音泉室内合奏団の食卓

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2011年 03月 09日

虚栄心

驚いたことに、前回のブログの記事を書いた直後の2日間はアクセス数が通常の10倍くらいあった。
まあ、更新すると自動的にアクセスしたり、更新したことが表示されたりする登録をすれば、この数は、驚く数字ではないのだけど。
でも、念のために、「とあるオーケストラ」の方々でご覧になった方に申し上げるが、誰かを揶揄したくて書いたのではなく、自戒の意味を込めて書いたのである。そのことを、ここに申し上げておきます。

とは言え、人前で物申すにはきちんとした考えがなくてはならないですね。難しい。
そこで、引き続き、虚栄心について。

虚栄心から人前で誰かを誉めるのは、自分はこんなにもみなさんのことを見ていますよ、努力している人を知っていますよ、そう言う人をきちんと誉める自分は何て偉い人だろうと言うことをわかって下さいいね、と、言っているのである。
これは、どうしたって、情けない。
前回のブログで述べた団長さんは、こんな情けない方ではありません。だから、誉めた段階では、たいしたもんだ、と、感心した訳です。
それを、見習え、と言うことが問題なのですね。
この団長さんは虚栄心とは縁のない人で、どちらかと言うと、「馬鹿」がつく程の正直者、飾りのない人です。だから、ヴァイオリンの人を誉めた時も、実に気持良く、素直に受け止められた。
こういう人だから、演奏も虚心坦懐。一生懸命練習して、マエストロの指摘もきちんと楽譜に書き込んで、自分なりに消化して、後は実に素直に、ばばば、っと弾く。
でも、ばばば、っと弾くと、10回に1回くらい、おやや!、っと言うことが起こる。
配慮が足りないのだ。これに配慮があれば、実に素晴らしい演奏家なのだけれど。
でも、おやや!があっても、気持は悪くならない。団長さんの頑張りはきちんと客席にまで通じる。
こういうところ、音楽は凄いのだ。

しかし、
虚栄心の固まりみたいな人は、こう言う演奏が出来ない。
自分が可愛くて音楽をやる人は、自分で何かをやる、と言うことが出来ず、どうしても、誰かの真似事に終止してしまうので、実質感が伴わない。ばばば、と、出来ないのだ。
周りの音も、良く聴いている振りは出来るけれど、実質的にはきいていないので、タイミングを計ることは出来ても、自分自身がタイミングとなることが出来ない。
こういう人は、必ずしも悪い人ではないかも知れないが、音楽をするには、不向きである。
そこそこやれているのに、いつでも、きちんと、足りない。
そう言う人の音楽は。

塩野七生さんが、大著「ローマ人の物語」の中で、虚栄心について興味深いことを書いている。
成る程なぁ、と、思う。そして、やはり、音楽には向かないなぁ、と思う。
興味のある方はGoogleで「塩野七生」「虚栄心」とくぐってみて下さい。

悪意を持つ方で、虚栄心に満ちた方は、音楽をすべきではなく、直ぐに違うことを始めた方が良い。
何故なら、音楽ではバレてしまうからです。
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by bassbassbassyy | 2011-03-09 23:18 | 運営
2009年 12月 31日

あけましておめでとうございます

東京公演後引っ越しやらなにやらとばたばたとしてしまい、ご無沙汰してしまいました。失礼致しました。
さて、昨年の音泉のテーマは「愛」でした。テーマと言っても特別に何かをするわけでもなかったのですが、振り返って見るとなかなか有意義なテーマであったと思います。その有意の中身についてはそれぞれで考えて頂ければ良いのですが、私なりに感じたことを一つだけ述べさせて頂くとします。
「愛」の尊さ、はかなさ、力強さはたとえ漠然としたものであれ誰もが感じているところのものでありますが、これはベクトルであって、その真に大切なところはそれが起こるところと、方向性である、ということです。このことには意外と誰もが気がつかない。詳細に言うと面倒になりますので、詳しくは申しませんが、この一年の音泉の活動から、「愛」を通してそんなことを強く感じました。
みなさんは、いかがでしょう。
さて、この一年を踏まえて、これからの一年のテーマを考えました。
今年のテーマはズバリ「変」です。
予め言っておきますが「変態」の「変」ではありません。Tさんは喜ばないように。
この一年の間に私は音泉のメンバーで必至に自分を変えようとする幾人かの方々の姿を何回となく垣間見ました。必至と言うのはいささか誇大に過ぎるかも知れませんが、これからのために自分が変わらなければならない、という決意がにじみ出るような姿がそこには感じられました。まあ、皆さん良いお年なので変わると言うことの大変さは十分身にしみているでしょうし、今更何を、という気持ちも起こる事ではあります。でも、そうやってより良くあろうとする姿はとても尊い。
比べて、変化を恐れて身構えている姿はあまり格好良くない。
残念なことに、変えられない自分に、無理に正当性をこじつけて、結果、醜い姿をさらしてしまった方もお見受けしました。時には自分自身もそうであったかも知れません。
音泉も変わることを恐れてはいけない。信念を持って良いとするところは貫くけれども、そのために変わらなければならないところは変えていくべきだと思うのです。
まあ、実際は何を変えるかなんてわからないんですけど、気持ちだけでもそんなつもりでおれたら良いな、と、思います。
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by bassbassbassyy | 2009-12-31 23:01 | 運営
2009年 06月 14日

らしくない こと

ブログを開設して、まだ間もないながら、少しずつ反響が寄せられてきています。
そのなかで 「らしくない」
 という、ご意見を頂きました。
まあ、私の「らしい、らしくない」ということなのでしょうが、それはともかく、
音泉として「らしい、らしくない」となれば

これはどう言うことか?>

実は、音楽を演奏することと、演奏する団体を運営していくことと関係があるのではないかと考えています。030.gif

みんなで何かを行う時に一人一人に求められるのが 「役割」 ですね。そして、この役割には 「演じる」 ということがどうしても含まれています。何故なら負わねばならない役割は必ずしも、その人そのものの「個」と合致する訳ではないからです。合わないところは「演じる」ことで埋め合わせねばならない。
でも、「演じる」ことは、大概の場合「らしくない」ですよね。

とても明晰で器用な人はその役割を果たす上でもっとも自分らしくことを進めることが出来ます。でも、如何に明晰で器用であっても、やはり「演じる」部分は出来てしまうでしょう。
また、どんなに一生懸命、その役割を果たそうとしても、この「演じる」部分が本人の本来のものとひどく乖離してしまうと 破綻 します。ポカ、とかドジ、とかを合理的に説明する一つの方法です。

では、音楽を演奏することと、この役割の関係は 如何に?

やはり、関係はあると思います。その人に向いていない楽器と言う物はどうしてもあるし、あるにもかかわらず、合わない楽器を一生懸命練習している方に出会うことはあるように思います。また、一つの曲の中で、作曲家が求めるその楽器の役割と、元来その楽器の持つ持ち味が合わないと言うことが稀にある、以上に、その楽器に求められる役割と演奏者の本来の物が合わないこともあるでしょう。
演奏家が求める完成形の為には、合致しない事柄を排除することもあるでしょう。

音泉は、その他のアマチュアバンドにおいても多分そうですが、そう言うことはしない。一つのパートに人が複数いる中で役割分担する際には、実はその作業をしていることもありますが、例えば指揮者やトレーナーが、「そのソロは別の人にやってもらいましょう」と言うようなことは音泉ではありません。

これは、完成形を重視しないのではなく、演奏する努力を重視するからです。
演奏しようとする意欲 を重視しているからにほかなりません。逆に、これがなかったり、意欲に含まれるべきものが軽薄であれば、監督は容赦しないでしょう。私もそれで良いと思っています。
気持がちゃんとしていれば、結果、ポカしたりドジったりがあっても気にしません。

ん、少しは気にはなるかも(自分は棚上げ)037.gif

運営の様々な煩雑事は、多分、どんなに適材適所として役割配分しても、そんなに効率良く、トラブルなく進むことは期待出来ません。適材適所に出来るだけの「手」はとてもありません。さらに、皆さんは社会生活を送る上で充分に役割を演じているから、音泉においてまでそれを充分に果たせと言うのは酷だと思います。また、演じることから逃れる為に、真に打ち込める音楽をやりに音泉で演奏しているわけでもあります。だから、なるべく負担は軽い方が良い。
でも、子供っぽい屁理屈で為さねばならない事柄を忌避する方は音泉にいらっしゃる必要ありません。仕事をなさらないから、と言うのではなく(正当な理由はいくらでもあります)、そう言う方に意欲のある演奏を期待するのが難しいからです。

音泉は大きくなって、こなさなければならない煩雑なことが沢山あります。
「らしい」の中に「らしくない」は含まれている。そう考えなければ、上手く行かないとも言えるかもしれませんが、本質的な言い方をすると、
 こうしたい と思ったことをやり通す為にすべきことは、らしい、らしくないに関係なく すべきことはする という当たり前のことではないかと、思ったりするのです。
どうでしょう?
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by bassbassbassyy | 2009-06-14 16:07 | 運営