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2011年 03月 21日

松本公演

 多くの方の思いやりと協力によって、松本公演を開催することが出来た。
小さな演奏会だが、もの凄く大きな演奏会になった。
人としての先達に見守られ、意思を共にする仲間と、たまたま通りがかったという方まで含めた多くのご来場者のみなさんとともに、生きていることの喜びを実感した。そして、その喜びは、身を裂くような痛みを伴っていた。
私の知らない人が、瓦礫の下にいる。冷たい海の底にいる。冷たい雨に凍えている。眠れぬ夜を過ごしている。
アンコールのピアノを聴きながら、私は、私の知らないそうした人々と共にいると感じた。

今、この災厄は最も目に見える形で顕われている。
しかし、時間の経過とともに私の目から遠ざかって行くことになる。その地の人の途方もない悲しみや多くの障害を残したまま、やがて、あまり人目につかなくなる。すると、人の心が離れはじめる。
一生懸命節電に協力した人、なけなしの生活費から義援金を出した人、そういう善意の人々の心が段々と離れ始める。社会の負った損害が、今よりもっと浸透して、遠くの人々にまで及ぶようになって来ると、みんな自分が生きることに必死にならざるを得なくなって来る。そのこと自体は社会の不可抗力的な性質と言える。
でも、その地の人の悲しみや障害は、その時でも現実なはずだ。
それは忘れてはいけないことだと思う。

地震の前、リビアやエジプトで多くの市民が理不尽な死を迎えている。その前にも、そのまた前にも、世界の何処かで、自分の隣で、自分の知らない誰かが理不尽な死を迎えている。
ショスタコーヴィッチを演奏し、アンンコールに月の光をやったとき、何十年も前に流刑地のシベリアで死を待ちながら月を眺めている収容者を思った。そして忘れない。

私のような、忘れっぽい人間が言うのもなんだが、人と言うのは忘れっぽい。だから生きて行けるとも言うが、そろそろ、思い出しておいた方が良いことが沢山ある。忘れてはならないことが起きている。

前回のブログでは、非力な私が出来る最良の方法として、必要最低を旨とする生活を書いた。それは確かにその通りだが、それで、別の人を死なせることになる可能性にも配慮する必要はある。

今回の松本公演では、みんなが出来ることをやった。なるべく燃料を使わず、公共の負担をかけず。
議論した訳ではないが、みんながちゃんと災害のこと、音楽のこと、演奏会のことをしっかりと考えて、きちんとした意思をもって、演奏会を開催した。お客さんも音楽を求めていて、私たちが、この状況で音楽をしていることの意味がちゃんと伝わった。
目に見える援助も出来た。みんなの意思で決め、お客様にもご協力頂いて集めた義援金は9万円を越えた。
実は、開催が正しいのか、間違っているのかはまだわからない。
でも、開催して良かった。これは間違っていない。
とても、良い演奏会になった。
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by bassbassbassyy | 2011-03-21 18:49
2011年 03月 16日

確信

 前回、松本公演の開催を強く宣言しました。
これは、覚悟のためです。
確信ではなく、覚悟です。
「行動が思想を決定するのだ」とのセリフ、記憶にある方はまだまだ多いと思います。
何と心細く、気弱な言葉だろうか。こんな言葉に酔わなくては起こせなかった行動とは何であろうか、と思います。
今日、団内から「何故開催するのか?」「止めた方が良い」との意見が届きました。
開催するぞ、との号令下、みんなが苦労して準備を進めている最中で、それを知りながらこれを言うことはとても勇気のいることだったと思います。
そして、その意見を聴けて、とてもほっとしている自分がいます。
多分、出演するみなさんが多かれ少なかれ持っている気持であり、意見だと思います。
さらには、日本中の大多数の方が、同じ立場にあれば、そのように思い、考えるだろうと思います。
これは、とても大事なことです。

今、被災地では、食料、衣料、燃料、薬剤等、あらゆるものが不足していて、少しでも手に入れたいとの思いは、生死に関わるところから発せられています。あらゆる援助を待ちわびている。
直接的な援助の手段を持たない我々に出来る最良のことは、物資の消費を節約し、公共の施設設備を必要最低限以外利用せずに、余力として社会に蓄えさせることです。これが、巡り巡って被災地への援助の厚みとなる。電気を節約する、病気にならないように細心の注意を払う、事故を起こさない。こうした少しの努力を集めることで、被災地で電球1個を灯すことになったり、医師を一人派遣出来るようになったり、消防士を一人、救援に携われるようになったりするのです。

なのに、何故、燃料と時間と労力とその他諸々を使い、周囲の人に時に迷惑をかけ、助けてもらいながら長野で演奏会を開催するのか。
本当にそんなことをする必要があるのか。
こんな時に開催しても、お客さんも来ないし、反感を買うだけではないのか。

私は演奏会を開催する理由として正当性のある説明が出来ません。
正しいか間違っているか、わからない。少なくとも正しいときちんと説明することは出来ない。
でも、必要と言うことならば、必要だと言える。
多くの方に無駄と思われることをして、正しくないと思われるかも知れないことをして、しかし、これは必要だと言うことが出来る。
私自身は非力で何も出来ないような人間です。一人で楽器を弾いても誰かが聴いてくれるような美しいメロディーは奏でることが出来ません。そもそも、その為の楽器ではないし、そうした楽器をそこまで高める技術も持ち合わせていません。何人かに集まってもらって初めて音楽として聴いて貰えそうな曲の一部分を受け持つことが出来ます。いつも誰かと一緒にやることでしか音楽を作れない。音楽の中で、共にあろうとする積極的な意識と姿勢が互いに出会うことでしか、何かを伝えられない。
でも、いつもそこにあるのは拙くても素晴らしい音楽です。
聴いてくれた人がお世辞ではなく、楽しんだり、ほっとしたり、悲しくなったりする音楽です。
音泉にはそれが出来る。
そうしたことが、世界に必要ではない時があるとは思えない。
全ての人に必要かどうかはわからないけれど、多くの人に必要なはずだと言うことはわかっている。
今は尚更必要だと言える。日本中が怯え、緊張している。
だから、やれることをやろうとするならば、慎ましく生活することも大事だし、それはやれるし、するのだけれど、けれども、その前に、それと同じくらい、大切なこととして、音泉として演奏をすることだと思う。
それは、同じようなことが出来る人々もいるとは思うけれども、音泉でなければ出来ないことに違いないのだ。

当たり前のことを、中から、きちんと言って貰えて、私は恵まれた代表だと思う。
そして音泉は充分に多くの迷いと躊躇の中で健全だと言える。
このブログをご覧になった出演者は、少しは確信に近づけたであろうか?
私は、おかげで、演奏会前に確信が得られた。
みなさん、しっかりやりましょう。
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by bassbassbassyy | 2011-03-16 23:09 | 音楽
2011年 03月 12日

松本公演

20日に予定している松本公演について。
本日時点では開催予定と致します。

大規模な災厄が生じた後の、演奏会等の催しは、被災された方への配慮は当然あって然るべき。
しかし、配慮=自粛と言うのは少々短絡に過ぎるように思う。
戦争中、「歌舞音曲」と全部ひっくるめて官憲に揚げられてしまった時代とは違う。
また、平成になった時に何でもかんでも自粛となったのともわけが違う。

話しはそれるが、私が、団のみなさんにメールで送ったり、ここに記したりしている事柄、テクニカルなことから心情においてまで全てについて、「精神論」をぶった覚えは一切ない。僅かな方に山崎の「精神論」には不快を覚えると言うようなご指摘を受けた。どうやら「精神論」の意味を知らないで使っているらしい。ふざけた話しである。

でも、今日は「精神論」として記したい。
遺憾ながらも、松本公演は時期的に追悼であり激励である演奏会になる。
地震から生じた一連の災厄のせいだから、全く持って遺憾である。
しかし、追悼と激励は人として当然の心情ではないか。
ならば、遺憾等とはせずに誠心誠意追悼し激励するのが音泉としてのあるべき姿であると考える。
このような成り行きもまた、音楽に対して正直であるべき道筋ではないかと思うのだ。
そして、追悼であり激励であるならば、いつの演奏会にもまして真摯であるべきと考える。
演奏自体はいつもと同じ様に音楽に集中すれば良いのだが、そこに無なる境地を付け足したい。
音楽か無か、ではなくて音楽と無である。
そうして音楽を捧げたい。
災厄に遭われた人々、そうした人々を救うために頑張っている人々、何か手助けをしたいと考えている人々、立ち上がろうとしている人々、そして、既に何も感じることの出来なくなった人々と、その人々と繋がっている全ての人々へ。

このような心情をみんなに無理強いして物理的限界を超えようとすることが「精神論」である。
「精神論」が何であるかも知らずに言葉遊びをするような人間は必要ない。
今度の松本公演ではこの「精神論」で行くのだ。
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by bassbassbassyy | 2011-03-12 22:19 | 音楽
2011年 03月 09日

虚栄心

驚いたことに、前回のブログの記事を書いた直後の2日間はアクセス数が通常の10倍くらいあった。
まあ、更新すると自動的にアクセスしたり、更新したことが表示されたりする登録をすれば、この数は、驚く数字ではないのだけど。
でも、念のために、「とあるオーケストラ」の方々でご覧になった方に申し上げるが、誰かを揶揄したくて書いたのではなく、自戒の意味を込めて書いたのである。そのことを、ここに申し上げておきます。

とは言え、人前で物申すにはきちんとした考えがなくてはならないですね。難しい。
そこで、引き続き、虚栄心について。

虚栄心から人前で誰かを誉めるのは、自分はこんなにもみなさんのことを見ていますよ、努力している人を知っていますよ、そう言う人をきちんと誉める自分は何て偉い人だろうと言うことをわかって下さいいね、と、言っているのである。
これは、どうしたって、情けない。
前回のブログで述べた団長さんは、こんな情けない方ではありません。だから、誉めた段階では、たいしたもんだ、と、感心した訳です。
それを、見習え、と言うことが問題なのですね。
この団長さんは虚栄心とは縁のない人で、どちらかと言うと、「馬鹿」がつく程の正直者、飾りのない人です。だから、ヴァイオリンの人を誉めた時も、実に気持良く、素直に受け止められた。
こういう人だから、演奏も虚心坦懐。一生懸命練習して、マエストロの指摘もきちんと楽譜に書き込んで、自分なりに消化して、後は実に素直に、ばばば、っと弾く。
でも、ばばば、っと弾くと、10回に1回くらい、おやや!、っと言うことが起こる。
配慮が足りないのだ。これに配慮があれば、実に素晴らしい演奏家なのだけれど。
でも、おやや!があっても、気持は悪くならない。団長さんの頑張りはきちんと客席にまで通じる。
こういうところ、音楽は凄いのだ。

しかし、
虚栄心の固まりみたいな人は、こう言う演奏が出来ない。
自分が可愛くて音楽をやる人は、自分で何かをやる、と言うことが出来ず、どうしても、誰かの真似事に終止してしまうので、実質感が伴わない。ばばば、と、出来ないのだ。
周りの音も、良く聴いている振りは出来るけれど、実質的にはきいていないので、タイミングを計ることは出来ても、自分自身がタイミングとなることが出来ない。
こういう人は、必ずしも悪い人ではないかも知れないが、音楽をするには、不向きである。
そこそこやれているのに、いつでも、きちんと、足りない。
そう言う人の音楽は。

塩野七生さんが、大著「ローマ人の物語」の中で、虚栄心について興味深いことを書いている。
成る程なぁ、と、思う。そして、やはり、音楽には向かないなぁ、と思う。
興味のある方はGoogleで「塩野七生」「虚栄心」とくぐってみて下さい。

悪意を持つ方で、虚栄心に満ちた方は、音楽をすべきではなく、直ぐに違うことを始めた方が良い。
何故なら、音楽ではバレてしまうからです。
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by bassbassbassyy | 2011-03-09 23:18 | 運営