カテゴリ:音楽( 41 )


2009年 09月 02日

ブラームスはお好きですか?(6)

さて、先にSNS上ででかおさんにご紹介頂いた、ブラームスのエピソード。「ブラームス回想録集①~③」(2008:音楽の友社)読みました。これはお勧めです。ブラームスを身近に感じたいなら6,000円出して買って損はないです。でかおさんのご紹介通り、気難しくて不機嫌で、人を寄せ付けないブラームスのイメージが一転します。これを読んで、私はブラームスの時代背景とその作品との間にある「そぐわないもの」の殆ど(全てではないですよ)が解消されました。003.gif

ブラームスは音楽で何を語っているのか?
これにも、大きく関係しますので、みなさんどうぞ読んでみて下さい。
さて、結論からいいます。

「ブラームスは音楽で、音楽を語っている、もしくは主張している。」

なんか、簡単過ぎる言い回しで真実みがないですね。不思議なことにこういうことは色々な評論家の先生方が仰る様に難しい言い回しをしないと、本当ではないような気になってしまう。

「ブラームスは音楽でのみ語れる事柄を表現している。」

こうすると、文章的に「?」があって、少しは本当っぽいかも。

ベートーヴェンは人間の栄光と人類の平和を音楽に託しました。ベルリオーズは人間の内なる不条理を交響曲にしました。多くの作曲家が、自分の思いや考えを音楽に託しました。ブラームスは自分の音楽そのものを音楽に託した、と思います。これは、「音楽のための音楽」と言ってしまえば同じであるはずのハイドンやモーツアルトの音楽の在り様とは異なります。ハイドンやモーツアルトの音楽は、実用音楽でした。決められた空間で、決められたお客に対して、最高の満足度を達成するのが目的です。もちろん、自分のためにも作曲しているわけですから、音楽の意味としてそれが全てではありませんが。ブラームスの場合はロマン派全盛の時代にあって、世間的に言われる思想信条、場合によっては実用性すら省みず、ただ音楽のために音楽を考えたのではないかと思うのです。どちらかと言うと、バッハの世俗音楽と言われている分類の曲に似ているかもしれません。
ただし、ブラームスの場合、ロマン派と言われる音楽を背景にこれを考えなければならないのでとてもややこしい。

例えば、先のベルリオーズですが、彼自身がアヘンを吸ってか、または、綿密に練ったか、は知りませんが、ともかく殺人の計画を立てた経験を、架空の男の見た夢の話として音楽にした、と言っています。多分、半分は本当でも、半分はウソです。ミニチュアスコアを買うと高名な学者先生の解説がついているので読んでみて下さい。私はスコアを何処かになくしてしまった。確かに夢らしい不条理な話ではありますが、一連の文脈があり具体性に富んでいます。あんな夢、見る人いますかねぇ。ロマン派文学の中ではありそうですけど、私の周りで見そうなのはひろささんくらいでしょうか。
着想の基となったのは夢でも、それを敷衍する別の話があって、それと分かるところは秘匿しながらストーリーを組み立てた、と言うのが本当のところだと思います。これは、当時のフランスロマン派文学の有り様と深い関係がありますな。
まあ、何にせよそうして曲を書いたわけですが、あの交響曲の全てがベルリオーズの考えたストーリーに合致しているわけではありません。そこにも必ず音楽のための音楽が入っていると思います。固定楽想の手法を採用しているのは音楽のための手段ですね。
誰でもそうですが、何か良いアイディアを思いつくとそれを実現したくてたまらなくなる。作曲家は何かを表すために音楽を考える時もあるでしょうが、具体的な目的もなく、ふと思いついてしまうアイディアもあるはずです。むしろ、そうしたものの方が多いかも知れません。こうしたアイディアは使わずにおれない。なんだかんだ理由をくっつけて曲にしてしまうこともあるでしょう。だから多くの作曲家が楽譜帳を持って歩いた。ふっと、湧いたアイディアを書き留めるためです。そして何年も暖める。そして機会が来たときに作品に織り込むのです。

こうしたアイディアは作曲家の生活そのものです。具体性はないかも知れないけれど作曲家が生きる中での様々がエッセンスのように凝縮してその中に入っています。もちろん思想信条が入ることもありますし、散歩の途中で見かけた乞食の女の子のことが入っているかも知れない。神への思いや、戦争や病気や、ともかく色々です。ですから、個々のディティールとその曲に託された思想信条とは、実は関係がないこともしばしばなのです。しかし、単にそれだけでは、何故そのアイディアをそこに持ってきたのかの理由が分かりません。そこにそれを持ってくるのもまた、作曲家の価値観であり、思想信条であり、センスなのです。なんか取り留めのないような話ですが、実は私たちも日常的に同じ事をやっています。人に何か抽象的なことを伝えなければならないとき、「例えばね、」で始まる文脈をよく用いますが、これは同じことです。基となる考えがきちんとしていして、「例」の選択にセンスがあれば、話の内容が相手に伝わるばかりでなく、自分の人となりまで相手につたわります。でも、「例えばね」で始まる話そのものは、そのとき相手に伝えるために蓄えていたわけではないのです。
そんな訳で、どんな曲であれ、その曲のもつ意味合いとは、実は関係のない音楽のための音楽が含まれているわけです。
ちょっと、話しが脇へ言ってしまいました。
ここらで、一区切りしておきましょう。
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by bassbassbassyy | 2009-09-02 01:02 | 音楽
2009年 08月 26日

ブラームスはお好きですか?(5)

「投稿がない!」と大人気もなく騒ぎ立てたら結構、色々なお話を頂きました。やってみるものだ。003.gif
(今日は大いにまじめなので、ここから先は字を大きくしたり絵を入れたりしません。自分がわからなくなっちゃうからね。)

みなさんからのお話を伺って、ブラームスには人それぞれ、様々な思いがあることがわかりました。
そんな中で、何となく共通した思いは、「難しい」というものでした。それと同時に「来ない!」感覚ですね。
3番の第1楽章の第1主題で「胸が張り裂けそうになる」ゆーすけさんみたいな方もいらっしゃいますが、ベートーヴェンやチャイコフスキーやマーラーのように心に直に届くものが少ないという感じが、「良い音楽なんだけどなぁ」と言う感じと相まって、「難しい」と言う言葉を生んだのだと思います。
このことは、ブラームスに限らず、今日的な音楽の在り様に対する示唆ではないかと、私は思いました。
音楽が王侯貴族の物で、教養の一部であった古典時代とは違い、今日の音楽は、「頭」(教養)と分離した、「心」で聞かれている一つの査証でしょう。

ブラームスの時代は今日同様、音楽が大衆のものになって定着していました。しかし、啓蒙と革命の時代を過ごした後の民衆は産業の担い手である中産階級と、産業の被使役者である労働者階級に分割され、経済力とともに、教養が階級を二分する一つの指標でした。音楽が対象とする大衆はこの両者を含みますが、音楽の担い手の一人である作曲家は中産階級の援助なくしては(経済的に)成立しなかったと言う現状があったので、無教養な大衆に訴えるサウンドの力とともに前時代以上に教養に訴える哲学的な意味を持たなくては十分に受け入れられなかったようです。つまり、当時、音楽は頭と心で聴かれていたわけです。
ここで言う哲学的な意味とは文脈的(含む:反文脈的)な意味と形式のことです。哲学的な意味については何となくわかると思いますが、形式が何故ここで出てくるのか?(形式とは、例のソナタ形式とかロンド形式のことです。)

今日的にはあまり感じることはありませんが、形式と思考様式(意味を考える方法=哲学のこと)とは密接な関係があります。特にドイツ観念論(さらに、その中でも取り分けカント、ヘーゲルの弁証法)はシュトルム・ウント・ドラングを通じて文学に浸透し、ハイドン以降の音楽形式の考え方に思考様式の類似性(例えばソナタ形式は弁証法的に説明が出来る、と言うこと)が見られます。形式自体は思想の歴史より古くからあったのですが、文学の古典主義からロマン主義へ至る経緯で音楽に如実に影響を及ぼしたようです。

そして、心情に訴える力(=サウンドの力)と哲学的な意味とを結びつけるのが構築性です。この構築性は古典派の最後の代表と言われるベートーヴェンが具体的な方法でもって具現化しています。ロマン派の音楽とはこの哲学的な意味を無裁量に拡大解釈し、具現化された構築性の手法を最大限利用し、さらに磨きをかけ、殆ど崩壊の淵にまで発展させて、拡大した哲学的な意味に見合うようにした音楽とも言えますね。ともかく、そうしたわけでロマン派の音楽は様々な思想信条を備え、それに見合うサウンド力を持った作品群となりました。今日、これらの作品を聞くとき、主に教養の部分が担っていた哲学的な意味について上手く聴き取れなくても、サウンド力は私たちの心に強く訴える力を持っています。今日的な我々の音楽の聴き方は、このサウンドの力に重きを置いたものと言えますね。相対的に意味の方はどんどん顧みられなくなって来ているようです。

そうしたときに、今日、ブラームスの音楽が「来ない」と言うことについては、ごく単純に考えると次のことが言えると思います。
①哲学的意味合いが薄いために、強いサウンド力を持っていない。
②哲学的意味合いは深くあるのだが、強いサウンド力は備えていなかった。
③哲学的意味合いは深くあり、それに見合うサウンド力も備えているが構築性に問題があるため「来ない!」

我々は「難しい」と感じており、且つ、主題や和声にも魅力を感じているのだから③が最も正確に言い当てているようですね。
この「問題」をさらに幾つかの可能性として考えてみると、次のように言えると思います。

イ:ブラームスの作曲技法に問題があり構築性を持つことが出来なかった。
ロ:ブラームスの作曲技法には問題なく構築性が発揮されているが、演奏がそれを表現出来なかった。
ハ:ブラームスの作曲技法には問題なく構築性が発揮されており、演奏もよく表現出来ているが私たちがそれを聴き取れなかった。

これは明らかにロとハが最適と言えるでしょう。

今日において、ブラームスの音楽は、深い意味を持ち、それに見合う強いサウンドの力を持ちながら、構築性の表現が困難なため、または聴衆の理解力が低いために、「心」に響きにくい。

(かなり無理強いだけど)一つの結論を得ましたね。

では、次に私たちの演奏について考えて見ましょう。ここまで分かっていれば、そんなに難しい話ではありません。
私たちが4番の交響曲を演奏する上で大切になるのは、第一に構築性です。
構築性を表現するには、この楽曲に付されている意味を理解し、サウンドの力を充分に発揮する必要があります。
優先順位を付けるならば、「構築性」、「サウンドの力」、「意味」となりますが、構築性自体がサウンドの力と楽曲に付されている意味に依拠している訳ですから、3つは等しく大切だと言うことになりますね。
「なんだ、他の曲でも同じじゃないか!」と思っている、あなた(私も)。そりゃ、そうなんだけれど、今まで自分がオケで演奏する上で、どれだけこの3つを大切にして来たでしょう?
特に「構築性」のために何か出来たでしょうか?
少なくとも、私はそんなに考えていなかったなぁ。
でも、ブラームスを演奏して、お客さんと何かを共有したいと思ったら、これ、大事です(パクリ)。
自分と同じく、煮え切らない感想をお客さんに抱かせるのは、どんなもんでしょうかね?
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by bassbassbassyy | 2009-08-26 02:01 | 音楽
2009年 08月 12日

ブラームスはお好きですか?(3)

前回、最初の8小節についてのみ、色々と書きましたが、こんな調子でずっと終わりまで続きます。意味と仕掛けだらけ。それでも1番よりは相当シンプルだと思います。でも、ブラームス自身はそのことを「複雑」とは考えていなかったようです。全体として大きな主張があり、それは起承転結をもって語られている。このことは他の作曲家とて同じで、特別なことではありませんね。あまりに普通です。普通過ぎる。
では、あんなにも沢山の仕掛けをして何を語っているのか?013.gif

まあ、この話題に入る前にブラームスの印象、またはブラームスの曲の印象について、
みなさんがどう感じているか伺ってみたくなりました
どの音符にも意味がある。仕掛けがある。そのことを知っている今、私自身は「感じ」よりも「考える」ことでブラームスを身近なものにしようとしています。
でも、そんな必要があるのか?聴いて感じたままに弾くことも大切なのではないか、とも思えます。
そんな訳で、今回は「感じた」ことを考えて見ました。027.gif

私の場合、ブラームスとの出会いは相当に不幸なものもありますが、同時に忘れ得ない思い出のものもあります。
最初は交響曲4番。この曲は作家のシュトルムとの出会いとほぼ同時期で、相乗効果的にロマンチックでした。まあ、思春期の頃でもありましたのでシュトゥルム・ウント・ドランクを地で行くような感じでしたね。色々ありましたなぁ(遠いい目)。048.gif
次は交響曲の2番。パート譜でした。オケでの体験は散々。でも曲の素晴らしさは感じました。
ほぼ同時に、ピアノ協奏曲2番とドイツ・レクイエムをラジオからエアチェック(古い)してます。この2曲も素晴らしいと感じました。これら4曲は大好きになり、聴きまくりましたね(レコードが白くなり、テープは伸びた)。
そして、暫くしてから交響曲の1番を聴きました。これはちょっとショックでした。
何も感じない。心に響くものがない。
ビックリしちゃった。本当に「なんだこれ?」。第9との関連も全然わからなかった(今でもわからない)。でも、4楽章の有名なアレグロ・ノン・トロッポの前、ホルンの美しい響きには感心しました。
その頃私のお気に入りには、マーラー、リヒャルト・シュトラウス、シベリウス、ショスタコビッチ、等があり、感動することについても、感心することについてもブラームスの1番は物足りなさを感じました。
それから長いブランクがあり次の出会いは6重奏の1番です。遊びで2番チェロを弾いたのですが、この時は弾けてはいませんでしたが、音楽に感動しました。同じ時にメンデルスゾーンの8重奏もやったのですが、こちらは何とも思いませんでしたね。
ちなみに、この時のことチェロ男さんは覚えておられますか?秋なのにスキー場のゲレンデの中程にあるペンションに集まりましたよね。何やってんだか。041.gif

こんな経緯の中で、私のブラームス観は幼稚な知識と相まってちょっと妙なことになっていました。主にはメランコリックでリリカル。反作用で、狭量な喜び。理想として、心の平和と情熱。ブラームス自身狭量で頑固で意固地で古い人間(相当酷い人ですね)だろうと想像していた時期もあります。今から思うとこれは何だったのかなぁ。015.gif

そこで、ちょっと、じっくり考えて見ました。
これはズバリ「恋」ですね。016.gif016.gif016.gif
「愛」だの「恋」だの、あまりオヤヂの言うことではありませんが、でも、まあ、若い頃の話しなので「恋」です。
いや、他にも「郷愁」とか「哀惜」とか、どちらかと言えば斜陽系の言葉が色々と似合うのですが、ここは一つ、言い切ってしまいましょう。
これは「恋」です。

ちょっとなよっちいの012.gif
でも、案外外れていないかも。「ブラームスはお好きですか?」はフランス人的には、ちょっと大人で複雑な「愛」の話しですが、私からすれば、あれは大人の「恋」の儚さでもある。日本語で「愛」という言葉の広さと深みは感じられない。むしろ「儚さ」に重きがあって、そこには齢と人生が関わっている。「恋」という出来事を軸に「恋」の儚さよりも人生の重みや、もっと広い「愛」の世界への憧憬がある(本当にイングリッド・バーグマンは奇麗だ)。ここに引っ掛かる何かがブラームスに、ブラームスの産んだ旋律に感じ取れるのではないだろうか?
映画「さよならをもう一度」では原題を変えていながら象徴的にブラームスの音楽を使うことで、それをデフォルメしているのではないかな?
サガンは「ブラームス」の名前を引き合いに出して「儚さ」を演出しているのではないかな?とか考えて見たりして。037.gif

みなさんの「ブラームスとの出会い」募集します。
これを読んだ方は短くても良いから投稿してね。034.gif
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by bassbassbassyy | 2009-08-12 01:33 | 音楽
2009年 07月 18日

予習の意味

アナリーゼって、まあ、アナライズする訳なんだけれども、この間、監督と温泉に入っているときに面白い話しを聞きました。
少なくとも監督の学生時代は授業でアナリーゼはやらなかったとのこと。
本当!と、思わず叫ぶ程ビックリした。学校としてどう取り上げていたか良くわからないとのこと。
う〜む。021.gif

それから、改めてアナリーゼの意味を考えて見た。
その楽曲の背景にあるものを知ることは、演奏するに当たり、本当に役に立つのか?
特に、我々アマチュアにとってどれほどの意味をなすのか?013.gif

まあ、考えるまでもなく、色々と役に立つと思い当たることが沢山あるのであるが、しかし、色々と知ったからと言って、ここにある早くて弾けないパッセージが弾けるようになる訳ではない。音符はしっかり弾けるように練習しなければならないことは変わらない。
演奏に必要な情報は譜面に書いてある。
だから、譜面から最大限情報を引き出してそれを確実に音にすることを考えて方が、我々のような練習時間のすくないアマチュアには大切なのではないか、と、言うことも出来る。

でも、それで良いのか?
音を発しなければ音楽にはならないが、しかし、音を発していただけでは、今を生きる自分としてどうなのであろう?

音の羅列がある。音を出してみる。思うに、こんな抑揚があると美しいと感じる。そのようにしてみる。気持よかった。以上。001.gif
こうして、感覚に頼って演奏することも大事なときもある。
自分の感覚ってのは確かに大事なものなのだ。

しかし、自分の感覚に頼り切って果たして、みんなが良かったと思ってくれる演奏が出来るのだろうか?ここを考えなくてはならない。また、自分の感覚にしたって、その裏付けが欲しいはずだ。何故そうするのか?自分自身が納得出来ていなければ、思い切ってやれないではないか?

アナリーゼは、それをすれば必ず良い演奏が出来るというものではない。しかし、自信をもって演奏したいならば大切になるはずなのだ。逆に言うとアナリーゼのない演奏は思い切りが良くないか、独りよがりも是とする奔放さを宿した演奏になるのだ。

とは、言ったものの、アナリーゼの結果がいつも一つの結論を出すとは限らない。余計に迷いを生じさせることもあるだろう。それでも分析は必要なのだ。ここにある楽曲ときちんとお付き合いしたいのならば、何故そうなのか、をきちんと考えておかないと、なんか、失礼なような気がする。
014.gif

そんな訳で、そろそろブラームスについて語ろうではないか。
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by bassbassbassyy | 2009-07-18 02:20 | 音楽
2009年 06月 30日

見た目、デフォルメしない、文章。

でかおさんの言う、フレーズの分解について、ストラヴィンスキーは間違いなくキュビズムの影響を受けていると、私は考えています。そんな話しは聞いたことも読んだこともないけれど。

だから、単なる分解ではなく一点透視図法のアンチテーゼとしての多点透視図法(こんな言葉あるのかな?)ですから、本人なりのルールを設けて、千切っては角度をかえて繋げているのだと思います。問題は、演奏する上でこれを知ってどうなる、と言う具合なのですが、リズムの問題もあるので合わせて考えてしまいましょう。

ストラヴィンスキー他ロシアの作曲家に限らず、騎馬、乗馬の関連は2拍子と3拍子の絡みが多いように思いますね。これは激しいタイプの舞踏に繋がって行きます。古くはタランテラのような。

ここにより強烈なアクセント(殆どガツンと言うような踏み込み)をデフォルメしてつけると、
例えばバーンスタインのウェストサイドにある「アメリカ」の様なリズムが産まれます。
これはタタタ、タタタ、タタ、タタ、タタ、(全部で12)で納まりが良いのです(映画のダンスも思い出すとわかり易いです)。

しかし、別のデフォルメをすると、例えばDave Brubeckの「Blue Rondo A La Turk」の様にすることが出来ます。
これはタタ、タタ、タタ、タタタ、(全部で9)で若干納まりが悪い。
でもこちらの方がクールを演出出来る。例え変拍子でも、単純なリズムの連続は、変な言い方ですがホルモン的なんですね。ところが納まりを悪くすると知としての緊張感が一気に高まる。納まりの悪さの調節が難しいですが。

一点透視図法の人物画でも景色でも、歴代の画家は様々な方法で物語を埋め込むことが出来ました。これは経験的な「知」のありようです。作る方にも、観る方にも同じ物語の素地があります。

しかし、キュビズムに見られる多点透視図法は画家の思惑が画面を支配していながら、その思惑は見る者の経験では計れない。物語は見えているのに(人物だったり、建物だったり、キュビズムは「もの」を捉えていますからね)。そこで、考える。
この「考える」という行為がピカソやブラックが絵を見に来た人に求めた行為だったとすると、ストラヴィンスキーも同じことを求めているのではないかと思われます。これを生理的に高めるのがリズムです。先に述べた通り2拍子と3拍子の絡みは、元来的には野生に根ざしますが、変拍子を備えることで知的緊張を一気に高めてしまう。
聴く方は「これは何だ?」と考えますよ。
もちろん、答えはわかりません。それはあんまり問題ではない。
高度に知的な手法で「これは何だ?」に誘い込むことが大事なんです。

演奏する人間はストラヴィンスキーに協力して、キュビズムの作品を書いているようなものです。そこには演奏者の「物語」はあまり求められていません。寸断した寸法を正しく把握し、正しい角度で再現しなければならない。
でも、これだけでは音楽にならないこともストラビンスキーは良く知っていたようです。
一つは形式。ソナタ形式ですね。
もう一つはアンサンブル。人の息吹を感じさせる空間の演出を忘れていない。これは形式と密接な関係がありますね。
この二つがなければ「これは何だ?」と考えさせる余地を与えないのと同じですからね。
だから、演奏者はいつにも増して、「感じたように」やることは出来ません。アンサンブルや踏襲されて来た形式はあるけれど、単にそれを足がかりに感情の赴くままに演奏しては、分断したフレーズを正しくはめ込むことが出来なくなってしまう。小海のようにね。
聴く人を感心させ、感動させ、さらに、考えさせなければならない。
変拍子にするしないに関わらず、2楽章、3楽章も同じですね。

私は、こんな風に考えていますが、みなさんはどう思います?
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by bassbassbassyy | 2009-06-30 03:51 | 音楽
2009年 06月 26日

バーゼル!

社長! 実はその事(前の投稿のコメント)を、うえのはらさんとメールでやり取りしたんですよ。リズムは監督の言う通り 「ジャズ」 を意識しなければならないんだけれども、まずは テンポ だって。

無意識にしろ、意識的にしろ、何かしたとたんに(それが恣意的に正しいテンポを示そうという行為であっても)、テンポはぶれるばかりで、全体としては駄目になっちゃう。007.gif

これまで音泉でやっていたような曲は演奏者の都合に多少の融通が利いた。けれど、バーゼルは社長の言う通り、それが出来ない。ジャストではめるテンポ感がまず、在りき、なんだ、って。

だから、前夜の壁打で社長が苦労しているのを見て、その事が指摘できれば、もしかしたら違ったことになったかも知れない。それが悔やまれます。021.gif
苦労している社長を見ながら、それが何に由来しているのかを、きちんと考えなかったんですよ。見ていながら、見えていない好例ですね。
私はリズムに気を取られてばかりいて、譜面通り音を打てれば出来た気になっていた。本番では、しょっぱなから間違えたりしたからそれすら危うくなっていて、「はめていく」ことを考えてしまった。もう駄目ですね。はめて行こうとしたときは既に、
 はめるテンポ感 が失われていた訳です。

でも、 音泉らしさ と言う事で言えば、私は小海のバーゼルも音泉らしいと考えています。追いつ追われつで曲自体は本質的な部分を失ってしまったけれど、そこに必死で食らいついていく様子は、如何にも音泉らしい。ある意味、テンポ感よりもさらに大事な物はちゃんと出ていた。これまでの音泉の弦と比べても、相当な進歩だと思っています。
それは、 「向かって行く」 と言う事です。隠れない。
実際に、音を霞ませたり、弓をコンマ5ミリ(?)浮かしたり、するのは別にかまわないんです。みんなでガシガシ弾いたらうるさいし。
しかし、気持は、最初っから最後まで弾き倒す でないと駄目ですよ。弾けないから隠れよう、と言うのは本当は駄目ですね。隠れる必要があるから隠れる、でなきゃ。
小海のバーゼルは「向かって行った」と思います。あんなに難しくてわけがわからない曲なのに、相当、果敢に、しかも無謀に、立ち向かったじゃないですか。
無謀 と言うところが如何にも音泉らしい。006.gif
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by bassbassbassyy | 2009-06-26 10:38 | 音楽
2009年 06月 19日

明日は小海!

、タイトルに入れようとして、「明日は我が身」と言う言葉が浮かんでしまった。
誰の、何のことを暗示しているのだろうか?
「明日は我が身」は災難や災厄に対して常に備えるべし、とのことではあるが、色々と転用、というか変用されている。
音泉でも、何処かの誰かは、イゴールを何かの災厄と考えている節がある。

けしからん話しである。

とは、言え、その何処かの誰かと朝から練習したら、
充分ではないが、 「なかなかよく練習したではないか」 と、思うくらいにはさらってあるようだった。
ここまできた努力を思えば、歯を喰い縛ってでもやり通すのが、男と言うものだ。
男であることに期待しよう017.gif

などと、偉そうなことを言っていると、罰が当たる。
ので、謙虚になって練習をしようではないか。
明日は小海、とは言え、今日もまだ9時間も残っている。
でも、楽器を触る時間はないな。
楽器を持てなくても、譜面を見たり、デモを聴いたり。果たして効果があるのかわからないが、そんなちょっとした努力でも、積み重ねていると、少なくとも「歯を喰い縛る」気持には繋がるだろう。

諦めては駄目なんだよね。
(なんか熱血だぁ031.gif
いや、そもそもこんな話しを書くつもりではなかったのだが、まあ、いいか。
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by bassbassbassyy | 2009-06-19 15:07 | 音楽
2009年 06月 18日

楽しむ演奏の楽しみ

バーゼルで すっかり やる気をなくしている人は、我が団の中にどれくらいいるだろうか?まあ、無理からぬところもある。何しろブラームスは「新しい音楽」くらいの生活をしてしまうとストラヴィンスキーは、まあ「未来の音楽」なんて感じになっているのだろう。

でも、スコアーをよくよく読んでみればわかるのだが、そんなに変なことはしていない。大体、ハイドンの頃に使っていた記譜法と殆ど変わらない。拍は変わることはあっても、なくなる訳じゃないし、調性だってとてもしっかりしている。「新古典主義」を名乗るだけのことはある。
トラッディーなのだ。

そして、 楽しい 。041.gif

楽しい、と言えば、今日、子供の小学校の「◯○音楽会」に行って来た。全校挙げての音楽会である。大きなホールでやるのだ。なかなか面白いことをしてくれる。

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こんな感じの器楽演奏もあって、なかなか楽しい。

そう、
楽しい
のである。

これは、どう言うことか?

ただの 親バカ 、と言っては面白くない。
それを証拠に、自分の子供が出ていなくとも、楽しい、のだ。
相当に、ぎゃんぎゃんしてて、音痴で、グチャグチャなのだが、ステージの子供たちが楽しんでやっているのが、ちゃんと伝わるのだ。

子供の頃を思い出した。ヴァイオリン教室の「おさらい会」「発表会」ではなくて学校の合唱祭などである。
必ず、音楽嫌いのクラスメートが何人かいて、ふざけて、なかなかまじめに歌わなかったりする。
帰りの会とかで、「今日の歌の練習の時、◯○君はふざけてて歌ってませんでした。良くないと思います」とか言われちゃうのが、何人かいませんでしたか?

面白いのは、練習を重ねるうちに、そう言う子供も歌の楽しさに目覚めちゃったり、少なくともふざけたりしなくなって陰が薄くなったりして、全体で楽しくなっちゃったりする。こうなると、俄然面白くてみんなで大声で歌っちゃったりして、いい気分になったりしませんでしたか?

また、たまに悪ガキみたいのがいつまでも、幅を利かせていたり、先生がいつまでもその子にかまけてたりすると、全体に何となく面白くない雰囲気が蔓延しちゃって、妙に声の聴こえないクラスがあったりして、ってことありませんでしたか?

楽しい、てのはどうもそう言う具合に広がったり、狭まったりしている。

我々は充分大人だけれども、もしかして同じなんじゃないだろうか?
今までの演奏を振返って見ても、そうだ。
歯を喰い縛って、アンテナ張り巡らしてい楽器弾いているとき、頭の何処かは、それを喜んで、興奮していたのではないか?少なくとも私は「面白くない」と思って弾いたことはないような気がする。
では、どうすれば楽しくなるのだろう。
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by bassbassbassyy | 2009-06-18 00:53 | 音楽
2009年 06月 16日

バーゼルを弾く方法

楽譜とメトロノームと3対睨めっこの続く日々。
辛く、悲しい、日々であった。

あった、と書くからには過去のことである。

そう!
ついに、というか、殆ど無法化状態ながら、弾くことに関しては、克服してしまった。
ふふふ。

そんなに難しい話しではないのだが、要するに、全部4分音符に置き換えちゃう。011.gif
断っておくが、当然、音楽監督には内緒である。
「そんなの 駄目!」って言うに決まってるから。

であるから、ここから先は内緒話なのである。028.gif


全部と言っても、優しいところは8分の6でも8分の9でもそのままでかまわない。
ベースのように休符の中に弾く音がポンポンと入っているようなとこでの話しである。

例えば42から。
ヴァイオリンの人には無理だが(この間、デカオさんはやってたけど)8分の6は3拍子にしてしまう。4分音符で割り切れるところの音はアクセントをつける。
これだけ。
これだけで、弾けちゃう。

何を今まで悩んでいたのだろう?と、言うくらい簡単に弾けちゃう。


ヴァイオリンを中心に考えると、これは出来ません。ヴァイオリンは変拍子の必要性が明確ですね。これ、4分音符で書いたら、弾けなくなっちゃう。と言うか、書くのがとても面倒ですな。

あとは、実際にやりながら、4分音符を8分の6に組み込んで勘定すればよろしい。
もっとも、これが長続きしないのだが。015.gif
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by bassbassbassyy | 2009-06-16 14:46 | 音楽
2009年 06月 12日

イゴールな憂鬱?

開設早々、品位でつまずいたが、・・・・

そもそも、皆さんに楽しんで頂けるような文章が、書けない002.gif

楽しんで頂けるような文章だと、難しいテーマは・・・007.gif

と言うことは・・・

このブログ自体意味がない057.gif

いきなりれぞんでーとるにぶち当たってしまった。
しかも、私の好きなEXはブログを楽しく飾る機能が少なく、何となくお固いのである。

まあ、しょうがない。
とにもかくにも、最初はとばすぞ!

と、言うわけでストラヴィンスキーである。
某SNSではある程度この曲を演奏する意味合いが理解されつつあるように感じますが、やっぱり、もっともっと、みんなでわからないと
いけないんじゃないか!?などど、思ったりして、書いている。

私の思いは、一つは団員専用HPのPodcastに書きました。
しかし、まだ足りないかな〜、と言う思いが拭えない。
合宿では、お酒を頂きながら、そこのところをよ〜くお話ししようと思っていたのに、
寝て020.gifしまいました(すみません)。
であるので、なぜ、今なのか。
まあ、一つは監督の性格ですかな。004.gif

それから、これが肝心なんだけれど、弦楽合奏では緩くない、ことをしなければならない。これは「ホルベア」で経験済みですが、さらにそこに磨きをかける。

また、如何にも無機的なストラヴィンスキーについて実は有機的なアンサンブルが内包されているのだけれども、そこに到達する為にはある程度の練度が必要と言うこと。きちんとした練習をしないと出来ない、わからない、と言うことがあるからですね。

これ今の内にしとかないと、東京、新潟、松本の他のプログラムがとてもきつくなります。
ドヴォルザークの練習で表面化した音泉の「ふにゃふにゃした面」は取り敢えずは時間の無駄。
同じ徹は踏まないの覚悟で参りましょう。

やっぱり、最後は固いんだよな〜。
社長みたいに柔らかい雰囲気が終止漂うようなのできないかなぁ。
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by bassbassbassyy | 2009-06-12 23:24 | 音楽