2011年 08月 27日

かためること

態勢を固める、などと言う。
何故、そのようなことが必要になるのか?
新しい事態に対応するためであるが、緩んでしまった姿勢を、改めて整える時に「固める」と言う。
事態が変わらなくても変わっても、こういうことは必要になる。

音泉は今度の東京公演で、ベートーヴェンのピアノコンチェルトを演奏する。ソリストは団員として、何やかにやとお世話して頂いている岩波佳代子さん。
私は彼女のベートーヴェンが聴きたい。
それが聴けて私たちのベートーヴェンが出来るのだと思っている。
伴奏をしているつもりになっていたり、合わせてもらっていることに甘んじているようなベートーヴェンはやりたくない。
そして、ハイドンとモーツアルト。
今まで、大変なプログラムは沢山組んできたが、こんなに厳しいプログラムを組んだことはない。

しかし、音泉にとってこれは新しい事態ではない。音楽を前にして新しい事態と言うものはない。
厳しいならば、厳しいものをそのまま受けて立つしかない。
願わくば、音泉の全員が、出来ても出来なくても、まずは正面からこれに向かうことである。
音楽からは逃げたり誤摩化したりは出来ないのだから。
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# by bassbassbassyy | 2011-08-27 23:28 | 音楽
2011年 06月 05日

保守

世の中には色々な考え方がある。
音泉のブログで政治談義をするつもりはないので、例えとして取り上げたと言う範疇で、読んで頂きたい。

先週の内閣不信任決議騒動は騒動であって政治ではない。
政治には騒動がつきもので、時には騒動から新しい道筋が生じる事を狙って行われることはある。
しかし、震災対応に全力で取組まなければならないこの時期にそのようなことをするのは不謹慎を通り越している。政治家として法治国家の運営を預かる者がすべき事ではない。
でも、どうしてもそうしなければならないのなら、これは致し方ない。
そうと信じた者は政治生命を賭して全力で当たるべきである。そして、事態の混乱のないよう、しっかりとした道筋(退陣後の体制を構築しつつ、失政を示し、認めさせ、不信任案を提出、可決、解散ではなく内閣総辞職させて、間髪置かずに次の体制を整える)を示して、これを行うべきである。
と、言うのが私の持論。今回のは失政すらきちんと指摘出来ていない。
でも、これはどうやら少数意見らしい。
まずは、「首相退陣」ありき。これがどうやら世の中の奔流らしい。
ネット上の情報や、マスメディアによると。

私は、世の中の考えとしてそう言う考え方が多数であってもあまり困らない。
不快ではあるけれど(この「不快」にはあまり意味がない)。
特に問題ということではないが、これまでの、そして今後の音泉の方向性と言うのは、世の中の奔流とは別のところを流れている、と言う事は言える。
方向性だけでなく、運営の仕方もである。
私たちは、上に掲げた私なりの政治の道理と同じ道理を用いて、今度の小海や東京公演のプログラムを考えたと思っている。それはこれまでの音泉の活動に繋がっており、今後の活動へと繋がっていくものである。
私たちは自粛傾向の強い、震災一週間後に、自らの意思で、予定通り公演を開催した。
その公演で生じた事、判明した事、理解した事、色々な「事」を積み重ねた結果として、次のステップへと踏み出している。
伝統的で斬新なハイドンへの道である。斬新で瑞々しいベートーヴェンへの道である。
伝統的で斬新で瑞々しい信濃舞への道である。
後ろがあって、前がある。
前があって、後ろがある。
当たり前だと思っていたのだが、どうも最近は当たり前ではないらしい。
その、当たり前ではない考え方(もの凄く斬新で私には理解出来ない)でも良いので、少しでも早く、確実に震災への対応を進められるよう、日本と言う国としての力と、日本人と言う人としての力が発揮出来るように、では、私たちはどうすれば良いのか?
私は、これまで通り後ろがあって前があるやり方で頑張る。
そうではない人とも頑張る。

これは非常に保守的な考え方だ。
たまたま、世の中の動きがこのようになって、あからさまになったが、今度の音泉のハイドンはそもそも、後ろがあって前があるから演奏する事にしたのだ。

あからさま、ってのは少々こそばゆい。
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# by bassbassbassyy | 2011-06-05 23:54 | 音楽
2011年 05月 18日

ハイドン

ハイドンを演奏する。
毎度のことながら、大変な覚悟が必要である。
そして、毎度のことながら、いつも、覚悟が足りないと感じて終わる。
音符の一つ一つをどのようにしても弾けるつもりになれるくらいの練習が出来れば、この覚悟に近づけることはわかっている。それでいて、きちんと楽譜を弾くことが出来るようになっている。
自分がきちんと楽器に向き合っていて、それで、みんなと一緒にやれて、心の底から、なんの蟠りも生じることなく、音楽の喜びに直に結びついている。

ある意味、ハイドンはテクニックである。
他のいかなる作曲家の作品に比べてもテクニカルであることが重要だ。
質が悪いことに、テクニカルにかかる命題も含めた上でのテクニカルなのだ。
我々はテクニカルの本質を理解していない。
まずこの点において、日曜演奏家たる我々にとっては試練となる楽曲である。
我々にとってのテクニカルとは「弾ける」ということである。
でも、殊更にハイドンは、それでは駄目なのだ。
「弾ける」と言うことでさえないくらいに弾けなくてはならない。
日常的に、当たり前に、普通に。
だから、当たり前の解決策として、ともかく練習するのである。
例えばメトロノームで。
メトロノームがいらなくなるくらい、メトロノームで練習をする。

でも、なかなか、そんなには出来ない。
頭を使わないと、出来ないでおわり。
頭を使っても、出来ないことが多い。
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# by bassbassbassyy | 2011-05-18 22:42 | 音楽
2011年 03月 21日

松本公演

 多くの方の思いやりと協力によって、松本公演を開催することが出来た。
小さな演奏会だが、もの凄く大きな演奏会になった。
人としての先達に見守られ、意思を共にする仲間と、たまたま通りがかったという方まで含めた多くのご来場者のみなさんとともに、生きていることの喜びを実感した。そして、その喜びは、身を裂くような痛みを伴っていた。
私の知らない人が、瓦礫の下にいる。冷たい海の底にいる。冷たい雨に凍えている。眠れぬ夜を過ごしている。
アンコールのピアノを聴きながら、私は、私の知らないそうした人々と共にいると感じた。

今、この災厄は最も目に見える形で顕われている。
しかし、時間の経過とともに私の目から遠ざかって行くことになる。その地の人の途方もない悲しみや多くの障害を残したまま、やがて、あまり人目につかなくなる。すると、人の心が離れはじめる。
一生懸命節電に協力した人、なけなしの生活費から義援金を出した人、そういう善意の人々の心が段々と離れ始める。社会の負った損害が、今よりもっと浸透して、遠くの人々にまで及ぶようになって来ると、みんな自分が生きることに必死にならざるを得なくなって来る。そのこと自体は社会の不可抗力的な性質と言える。
でも、その地の人の悲しみや障害は、その時でも現実なはずだ。
それは忘れてはいけないことだと思う。

地震の前、リビアやエジプトで多くの市民が理不尽な死を迎えている。その前にも、そのまた前にも、世界の何処かで、自分の隣で、自分の知らない誰かが理不尽な死を迎えている。
ショスタコーヴィッチを演奏し、アンンコールに月の光をやったとき、何十年も前に流刑地のシベリアで死を待ちながら月を眺めている収容者を思った。そして忘れない。

私のような、忘れっぽい人間が言うのもなんだが、人と言うのは忘れっぽい。だから生きて行けるとも言うが、そろそろ、思い出しておいた方が良いことが沢山ある。忘れてはならないことが起きている。

前回のブログでは、非力な私が出来る最良の方法として、必要最低を旨とする生活を書いた。それは確かにその通りだが、それで、別の人を死なせることになる可能性にも配慮する必要はある。

今回の松本公演では、みんなが出来ることをやった。なるべく燃料を使わず、公共の負担をかけず。
議論した訳ではないが、みんながちゃんと災害のこと、音楽のこと、演奏会のことをしっかりと考えて、きちんとした意思をもって、演奏会を開催した。お客さんも音楽を求めていて、私たちが、この状況で音楽をしていることの意味がちゃんと伝わった。
目に見える援助も出来た。みんなの意思で決め、お客様にもご協力頂いて集めた義援金は9万円を越えた。
実は、開催が正しいのか、間違っているのかはまだわからない。
でも、開催して良かった。これは間違っていない。
とても、良い演奏会になった。
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# by bassbassbassyy | 2011-03-21 18:49
2011年 03月 16日

確信

 前回、松本公演の開催を強く宣言しました。
これは、覚悟のためです。
確信ではなく、覚悟です。
「行動が思想を決定するのだ」とのセリフ、記憶にある方はまだまだ多いと思います。
何と心細く、気弱な言葉だろうか。こんな言葉に酔わなくては起こせなかった行動とは何であろうか、と思います。
今日、団内から「何故開催するのか?」「止めた方が良い」との意見が届きました。
開催するぞ、との号令下、みんなが苦労して準備を進めている最中で、それを知りながらこれを言うことはとても勇気のいることだったと思います。
そして、その意見を聴けて、とてもほっとしている自分がいます。
多分、出演するみなさんが多かれ少なかれ持っている気持であり、意見だと思います。
さらには、日本中の大多数の方が、同じ立場にあれば、そのように思い、考えるだろうと思います。
これは、とても大事なことです。

今、被災地では、食料、衣料、燃料、薬剤等、あらゆるものが不足していて、少しでも手に入れたいとの思いは、生死に関わるところから発せられています。あらゆる援助を待ちわびている。
直接的な援助の手段を持たない我々に出来る最良のことは、物資の消費を節約し、公共の施設設備を必要最低限以外利用せずに、余力として社会に蓄えさせることです。これが、巡り巡って被災地への援助の厚みとなる。電気を節約する、病気にならないように細心の注意を払う、事故を起こさない。こうした少しの努力を集めることで、被災地で電球1個を灯すことになったり、医師を一人派遣出来るようになったり、消防士を一人、救援に携われるようになったりするのです。

なのに、何故、燃料と時間と労力とその他諸々を使い、周囲の人に時に迷惑をかけ、助けてもらいながら長野で演奏会を開催するのか。
本当にそんなことをする必要があるのか。
こんな時に開催しても、お客さんも来ないし、反感を買うだけではないのか。

私は演奏会を開催する理由として正当性のある説明が出来ません。
正しいか間違っているか、わからない。少なくとも正しいときちんと説明することは出来ない。
でも、必要と言うことならば、必要だと言える。
多くの方に無駄と思われることをして、正しくないと思われるかも知れないことをして、しかし、これは必要だと言うことが出来る。
私自身は非力で何も出来ないような人間です。一人で楽器を弾いても誰かが聴いてくれるような美しいメロディーは奏でることが出来ません。そもそも、その為の楽器ではないし、そうした楽器をそこまで高める技術も持ち合わせていません。何人かに集まってもらって初めて音楽として聴いて貰えそうな曲の一部分を受け持つことが出来ます。いつも誰かと一緒にやることでしか音楽を作れない。音楽の中で、共にあろうとする積極的な意識と姿勢が互いに出会うことでしか、何かを伝えられない。
でも、いつもそこにあるのは拙くても素晴らしい音楽です。
聴いてくれた人がお世辞ではなく、楽しんだり、ほっとしたり、悲しくなったりする音楽です。
音泉にはそれが出来る。
そうしたことが、世界に必要ではない時があるとは思えない。
全ての人に必要かどうかはわからないけれど、多くの人に必要なはずだと言うことはわかっている。
今は尚更必要だと言える。日本中が怯え、緊張している。
だから、やれることをやろうとするならば、慎ましく生活することも大事だし、それはやれるし、するのだけれど、けれども、その前に、それと同じくらい、大切なこととして、音泉として演奏をすることだと思う。
それは、同じようなことが出来る人々もいるとは思うけれども、音泉でなければ出来ないことに違いないのだ。

当たり前のことを、中から、きちんと言って貰えて、私は恵まれた代表だと思う。
そして音泉は充分に多くの迷いと躊躇の中で健全だと言える。
このブログをご覧になった出演者は、少しは確信に近づけたであろうか?
私は、おかげで、演奏会前に確信が得られた。
みなさん、しっかりやりましょう。
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# by bassbassbassyy | 2011-03-16 23:09 | 音楽
2011年 03月 12日

松本公演

20日に予定している松本公演について。
本日時点では開催予定と致します。

大規模な災厄が生じた後の、演奏会等の催しは、被災された方への配慮は当然あって然るべき。
しかし、配慮=自粛と言うのは少々短絡に過ぎるように思う。
戦争中、「歌舞音曲」と全部ひっくるめて官憲に揚げられてしまった時代とは違う。
また、平成になった時に何でもかんでも自粛となったのともわけが違う。

話しはそれるが、私が、団のみなさんにメールで送ったり、ここに記したりしている事柄、テクニカルなことから心情においてまで全てについて、「精神論」をぶった覚えは一切ない。僅かな方に山崎の「精神論」には不快を覚えると言うようなご指摘を受けた。どうやら「精神論」の意味を知らないで使っているらしい。ふざけた話しである。

でも、今日は「精神論」として記したい。
遺憾ながらも、松本公演は時期的に追悼であり激励である演奏会になる。
地震から生じた一連の災厄のせいだから、全く持って遺憾である。
しかし、追悼と激励は人として当然の心情ではないか。
ならば、遺憾等とはせずに誠心誠意追悼し激励するのが音泉としてのあるべき姿であると考える。
このような成り行きもまた、音楽に対して正直であるべき道筋ではないかと思うのだ。
そして、追悼であり激励であるならば、いつの演奏会にもまして真摯であるべきと考える。
演奏自体はいつもと同じ様に音楽に集中すれば良いのだが、そこに無なる境地を付け足したい。
音楽か無か、ではなくて音楽と無である。
そうして音楽を捧げたい。
災厄に遭われた人々、そうした人々を救うために頑張っている人々、何か手助けをしたいと考えている人々、立ち上がろうとしている人々、そして、既に何も感じることの出来なくなった人々と、その人々と繋がっている全ての人々へ。

このような心情をみんなに無理強いして物理的限界を超えようとすることが「精神論」である。
「精神論」が何であるかも知らずに言葉遊びをするような人間は必要ない。
今度の松本公演ではこの「精神論」で行くのだ。
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# by bassbassbassyy | 2011-03-12 22:19 | 音楽
2011年 03月 09日

虚栄心

驚いたことに、前回のブログの記事を書いた直後の2日間はアクセス数が通常の10倍くらいあった。
まあ、更新すると自動的にアクセスしたり、更新したことが表示されたりする登録をすれば、この数は、驚く数字ではないのだけど。
でも、念のために、「とあるオーケストラ」の方々でご覧になった方に申し上げるが、誰かを揶揄したくて書いたのではなく、自戒の意味を込めて書いたのである。そのことを、ここに申し上げておきます。

とは言え、人前で物申すにはきちんとした考えがなくてはならないですね。難しい。
そこで、引き続き、虚栄心について。

虚栄心から人前で誰かを誉めるのは、自分はこんなにもみなさんのことを見ていますよ、努力している人を知っていますよ、そう言う人をきちんと誉める自分は何て偉い人だろうと言うことをわかって下さいいね、と、言っているのである。
これは、どうしたって、情けない。
前回のブログで述べた団長さんは、こんな情けない方ではありません。だから、誉めた段階では、たいしたもんだ、と、感心した訳です。
それを、見習え、と言うことが問題なのですね。
この団長さんは虚栄心とは縁のない人で、どちらかと言うと、「馬鹿」がつく程の正直者、飾りのない人です。だから、ヴァイオリンの人を誉めた時も、実に気持良く、素直に受け止められた。
こういう人だから、演奏も虚心坦懐。一生懸命練習して、マエストロの指摘もきちんと楽譜に書き込んで、自分なりに消化して、後は実に素直に、ばばば、っと弾く。
でも、ばばば、っと弾くと、10回に1回くらい、おやや!、っと言うことが起こる。
配慮が足りないのだ。これに配慮があれば、実に素晴らしい演奏家なのだけれど。
でも、おやや!があっても、気持は悪くならない。団長さんの頑張りはきちんと客席にまで通じる。
こういうところ、音楽は凄いのだ。

しかし、
虚栄心の固まりみたいな人は、こう言う演奏が出来ない。
自分が可愛くて音楽をやる人は、自分で何かをやる、と言うことが出来ず、どうしても、誰かの真似事に終止してしまうので、実質感が伴わない。ばばば、と、出来ないのだ。
周りの音も、良く聴いている振りは出来るけれど、実質的にはきいていないので、タイミングを計ることは出来ても、自分自身がタイミングとなることが出来ない。
こういう人は、必ずしも悪い人ではないかも知れないが、音楽をするには、不向きである。
そこそこやれているのに、いつでも、きちんと、足りない。
そう言う人の音楽は。

塩野七生さんが、大著「ローマ人の物語」の中で、虚栄心について興味深いことを書いている。
成る程なぁ、と、思う。そして、やはり、音楽には向かないなぁ、と思う。
興味のある方はGoogleで「塩野七生」「虚栄心」とくぐってみて下さい。

悪意を持つ方で、虚栄心に満ちた方は、音楽をすべきではなく、直ぐに違うことを始めた方が良い。
何故なら、音楽ではバレてしまうからです。
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# by bassbassbassyy | 2011-03-09 23:18 | 運営
2011年 02月 16日

誉めて生じること

子供を育てていると、難しいと思うのが誉めることである。なので、難しく考えないために、誉めたいと思った時に誉めることにしている。でも、要注意なのがその他の兄弟である。とある状況で、弟を誉めたとき、それを見ていたお兄ちゃんがどう思うか、これには少し配慮がいる。

以前、秋の本番を翌週に控えた、とあるオケのリハに参加した時のことである。
中々思うようにならずも、少しは集中して一定の成果を見せた前半練習後の中休憩時間に、指揮台に上がった中年の団長さんが、事務連絡かと思いきや、いきなりセカンドヴァイオリンの若い女の子を誉め出した。その子は社会人2年目の公務員さんで大学生になってからヴァイオリンを始めたとのことだから、まだ楽器を持って6年。オケで弾くには充分なテクニック等持ち合わせていない。それが、とても良く練習していて上手になった、と、言うのである。目立たない子で、セカンドヴァイオリンのいつも後ろの方で弾いているから、目の悪い私には顔も良くわからない。私は耳もあまり良い方ではないので、どのぐらい上手くなったのかまるでわからないのだが、ともかく上手になったと言う。
さすが、団長さん、良く団員さんのことを見ているものだ、と感心した。
いつも、眠い目を擦ってリハに望んでいるどこぞの団長とはえらい違いである。

でも、その後が良くなかった。

彼女は仕事が終わってから毎日2〜3時間も自主練習して頑張っている。だから上手になったのだ。と団長さんは言う。確かにそれだけ頑張れば上手くなるだろう。これは良い。
みんなも、頑張って練習すれば上手くなるのだから、ちゃんと自主練習をしなさい。と団長さんは言った。これがまずかった。
ああ、これはちょっと配慮がないかな?と、思ったら、案の定、後半練習のみなさんのモチベーションは下がりっぱなしで、だらしのない練習になってしまった。田舎のオケで、団員の皆さんは純朴素朴な方が多く、それだけに団長の言葉が痛かったようだ。

全く、同じようなことが、この間、あるオケのリハで起こった。同じ結末に至った。
どこでも、いつでも同じようなことが起こるものである。

頑張って沢山練習をして上手になった方の努力はとても尊い。
それは間違っていない。
もし、これを、それなりの年齢から初めて、それなりの練習量で、それなりの努力で、それなりの先生について、それなりに勉強もして、まあ、他にも色々あるだろうけれど、頑張ると、プロになれるかも知れない。
でも、市民オケの団員は違う。
たまたま、時間が取れて、先生にもレッスン受けて、一生懸命練習した。けれど、上手く弾けない人が稀にいる。何がいけないのか、くよくよと思い悩んで、寸暇を惜しんで練習する。でも上手くならない。
もう少し多くの人は、たまたま、時間が取れて、練習するけど、先生に見てもらえず、独自の効率の悪い練習しか出来ず、上手くならない。
もっと、多くの人は、時間がなくて、それでも、何とか時間を見つけて、効率の悪い自己流の練習をして上手くならない。
そして、大部分の人は、本当に仕事に忙殺され、生活に謀殺され、疲弊したところで時間もなく、毎週のオケの練習時間が自分の楽器の練習時間だったりする。当然、上手に弾けるようになどなるわけがない。でも、音楽がやりたくて市民オケに所属して、本当にぎりぎりなんとか、オケに来る時間を作ってやってくるのである。定時に帰り上司に睨まれ、遅くに帰宅し奥さんに睨まれ、若しくは夕食を作らず子供にぶつくさ言われ、あちこちに迷惑をかけて、ぺこぺこ頭下げてやってくるのが、多くの市民オケの団員なのだ。練習して上手くなれ、と言われても練習することが出来ないのである。
それを、たまたま、時間を作ることが出来て充分に練習出来た人と比べられて、同じようにやれ、と言われれば、気持が萎えるのは当たり前である。個人練習の出来ない自分はここにいてはいけないのか?と思ったりもする。
音楽家であるマエストロやトレーナーに言われるのなら仕方ない。しかし同じ団員でもあるはずの団長から言われてしまっては、立つ瀬がなくなってしまうのである。
では、市民オケは上手くならないのか?そんなことはない。音楽はテクニックも大事だが、知っていることも大事なのである。音楽を知っている、こと、である。リハのマエストロはテクニックについても語るが、殆どは音楽の知って欲しいところを語っているのである。これが伝わらなければオケは駄目なのだ。
まあ、でも、これは、実は結構どこにでもある話しなのかも知れない。

さて、誉めることで生じるのはこれだけではない。
むしろ、こっちが原則である。
誉めた側に虚栄心があると、これは少しもののわかった人には瞬時にバレてしまう。そしてシラケる。誉められた本人がもののわかった人ならば、馬鹿にされたと思うだろう。
ところが、誉めた本人は、以外とそこに気が付かないのである。だから、必ず繰り返す。
誰かを誉めて、その人の周囲の人々のモチベーションまで高めるには、まず、誉める人間が虚心坦懐でなくてはならない。

私はなかなかその境地に達しないので、人前で誰かを誉めることがそうそう出来ない。

誉めて生じる「+」はあるけれど、きちんと考えてしたいですね。良い勉強になりました。
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# by bassbassbassyy | 2011-02-16 23:36 | 音楽
2011年 01月 02日

一生懸命と本気

年頭のご挨拶に、今度の東京公演に出演するみなさんにご挨拶のメールを送りました。
当たり前の言葉で、今更ながらの「一生懸命」と「本気」を使いましたが、ここで改めて辞書を引かれる方は、まず、いないと思いますので、ちょっと、書いておこうかなぁ、と、思います。
国語の先生なら良くご存知のことと思いますが、「一生懸命」はもともと「一所懸命」から起こった言葉と言われています。比較してどっちが正しいと言うようなことはもうないような程、両方とも親しみのある言葉ですね。でも、「一所懸命」はその字の通り「一所」=「領地」を命懸けで守ることを示す言葉なので、場所や立場やものを死守するさいに使用する方が気持的にしっくりします。一方、「一生懸命」は何をするのでもともかく、命懸けであれば「一生懸命」として使って差し支えない訳です。
さて、これを踏まえて、あえて「一生懸命」を極々当たり前に使ってみました。本当は「一所懸命」を使ってみたい気持もあったのですが、この点については「その心は・・・」、お読みになったみなさんが「整え」て頂くのが宜しいかと存じます。
次に、「本気」ですが、これは本気以外の説明のしようがない言葉です。まあ、「真面目な気持」と言う説明がありますが「真面目」を辞書で引くと「本気であること」となります。
そんな訳で、辞書で引いて「本気」となる言葉が最初にありました。「真面目」「ぞっこん」「等閑」です。最後の等閑は「本気ではない」という意味です。
さて、「真面目」ですが、。元々はしきりに瞬きをする様をさしていた言葉だそうですが、これには「誠意のある」と言う意味が込められています。「等閑」は「誠意のない様子」と言うことが直ぐに浮かびますね。これは両方とも「様」から「心」を判断して指し示している言葉です。行動や様子から人の心が読み取れるとする考え方が基礎にあります。従って、そもそもの行動や様子が「本気」と受け取れないようなことでは、問題外、と言うことです。
さて、「ぞっこん」はおおまかの説によると「心底」に由来するようです。「心底より申します」と言う言い方が昔にはあった様で、「ウソ偽りのないことを言う」と言う意味と「私の言うことをきいて下さい」という意味があったのではないかと思われます。これは先の二つの例とは異なり自分の心を基に本気であることを指し示している言葉だと私は理解しました。
本気であることには、行動や様から読み取れる面と自身の心の底から顕われるという面と二つの意義があるのですが、両方とも大事なことだと思います。
私自身がそうでなくてはならないことなので、あまり人のことをとやかく言っては申し訳ないのですが、どうしても、そうであって欲しいなと思ってしまう方が見受けられる。と、言うか、人は時々そうなってしまう。私自身がそうなってしまう時がある。
でも、そう言うときはきっと、こんなブログは読まないのでしょうね。
難しいですね。
当たり前の言葉に、これだけの意味があるのは書いている私自身驚いてしまうのですが、「全て」ではないのですが「つきつめて」物事を考えることは意義のあることです。
音楽もそうです。
一つの曲もそうだと思います。
「これ」は「こうだ」と強く主張するためには、それなりの説得力を持たなければならない。
思い付きや一時の感性だけでは、どうにもならない。
ショスタコーヴィッチだってリヒャルトだって、丸山先生だってみなさんそうです。
だから、やる方も、一生懸命、本気で演奏しなきゃいけないのです。
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# by bassbassbassyy | 2011-01-02 22:01 | 音楽
2010年 09月 16日

そろそろ、ショスタコーヴィッチの話しをしよう。

でも、ゆっくりとしか出来ない。

そもそもボロボロだったミニチュアスコアーが引っ越しのどさくさで、何処かに入り込んでしまったのを機に、近所にあるヤマハで全音のミニチュアスコアーを買ったら、記憶にない解説がついていた。以前持っていたのは音友だったらしい。
まあ、それはともかく、寺原信夫さんの書かれた解説で印象的なのは、誰もが語る当時のショスタコーヴィッチがおかれていた背景を綴った後に、「第5交響曲の特徴について」と題して、ショスタコーヴィッチ自身の話しや論文、また、トルストイの書いた記事を通して、楽天性や明るさを紹介していることである。作曲家:寺原信夫自身の言葉としてではなく、作曲家本人と当時のソヴィエト連邦を代表する芸術家である文豪の言葉を、当事者の証言として、それを裏付ける権威の証言として、紹介している。「大いなる精神的葛藤の悲劇的衝突を通じて、世界観としての楽天主義を主張したかったー」とショスタコーヴィッチが言っている。「ショスタコーヴィッチの明るい人生観は、ソビエトの聴衆に理解され受け入れられたー」とトルストイが言っている。解説を書いた寺原信夫さんは自分では何も言わない。
これは、解説なので必ずしも著者自身の考えを書かなくてはならないとうものではない。一般的に理解されているところの事柄を紹介するのは至極真っ当なことである。でも、「変」なのだ。

ショスタコーヴィッチが楽天的で社交的な人物で、ブラームスのようにいつも不機嫌で、ベートーヴェンのように誰彼かまわず怒鳴りちらしたり、シューマンのように自分の殻に閉じ篭ったりしなかったのは本当のことだと思う。サッカーが好きで子供が好きで、「証言」にあるようには、軽々に人を貶めるようなことは言わなかったはずだ、と言うのも本当だと思う。
でも、本人が言う「世界観としての楽天主義」の主張は信じられない。
多分、寺原信夫さんも信じられなかったのではないかと思う。

私は、素人で、専門的な知識を持たないので、あまり逡巡しない。
もし、本当に「世界観としての楽天主義」ならば4楽章はハ短調からハ長調にするだろう。1楽章もハ短調となるだろう。ニ短調は変だ。
こう感じてしまうのは私が調性に対してきちんとした知識と考察力を持っていないからかも知れないし、ショスタコーヴィッチの調性に対する考え方を知らないからかも知れない。
若しくは、ベートーヴェンの真似は出来ないと考えたのかも知れない。

でも、こう考えたらどうだろう?
「良心、または正義観としての楽天主義」
これだと、ニ長調と言うのは中々にすっきり収まる。

どうです?
みなさんは、寺原信夫さんの解説をどのようにお読みになりますか?
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# by bassbassbassyy | 2010-09-16 02:18 | 音楽