嫌い、やさしい気遣いを大切にし、ウソをつかないことが美徳でした。これが生活様式や美術に反映されたのが「ビーダーマイヤー様式」です。
 そもそも、小国の集まりであったドイツでは、領主と領民の間でも人としては対等で、両者間の契約(民を守り、税を払う)では経済的な事柄も大切でしたが、「信義」を重んじたと言う点で他の先進ヨーロッパ諸国諸領とは異なった側面を有していました。プロテスタンティズムがそうした気質を養ったという人もいます。また、「信義」は古代ローマからの伝統でもあります。ブラームスはそうした古き良きドイツとドイツ人気質を愛し、自らも実践していたように思います。逆に、華美なもの、表面的なもの、経済的のみのものは嫌っていました。これはマスコミを嫌い、社交界を嫌い、権謀術数に満ちた音楽の業界を嫌い、「気難しい」「不機嫌」と言われる基となったようです。
 また、親しみが過ぎて、軽口を叩いたり、品位に欠けるジョークを口にしては顰蹙を買っていたのも事実です。それが元で、親友と言われる人々、例えばクララでさえ辟易し、関係がこじれることもしばしばだったとか。まあ、今日的に言えば、所謂「オヤヂ」だったのでしょう。
 
 そうしたブラームスは特別発展的な音楽を志向したのでもなければ、当然社会的な音楽を志向したとも言えませんでした。社会問題に対する認識がどうであったのか、詳しい記述は見つけることが出来ませんでしたが、ビスマルクの熱烈な支持者であったのだから、関心がなかったわけではないでしょう。また、子供好きでしたから、貧困に喘ぐ子供を目にすれば、同情的だったに違いありません。しかし、可哀想、とは思っても、それが音楽にまつわる活動に繋がることはありませんでした。そうした子供たちには施しを与えるべきだと考えたのでしょう。売名と思われることを嫌っていたので、無名寄付を行ったり、行おうとした記録があります。また、労災婦人のための慈善演奏会に出演した記録はあります。
 
 ブラームスに限らず人の人生観は簡単には説明できませんが、ブラームスは複雑で動的な社会背景を有しながら、自分の音楽とそれらを結び付けようとはしませんでした。その、「しない」ことが彼の人生観の一つだと私は考えています。付き合いそのものは短時間でしたがブラームスの敬愛するシューマンは「複雑」で「動的」な社会を全て背負い込まなければならない作曲家でした。殆ど「業」といっても良い程のその性がシューマンの人生をあのようなものにしてしまったのではないかとも思えます。ブラームスはそれを近くで見ながら、そのようにはしない自分について、どれだけの信念があったかは分かりませんが、自分の人生の中で音楽を社会とは隔たったところに位置づけたわけです。しかし、そのことでブラームスは、計り知れない苦しみを感じていたのではないかと、私は思います。
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by bassbassbassyy | 2009-09-18 06:38 | 音楽
2009年 09月 15日

ブラームスはお好きですか?(8)

さて、世界史の時間です。027.gif
ブラームスが1885年に第4交響曲を書くまでに起きたヨーロッパの大事件のうち、ブラームスの周りの空気がどのようなものだったかを彩りそうなものを選んでまとめてみました。
あまり、興味のない方も時間があるようならば読んでみて下さい。あまり、ピンとは来ないかもしれないけれど、ヨーロッパの情勢がいかに複雑かは理解していただけると思います。030.gif


1842年ハンブルクの大火、ブラームスは9歳でしたが、この大火で自由都市ハンブルクは大打撃を受け経済崩壊の危機に瀕しています。翌1843年にブラームスは地元の音楽家マルクスゼンに師事しますが大変なインフレ状況で酒屋等のバイトをして家計を助けねばならなかったとのことです。

1848年2月革命、3月革命:パリで起きた農民と労働者の蜂起(2月革命)は翌月にはドイツ・オーストリア・イタリアにも伝播し各地で同様な革命(3月革命)が起きました。基本的には農労者の困窮に対する不満の爆発ではありますが、ヨーロッパ的な社会規範が一つ瓦解したと考えられる出来事です。特にメッテルニヒによるウィーン体制下の民族主義、民主主義の抑圧政策基盤はこのとき崩壊しました。革命自体は幾つかの局面の後に鎮圧されますが、音楽の都ウィーンでも多数の市民が弾圧の犠牲になっています。ちなみに、北イタリアのオーストリアからの独立運動を鎮圧したのがラデツキー将軍で、父シュトラウスが彼のための行進曲を書いたのもこの時です。

1852年フランス第2帝政:ルイ・ナポレオン=ボナパルトが第2共和制大統領の立場でクーデターを起こし、現政権制度を武力で解散した後、国民投票で皇帝となっりました。何で大統領なのにわざわざ、クーデターまで起こして皇帝になったのか、と思いますが、必然性はあるのです。おじさん(良く知ってるナポレオン)の失脚の関係で幼少時代をドイツ語圏で生活した彼は、2月革命の関係でフランス共和制大統領になったものの、政権内に友達がなく思う様に政治が出来なかったのですね。皇帝になった後、自分の思うように政治が行えるようになると、権威主義的傾向を強めるとともに、植民地政策でも帝国主義的となり、勢力拡大中の後進国ドイツとは何かと対立する様になります。

1862年ビスマルク、プロイセン首相に就任。実は我々の知っているドイツはこの頃はまだありません。この頃のドイツを説明するのはとても難しいし、正確には出来ないと思いますので、文献を読んで下さい。大雑把には、オーストリア帝国とプロイセン王国とドイツ連邦からなり、ブラームスのいたハンブルクはドイツ連邦の由緒ある自由都市(教皇から3回も認証されてます)でした。ブラームスにとっての「国」観ってのは、我々とは相当に異なると思います。
1864年統一ドイツ成立(大ドイツ主義:オーストリア主導)、ドイツ・デンマーク戦争、1866年ドイツ・オーストリア戦争、1867年北ドイツ連邦成立(小ドイツ主義:プロイセン主導)1870年ドイツ・フランス戦争
:戦争ばかりですね。
統一ドイツはドイツのことではありますが、オーストリアの思惑と南ドイツの諸勢力の思惑が重なって出来たドイツで、今日的なドイツよりかなり広いドイツが出来ました。これを許したビスマルクは政治に巧みだったのですね。時期に瓦解することを見越していたのです。66年の戦争でオーストリアの思惑を排した後、67年、今のドイツに近い統一ドイツを成し、1871年初代ドイツ帝国宰相に就任します。
フランス戦争では先のナポレオン3世が失脚し、その後の数ヶ月間、パリコミューン(労働者革命による社会主義国家)が実現します。それも、後に元の帝政政府に挽回されて、コミューンにかかわった市民の大量の処刑者を出します。
1878年社会主義社鎮圧法:社会主義思想はイギリスから発生して広くヨーロッパに行き渡っていたことは48年革命やパリコミューンをみてわかると思いますが、これは産業革命以降、資本主義経済の発展の陰で多くの貧困者と労働問題を社会が抱えていたからです。40年代にはマルクスが社会主義の理論強化を行い、やがて唯物史観論による革命の必然を説く様になります。前々から現体制から社会主義者への弾圧は行われていましたが、この法律はそれを制度化したわけです。同時に、災害保険、健康保険、老齢年金等の社会保障制度をビスマルクは実施してゆきます。「飴と鞭」と言われる政策です。街には貧困者があふれ、工場では婦人が、炭坑では子供が働いていました。事故も多く、大勢の労働者(主に子供)が日々死んでいたとのことです。

1881年オーストリア、ロシアと三帝協商、1882年オーストリア、イタリアと三国同盟。こうした同盟によりイギリス、フランスの大国を牽制しながら、条約当事国もまた緊張状態に起き下手に動くと火がつく仕組みを作ることでビスマルクはドイツの勢力拡大と一定の平和を手に入れました。

物凄い時代です。今の私たちの時代では、自民党から、民主党に変わっても日常的にはどうと言うことはありませんが、ブラームスの時代は、政治にかかわることは生きるか死ぬかの問題を必然的に孕んでいました。政治の影響力は強く、
この間、ブラームスはハンブルクからウィーンへ移り住んでいますし、オランダ、デンマーク、イタリアやスイスへ旅行もしています。友人も国籍は様々。国家観と言うものは相当に複雑になると思いますが、ブラームスは愛国者でした。71年にはヴィルヘルム1世に勝利の歌を献呈しています。同じ年にウィーンに移り住んでいる感覚も良くわからない。ともかく、ブラームスの生きた時代には、こんなことがありました。4番交響曲を書くまでの間に限りましたが、なかなか大変なもんだと思いますよ。
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by bassbassbassyy | 2009-09-15 13:00 | 音楽
2009年 09月 09日

ブラームスはお好きですか?(7)

 ブラームスの場合は、音楽に託す思想信条等が同時代の他の作曲家と異なりました。特に交響曲については、各曲に対する音楽以外の固定観念を聴衆に持たせまいとする努力すら感じられます。ブラームスは散文的に思いついて貯めておいたアイディアを文学的な関係性を絶って一つの音楽とするために、交響曲の構成に対する特別なアイディアについても考えねばなりませんでした。または、文学的連関を断って思いついてしまった構成に関するアイディアを具現化しなければならなかった、ともいえます。その基になるのは、日常的なブラームスの思考規範であり行動規範であったと思います。

ブラームスの日常の生活態度は先に紹介した「回想録集」に詳しいですので、是非、読んでみて下さい。とても面白いです。しかし、彼の日常の別の側面。つまり、ブラームスを取り巻いていた社会状況はどんなものだったか。これを知っていないと、折角の書簡集も充分に読み取れないところが沢山になってしまいます。
今から見ると、それは「歴史」の領域の話しです。しかし、例えば私にとっての20年前、昭和天皇が崩御し、カラヤンが他界し、天安門事件が起き、チャウシェスク政権が崩壊し、本人が銃殺された年であると思い起こせる様に、ブラームスにとっての例えば第4交響曲を書いた20年前の1865年、「トリスタンとイゾルデ」やシューベルトの「未完成交響曲」が初演されたり、独逸・デンマーク戦争の処理が行われたり、リンカーンが暗殺されたりと言ったことは、充分記憶に残っていることに違いないのです。そして、ブラームスの頃のヨーロッパの社会状況はまさに「激動」の名に値する時代でした。

私たちは、音楽愛好家としてクラシック音楽と接していながら、その作品が生まれた時代的、社会的背景にあまり目を向けていません。バッハやハイドンを演奏する時にそれがとても重要なこととは確かに思いにくいですね。でも、ロマン派の音楽はそう言うわけにはいかないことが多いと思います。歴史的、社会的認識(どんな認識であるかは個人のものですが)を持っておかないと、この時代の後に起きた多大な幸福と災厄に対する責任を、実は、私たちも背負っていると言うことがわからないまま、つまり連綿とした時の流れの中で「繋がっている」という実感を充分に持てないまま楽曲に取り組むことになります。これは「空洞的」な音楽と言われるの最も基本的な立場となります。
とは言え、ここで十分な歴史の講義は、私の能力と時間と労力からして出来ませんので、ドイツ中心の歴史から大まかなことだけトピックと簡単な解説として後日記載しますね。ブラームスがいかに激動の時代に生きていたのかが分かると思います。
すると、6000円出して買った「ブラームス回想録」集もより面白くなりました。
ちょと、得した気分になりましたよ。
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by bassbassbassyy | 2009-09-09 03:03 | 音楽