音泉室内合奏団の食卓

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2010年 09月 13日

すべきこと

 Aオケの定期演奏会、みなさまお疲れ様でした。
凄い演奏でしたね。毎回だけれども、演奏後の疲れ方が尋常ではない。
私は、「団友」という立場で、ひょっこり現われて、しめしめと演奏しているのですが、団員のみなさんが半年間かけて積み上げて来たものを壊すこと無く、出来うるならば、より効果的な演奏でお役に立てれば良いなと思って、望んでおります。なかなか、思うようには演奏出来ず、充分にお役に立てているとは言えないのですが・・・。
毎回毎回思うのは、もっと練習してきちんとやらねば、と言うことです。
本番が終わると、本当にすべきだったことが色々わかって、あそこもここも出来なかったなぁ、と思う。
すべきことを、ちゃんとするのは、やはり難しいことなのですが、やらなくちゃいけませんね。
S先生へのご恩や、監督や、音泉の団員でもあるAオケのメンバーや、私を親しく受け入れて下さっているAオケの団員のみなさんのお気持ちに、少しでも答えられるようにしたいです。
今日は仕事も休んで、ダラダラ、ゴロゴロ、本当に何もせずに粗大ゴミ化して家人にも迷惑をかけながら、そんなことを考えていました。
一生懸命やりますので、また、宜しくお願いします。
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# by bassbassbassyy | 2010-09-13 22:43 | 音楽
2010年 09月 09日

久しぶりに、ショスタコーヴィッチ

映画評論家の故水野晴朗さんが007シリーズの「ロシアより愛をこめて」を、「007危機一発」との邦題で映画ファンだけでない多くの人々に興味を湧かせた話しは有名である。
特に「危機一発」との当て字を使う当たりは心憎い。
このような成功例(?)ではあるのだが、違和感は拭い得ない。
フレミングの原作も、映画も、ロシアは出て来ない。故に、解り易く、人々の気を惹きやすい邦題を付けた訳だが、映画を見てしまうと、「ロシア」に俄然意味が見出せて、折角の邦題も煤けて見えるのである。
興味のある方はレンタルDVD観るか、小説を買って読んで下さい。

さて、邦題が非常にまずい具合に作用してしまった例がある。
「革命」
この邦題を考えた方は凄い。
本当に革命っぽく聴こえてしまうのである。

でも、本当は「革命」とは殆ど関係ないのである。
ショスタコーヴィッチ:交響曲第5番「革命」
って、言われると、もう、「革命」なわけだけど、本当は関係ない。

まず、多くの方にこの呪縛から解き放たれて頂かなくてはならない。
これからは「革命」ではなくて「タコ5」と呼びましょう。

さて、広報部長、音泉では「革命」、どうします?
標題ついている方が、お客さんは来やすいんだけれど。
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# by bassbassbassyy | 2010-09-09 22:42 | 未分類
2010年 06月 02日

宇宙と人

2回目の合宿が終わり、あともう少し蒸し暑くなると、本番である。
今度の軽井沢公演においてホールに響くのは宇宙と人である。
文学的表現としての無機的な宇宙は、如何様な方法であれ観測され表現される。そうした時には既に有機的な何らかの象徴である。知覚することにおいて人の介在がないものはないように、我々の知る宇宙は人の仲介した宇宙である。初めて火星の表面を見た人は、人がそれを見ることが出来るように操作した結果を見ているのだ。だから、我々の見る物は全て人に還る。我々は物を見て人を見るのだ。己を見るのである。
こんな極端な物言いを真に受ける人は随分少なくなったけれど、でも、これって本当の一部ではある。
あまりバカにしてはいけない。
必ずしも意図していたわけではないが、今度のプログラムは、そんなプログラムなのだ。
そんな、って、どんな?
と、言われれば、来てみればわかる、と言うに決まっているので、こんな問答はただの宣伝である。

「ケフェウスノート」という曲は透明な印象のある(ある意味無機的な)響きで構成されたヴィジュアル的宇宙なのだが、これがとても人間臭い。別なところにも書いたのだが、NHK特集かなんかで「宇宙」という番組を放映するならBGMにもってこいである。透明感のある響きがいかにも宇宙っぽいのだ。こんなにも、「いかにも」的に音を重ねることが出来ると言うのはやはり凄いことだと思う。聴き終えた後に20分間沈思黙考したあげく「わからん!」と言わなければならない多くの現代音楽の中で、これも現代音楽だよ、って言うのはちょっと不公平な気がするぐらい、凄いことである。でも、そこがとても人間臭い。この曲を作曲された吉松 隆さんのことは全然存じ上げないのだが(ご挨拶はしたことがあります)、色々あるとしても、根は良い人なんじゃないかなぁ、と思わせる人間臭さを感じてしまう。
「二つのヴァイオリンのための協奏曲」は科学者がコンピュータが吐き出した数字の羅列を見て「成る程、宇宙はこうなっていたのか」とつぶやく時のような宇宙である。そんな場面が本当にあるかどうかは知らないけれど。
音が響き合い、動き、脈打ち、躍動し、微動だにせず、消えて、立ち上り、覆い、掠れて、凛とし、ありとあらゆる形容を数学的な的確さで表現しているが、それは人間を表現しているのではなくて、ただ、人間は真ん中にいる、のがこの曲である。「ケフェウスノート」とは全然別の宇宙である。人間が知り得た宇宙とは、人間が作り出した宇宙である。物理学者がどんなに無はまったくの無ではないよ、と言ったってそれはそう言う無を観測と言う人間行為によって、あるいは理論という思考によって、作り出された現実であって、それ以外に表現しようがなく、確率的というのは、所詮、概念でしかない。でも、宇宙はそう言う体系の中で成立している、というところの宇宙。こんな話しよりバッハを聴いている方が余程宇宙を感じられる。でも、バッハの宇宙は、どちらかと言うと人間臭いのではなく、人間がいる、ということの音楽だと感じる。
そして、どうあっても、宇宙とは無縁的に人間的な音楽としてのブラームス。心の音楽。心情の音楽。でも感情ではないし、感傷でもない。音楽による思考。音楽による感情。音楽による心情。
ブラームスには無機的であるところの概念は最初からない。私が見たから、そこに森があるのだ。そのくらい、人間なブラームスの交響曲は、徹底的に宇宙的ではない。土。道。街。家。畑。橋。城。自然が大好きで、アルプスが大好きで、重いお腹でとろとろ登る山道が大好きなブラームスは、自然に感動し、アルプスに畏敬し、そう感じながら、山道に苦しむ人間が(自分が)大好きだったのだ。
ブラームスの視点は最後に現われるけれど、私は、大地から見上げているような気になる。
象徴的な2つの宇宙とその狭間の、今ここにはない無数の宇宙を観測し、気が付いたら、恐ろしい程のズームアップで地上から宇宙を見上げている自分を見るのだ。
そんな、演奏会に出来たら、どんなに素晴らしいことだろう。
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# by bassbassbassyy | 2010-06-02 23:16 | 音楽
2010年 04月 17日

を、張り替えに出しました。
弓の毛です。
実に3年振り。014.gif
すごいでしょー。

つるつるの毛で良く数々の演奏会を乗り切った!
と、思われたあなた、甘いですよ。

つるつるの弓の毛は実は便利である。
「これはダメだ!」002.gif
と思った曲に望む時は松ヤニを塗らなければ良いのである。

例えば、S師の振る某Aオケでフィンガルをやった時等、高い音&早いパッセージの弾けない私はつるつる弓で臨んだものである。
少しは音が出るから、本気で熱演できるし、それでいて周りに迷惑をかけず、ヴィジュアル系として思う存分働けるのである。003.gif

さて、冗談はこれくらいにして、
弓の張り替えでお金がなくなってしまった。
合宿に行けない。困った。042.gif
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# by bassbassbassyy | 2010-04-17 22:20 | 音楽
2010年 03月 15日

 が今年の音泉のテーマです。014.gif
音泉のこれまでの「乗り」とはちいと違う。
自省的であり、内向的です。015.gif
しかし、外向きに、積極的にこれを進めると「革命」があるわけです。031.gif
まあ、言葉並べて喜んでいるだけですが、「変」から「革命」に至る道筋で、我々はこれまでの10年間に培って来た事柄とは、繋がっているけれど、一つ、二つ、高見からの見地を持たなくてはなりません。舘野さんとの共演はそこに位置付けされています。042.gif

音楽を楽しく演奏することは我々の理想です。これを文句なしに実現したとはとても言えない状況ですが、楽しむことの個々の意味は、みなさんが感じられたと思います。その「楽しさ」の位置付けをみなさんの個々の立場から、「人間」としての立場へ想像を膨らませて考えて見るのは、悪いことではないように思うからです。

絶望は、その絶望を背負ってしまった人にしかその絶望の意味はわからない。まあ、喜びもそうなのかも知れにけれど、何となく喜びは共有出来そうじゃないですか。でも、絶望は共有出来そうとは思えない。同じような状況が作り上げた二つの絶望が、それを背負った人にとって同じように感じられるとは思えない。何故でしょう?それは、絶望にはその人の生立ちや性格が色濃く反映されるからです。喜びだってそうなんですが、こちらは生立ちや性格よりも、そのときの状況がものを言う場合が多い。
そもそも、絶望を背負った人が、その絶望を誰かと分かち合えたと考えることは稀でしょう。

その絶望を、出来れば想像して欲しい。
さらには、その絶望の先にあった希望と喜びのことまでも想像して欲しい。
音楽表現云々の問題ではありません。
でも、これから来年の東京公演までは、絶望を常に意識しないではおれない、音泉となるはずです。その先にはいつも喜びがあるとは限りませんが、その先に「喜び」があることを信じて進む日々となるはずです。015.gif

さて、「変」には、もう一つ意味があります。
「半音下」という意味です。
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# by bassbassbassyy | 2010-03-15 23:02 | 音楽
2009年 12月 31日

あけましておめでとうございます

東京公演後引っ越しやらなにやらとばたばたとしてしまい、ご無沙汰してしまいました。失礼致しました。
さて、昨年の音泉のテーマは「愛」でした。テーマと言っても特別に何かをするわけでもなかったのですが、振り返って見るとなかなか有意義なテーマであったと思います。その有意の中身についてはそれぞれで考えて頂ければ良いのですが、私なりに感じたことを一つだけ述べさせて頂くとします。
「愛」の尊さ、はかなさ、力強さはたとえ漠然としたものであれ誰もが感じているところのものでありますが、これはベクトルであって、その真に大切なところはそれが起こるところと、方向性である、ということです。このことには意外と誰もが気がつかない。詳細に言うと面倒になりますので、詳しくは申しませんが、この一年の音泉の活動から、「愛」を通してそんなことを強く感じました。
みなさんは、いかがでしょう。
さて、この一年を踏まえて、これからの一年のテーマを考えました。
今年のテーマはズバリ「変」です。
予め言っておきますが「変態」の「変」ではありません。Tさんは喜ばないように。
この一年の間に私は音泉のメンバーで必至に自分を変えようとする幾人かの方々の姿を何回となく垣間見ました。必至と言うのはいささか誇大に過ぎるかも知れませんが、これからのために自分が変わらなければならない、という決意がにじみ出るような姿がそこには感じられました。まあ、皆さん良いお年なので変わると言うことの大変さは十分身にしみているでしょうし、今更何を、という気持ちも起こる事ではあります。でも、そうやってより良くあろうとする姿はとても尊い。
比べて、変化を恐れて身構えている姿はあまり格好良くない。
残念なことに、変えられない自分に、無理に正当性をこじつけて、結果、醜い姿をさらしてしまった方もお見受けしました。時には自分自身もそうであったかも知れません。
音泉も変わることを恐れてはいけない。信念を持って良いとするところは貫くけれども、そのために変わらなければならないところは変えていくべきだと思うのです。
まあ、実際は何を変えるかなんてわからないんですけど、気持ちだけでもそんなつもりでおれたら良いな、と、思います。
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# by bassbassbassyy | 2009-12-31 23:01 | 運営
2009年 10月 28日

ブラームスはお好きですか?(16)

 クラシック音楽の曲には指揮者がいないと駄目な曲と指揮者がいない方が良いかも知れない曲とがあります。こんな分類は誰もやっていないけれど。でも、現代では殆どの楽団や劇場オーケストラは音楽監督のポストに指揮者を雇い、彼のプロデュースで演奏会を計画します。なので、どの曲に指揮者が必要か必要でないかを判断してるのは多くの場合、指揮者自身です。ウィーンフィルのようなオーケストラは例外でしょう。彼らは、自分たちのプログラムと指揮者を自分たちで決めていると言っています。いずれにせよ、こう言う分類は実は当たり前に行われているわけです。ただ、普通に考えて、小編成の室内楽には指揮者はいらないと判断されているし、オーケストラには指揮者が必要と判断されている、ということです。なので、この、普通、をとって考えて見ましょう。分類する人によって結果が随分と異なるのではないかと思いますが、私は以下のように考えます。
私の場合、交通整理の問題は避けられないものの、音楽の質を1番の基準に考えます。

楽曲が何であるかは敢えて問いません。027.gif

 例えば、モーツアルト。これは断然指揮者がいない方が良い曲が多いと思います。指揮者がいることを前提として書いている曲も少ないし。交通整理の問題がなければオペラでさえ指揮は必要ないでしょう。ジュピター等は強い意思を感じますが、文学的な意味で協約的ではありませんので、指揮者によって意思が統一される方向へ向かうと変な曲に聴こえます。
 ベートーヴェンは、多くの曲で、本当を言うと出来ればいた方が良い。音の意思と言うものを具現化し、方向性を定めるには指揮者がいた方が合理的です。そして、ベートーヴェンの楽曲はそう言う曲が多い。ピアノソナタ21番「ワルトシュタイン」なんて「?」な演奏を聴くと、「上手いんだから指揮者がいれば良い演奏になるのに」、とよく思います。ピアノソナタの演奏に指揮者がいたら変だけれど、音楽自体にはそれだけの内容がある。構造自体は後期ロマン派の楽曲群に比べたら簡単ですけど、精神性との統一は実に難しく出来ているように思います。
 シューマンは絶対指揮者が必用ですね。交通整理はもとより、バランサーとしての役割も重要です。アンサンブル自体は出来なかないようにも思いますが。
 ちょっと、「例えば」が長くなってしまいましたが、つまりはアンサンブルの問題はハードルとしてはわざと低く見積もっています。だって、我々だって充分とは言えないけれどドボルザークのチェロコンチェルトをやってしまったのですからね。本当は音楽の熟練者が集まれば出来ないはずはないのです。でも、やらない。楽曲における音楽の性格に統一性を持たせて物事を効果的に主張する方が演奏するほうも、聴く方も合理的なんです。指揮者は音楽をとても素晴らしいものにしてきました。でも、これが音楽の本質の一部を歪ませてしまっている面もあるわけです。人は、なんに付け慣れてしまうからねぇ。特に、ベートーヴェン以降のロマン派といわれる音楽は音楽に文学的表現を求めますからね。意思を束ね、方向性を定め、その方向性を殊更に一方向へ向ける必用のある曲、方向性が一定ではない曲、が出来てしまう。こういう曲には指揮者が必用になるのですね。先のワルトシュタインは一人の人が弾くにはテクニカル的なものと音楽の意思の関連がとても難解なので、よっぽど強い意志を持って思い切った形での選択が出来ないと支離滅裂な演奏になってしまう。こういう事を整理できる人が必要なんです。ピアノは弾いているのは一人なのにね。ピアニストって大変ですよね。かよさんは凄いなぁ。003.gif

 さて、「ブラームスはどうなのよ?」と言うことですね。問題は。034.gif

 ブラームスは、上に書いたような意味では、指揮者がいない方が良い曲が多いと、私は思います。交響曲は全て指揮者がいない方が本来的なブラームスが出来るはずだと思うのです。1番はちょっと違いますが。こんなこと言うとS師には怒られそうだけれど。
 理由は、これまで書いたものを読み返して頂ければわかると思います。再三言うようにブラームスは音楽を音楽で語った訳ですから、演奏者がきちんと音楽を語れれば指揮者はいらないのです。取りまとめて、方向性を定めるべき意思はブラームスの音楽では音楽そのものだからです。
 でもね、演奏家が音楽を語らなくなってしまってはどうしたって指揮者は必用になるし、本当の本当に演奏家から音楽が消えてしまうと、ブラームスはもう音楽として聴けなくなってしまうのですね。郷愁に満ちたメランコリックな響きだけになってしまう。これは悲しいことです。007.gif

 私たち音泉は演奏家としては未熟な者の集まりです。充分に音楽を語れるとは思えません。(そうではない方々もおられますが。)
「だったら、指揮者が必用じゃないか!」と仰る方がおられると思いますが、その通りです。新潟では指揮者が棒を振って下さいます。
だから東京と新潟では大きな差が生じるはずです。
この差は私たちの未熟さの分になるはずです。
これを実感したい。実感して頂きたい。
 S師が新潟でも吹きたいと仰せになった時は「はちゃ〜」と思いましただよ。その後、不幸な偶然の連なりから幸運に転じて、やはり棒を取って頂くことになって、どんなにホッとしたことか。042.gif
 逆に言うと、東京公演で私たちが、どれだけ演奏家としての自覚の元に演奏出来るか、と言うことの達成度が高ければ高い程、この差は埋められるはずです。
 でも、本来、音泉が大きな楽曲を演奏するときでも指揮者をお願いしなかったのは、単に経済上の理由(要するにギャラですね)だけではなく、アマチュアであっても演奏者たる位置を自分たちなりに確認すべし、との意思があったためです。最初に交響曲を演奏したのは、第3回演奏会松本公演のモーツアルトでした。普通なら弦楽合奏で指揮者を必要とするブリテンのシンプル・シンフォニーを5人で演奏したのは第2回演奏会東京公演です。交響曲は第20回以来だと思われている方も居られるかも知れませんが、ずっと前から、実はやっているのです。演奏者が、皆同じ立場でコンサートを行う。ワルツ、ポルカだって、本当は監督をなるべく立たせないで演奏したい。まあ、これは伝統的な「弾き振り」に則っているので、そんなには拘りませんが。
 音泉はもともと、演奏者が本来的に音楽をしよう、それで演奏者としての本来の立場を取り戻そう、とする意思を含む団体なのです。これは私と監督が霊泉寺温泉のお湯に浸かりながら話し合ったことです。のぼせてなければ間違いありません。
 しかし、音泉の現状を端的に言うならば、「音楽監督頼り」です。発音から弓の使い方から、音程から、楽譜の読み方から、山菜の採り方まで(これは良いのか)、何から何まで、音楽監督の指導を頼っています。これでは、ブラームスはメランコリックな響きだけになってしまう。監督が教えてくれるのを待っていては駄目です。手取り足取りご指導を願っていては良い演奏は出来ません。自分で探求し、出来るならば自分で決める。その末に、これでどうだ、と、音楽監督に自分の音楽を託す。煮るなり焼くなり好きにしやがれべらんめい、と言うところまで自分で持っていく。この努力に勤しむ姿勢が音泉らしいブラームスに繋がると思います。017.gif
 まあ、なかなか持ってけないんですけどね。頼り癖というのはなかなか抜けない。けれど、そう言う努力をする。そういう姿勢でいることが大事。かつ、その上で、全体の調性者であり裁定者である監督の指示にはまずは従う。従った上で納得いかないときは、納得いかないと問えばよい。監督だって間違えることはあるでしょう。(キノコ採りのときは間違えないで欲しい。)人に頼っておいて完全無欠を求めてはいけません。

 音泉は、音楽する自分とは何か、というトートロジーです。単純な自分探しとは違います。これは、同時に音楽とは何か、人生とは何か、という2つの哲学に繋がります(力んで考える必要はないんですけれど)。この解を求めるために管楽器と弦楽器によるアンサンブルを10年続けている。指揮者に頼っていてはこの解は見つかりませんが、音楽監督に頼っていても同じことです。私自身も、そもそも依存的ではありましたが、ここ数年、特に依存的になってきたような気がします。色々なことが原因として言えるとは思いますが、自分自身以外の何かのせいにしたってあまり意味はありません。やってくれること、そうなっていること、そうなること、というのは流れに甘えているだけですね。流れは誰かが作っているのです。例え流れに翻弄されても、僅かな力でも、流れは自分でも作らなきゃいけない。人に認めてもらうとか、知ってもらうとか、大事ですけれど、そうじゃなくても良いから、自分なりに流れを作っていると、言えるとよいですね。何にせよ、自分の立地点は自分で決めねばなりません。そういう立場を物言わず貫いている方もちゃんとおられます。
この解の探求の上にブラームスは存在しています。ついでに言うとバーゼルも。014.gif

 さて、今年の音泉のテーマは「愛」です(久々に登場)。
最後まで言わないつもりだったけれど、種明かししちゃうと、ブラームスは愛されたかった人なんです。ブラームス・ブログの最初の方で、何となく、否定的に示唆してはあるんですけどね。まあ、だから、音泉のテーマも愛なんです(←偶然を必然のように装う例)。
 ブラームスは多くの人と同じように、お金も、地位も、名誉も必要としましたが、もっと身近で、暖かく、親しみのあるものとして、「愛」を欲していました。愛されるためには愛さねばならないことも知っていましたので、そのように努めました。自ら出向き、働き、語り、笑い、慰めました。おかげで現実的な生活の面においては様々な愛に支えられて孤独なわりに幸福だったと思います。しかし、音楽における「愛」には充分に満たされることがなかったように思います。自らは提示することしか出来ませんからね。残っている書簡にも書かれていないようなので、想像に過ぎませんが、ブラームスの必要としていた理解を示せたのはクララだけだったのではないかと思います。それは今日も同じ状況にある、と思います。今日、ブラームスを理解し、楽曲をこよなく愛している演奏は皆無に近い。思い入れのある演奏はもちろんありますけれど、思い入れと愛とは違います。または、分析し構築する。CD訊いても、解説読んでも、評論読んでも、何となく「?」がついて回る。過去から現在までの偉大な指揮者や演奏家等の実績を前にして、私がこんなことを言うのはとてもとても僭越なことですけど、そう感じてしまう。
 ブラームスの音楽は、愛されたがっている。ならば、ブラームスの音楽を愛してやまない音泉の演奏、と言うもはやれないものだろうか?それが、音楽を愛し、自分を愛し、他者を愛することに繋がるということです。でも、ドルチェじゃないですよ。私たちは自分の「愛」をもっと厳しく鍛えねばなりませんからね。016.gif

 なんか説教みたいな話も混じってしまいましたが、これは私が自分に言い聞かせていることであります。私の言葉に引っかかりを感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、勘弁してくださいね。
 私には楽器を自由に扱う技術が充分にはありません。もちろん練習はしますが、足らないことは音楽をやる上で、何を持ってしても補うことの出来ぬことです。なので、せめて、音楽をする心には必要充分な研鑽を積みたいと思っています。それが少し言葉になってしまった、と、言ったところですかね。
 それから、これまで書いてきたことは私の考えです。なるべくきちんとした根拠のあることを書いてきましたが、とりとめのない憶測も時には含まれています。どの部分は根拠があって、どの部分が適当なのかは想像してみて下さい。矛盾している箇所も幾つもあります。両極を含有する大意というものも想像してみて下さい。何度も書いていますが、みんながこれから演奏する曲についてみんなが考えて持ち寄り、曲に託しながら、納得いくように練習して演奏に活かすことが重要なのだと思います。
ブラームスのお話はこれで終わりです。
頑張りましょう。041.gif
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# by bassbassbassyy | 2009-10-28 00:36 | 音楽
2009年 10月 17日

〜閑話休題〜 ブラームスはお好きですか(15)

 さて、長々とブラームスを話してきました。ちょっと内容の変化が乏しくなって飽きてきましたね。本当は、一つ一つの話自体をもっと詳しく書きたかったのですが、あんまり長いと読まれなくなってしまうので、かなり割愛して書きました。逆に短絡的になってしまったところもあり、ガタガタした文章になってしまったところもありますが。
ともかく掲載部分だけで原稿用紙70枚分くらいにはなりました。原稿で見ると100枚超えてしまいました。やれやれ。
042.gif
 なので、ブラームスについては次回で一応終了。
最後は、最後なんだけれど、まだまだ、見るものはありますよ、と言うお話。
色々な見方をしてきましたが、具体的な曲の分析、演奏法については殆ど手付かずです。最初に第1楽章の冒頭を若干分析しましたが、まだまだ深めることが出来ます。また、見方と言う面でも考え方と言う面でも、まだまだ考察の余地があります。
そこで、こんなことも考えられますねぇ、こんな見方もありますねぇ、というお話をしておきたいと思います。
030.gif
 まずは、終わりのお話し。4楽章の終わり。つまりは曲の終わり。
 この終わり方は何でしょうか?
 まず、フェルマータがない。4泊分。トライアングルを除く斉奏で終わります。何としても「終わり」「以上」「もうなし!」と言う感じです。こうまで、終わらねばならないならば、いっそのこと短い音で終わっても良かったのに、と思います。その方が決然とした感じは出やすい。弓の心配もしなくて済む。何より潔い。でも、4泊分は伸ばしたかった。釘一本で蓋をするのではなく、大きな石で蓋をした感じですね。何故か?
 下手をすると、中のものが出てきちゃうからですね。釘をどんと打って終われなかった。何かを封印するように、重い重石を乗っけて、もう出てくるな!と終わるわけです。仮にフェルマータが付いているとどうなるか?フェルマータしている間に、出てきちゃう。そういうことです。フェルマータは拍感がないので、逆に復活がありえるわけです。曲の途中で仮の終止をするときは大抵フェルマータを用いますね。拍感がないことで、逆に楽曲を想起させる手法です。
 最後まで拍があると言うことは、4番と言う曲は、そして、少なくとも4楽章は、冒頭にある全音符のバーバーとしたテーマで出来ている割に拍感の大事な曲と言うことになりますね。逆の言い方をすると、初っ端のあの全音符にしっかりとした拍節感がないといけないと言うことですね。難しいですねぇ。良かった、トロンボーンじゃなくて。
 ともかく、一つ前にも書きましたが、躍動、運び、流れです。これを重要視しているからこそ、終わり方はこうするしかなかった。しかも、そもそもコラールですから、響きの奥行きがある。サウンドの力が物凄くある曲なんですね。これに封印するには、この終わり方しかなかったのでしょう。
 それから、シャコンヌであることにも注目しないといけませんね。パッサカリアでも良いですが、ともかく、終わらない、ことが身上です。永遠に繰り返す。これがシャコンヌ。監督と、「終わり」の話をしているときにご指摘頂いたのが、バッハのシャコンヌとの比較です。構造的には似ている、というか、同じなんですね。コーダの在り様と持って行き方が。ちなみに、あのシャコンヌもソナタ形式風です。バッハって凄い!。ブラームスも負けていられなかったんですね。ドイツ人魂ですかねぇ。ともかく、終わりのない情熱の昂ぶりが永遠に続くシャコンヌを終わらせるには、重くて大きな石が必要だったのですね。
 そして、本当は終わりたくなかった。続けたかった。永遠に音楽が鳴り続けたかった。この、「潔くね〜。」って感じも大切だなぁ、と思うわけです。「潔くね〜」をちゃんと感じて表現にした演奏って耳にしたことないですねぇ。「駄目ぇ、終わるのぉ〜」と「潔くね〜」が、拮抗している終わり方って面白いと思うんですけれどね。どの著名な演奏も、どちらかって言うと、「こう言う終止形なんだから、これで終わり!」って終わってる感じがします。
 まあ、そのことは分かった。重くて大きな石。ぎゅ~って終わる。よく分かりました。問題はその次。これ、演奏で考えると、とても大変なんですね。
 コーダは第24変奏からです。そこから、最後までが終わりの部分。既に重い大きな石は用意されているのです。ちゅうことは、これに見合うように音楽を持っていかなければならない。まあ、その様に書いてはあるわけですが、息を抜いたり、手を抜いたり、重いものを軽くしたりしてはいけませんよ、と言うことですね。躍動も運びも流れもそのままに、しっかりと終わりまで持っていかなくてはならない。しかも、最初に言いましたが、4楽章には輪廻の様に1楽章を想起させるきっかけが幾つもある。4楽章の終わりは曲のおわりですから、1楽章まで遡って、この終わりを覚悟しておかなければならないわけです。終わりは始まり。物凄いものを背負い、積み重ねながら弾き続けなければならない。考えただけでも息が詰まりますね。015.gif

 終わり方から、こんなことを考えることも出来るわけです。037.gif

 もう一つ。今度はこんな見方もありますね、と言うお話です。
 強弱記号。
 これに注目してみる。
 4番で使われている強弱記号、フォルテ-fとピアノ-pのアルファベット記号のみで考えると実はppp、pp、p、mf、f、ffの6つです(sは別ね)。mpとfffはありません。mfもわずかに4箇所だけです。
 チャイコフスキーさんはきっとビックリするでしょうね。ffffを書かずに交響曲が書ける!005.gif
 経過的に中間のmp、mfとなるところは沢山あるのですが、mp、mfでのびのびリラックスして力抜いて歌ってね、と言うところがないんです。殆ど、まるで。
 単純に見ると、ブラームスが緊張感のある音楽を求めていた、ということになります。でも、その通りなんだと思います。そもそも、ブラームスは交響曲でmp、mfの表記をするのを嫌っていたようですね。
そこで、変態チックに調べてみました。
面倒なので第1楽章だけですが、スコアに印刷されている記号の数です(箇所ではないです)。

ppp 5  pp 91  p 242  mf 5  f 273  ff 66

mfが如何に特殊かわかると思います。

また、意外なことにsfは230でした。
fは数小節間に渡ってかかる場合もあるのに対してsfは音符の一つ一つにピンスポットで書かれているために数が多くなるわけですが、多いでしょう。sやアクセントは音楽のスパイス。と言うか、息吹、脈動に関わる、もっともっと大事なものですからどうしても多くなりますね。

 こう言う統計的な分析がどのような意味を持つかは解釈の問題ですけれど、mfは要注意ですよ。
 特にホルンの方は。逆に言うとこのmfをきちんと解釈していないホルン吹きは「どうなのよ」と言われちゃう。良かったホルン吹きじゃなくて。

 このmfの使い方、実は他の交響曲でも同じなんです。mpとmfが極端に少ない。ピアノ協奏曲の2番の冒頭、ホルンの旋律が例外ですね。あれはmp。最も演奏者が緊張するところで、力まないで伸び伸びとした音楽を要求しています。嫌な人ですね。しかし、それにしたって、冒頭ではあるけれど、実は冒頭ではないんです。冒頭のホルンは高貴で悠然とした問いの流れの中から浮き出した一つの出来事です。これに呼ばれて主役のピアノが出てくる。実は緊張の極みの中での出来事。mpのちょっとのほほんとした雰囲気は微塵もない。pから逆算されたmなのですね。従って曲全体も緊張度の高い作品になる。これを勘違いしてしまうと、ダレダレのピアノ協奏曲になってしまう。
 4番に話を戻しますが、ここで使われているmfも経過的なもの、全体がppからクレシェンドしている途中から出るので、mfから出てね、と言っているものを除くと、本当に僅かです。mfの本質的な性格で書かれているところは例外。だから基本はppp、pp、p、f、ffの5つ。pppとffは両極なので、まあ、想像はつきますね。問題はpp、pそしてfです。ppp~ffの間で、この3つをきっちり使い分ける。しかも、強弱は相対的で全体的且つ局所的なわけです。緊張度の高いこの3つをきちんと意識して全体の整合を保ちつつ演奏するには相当、スコアを読み砕いていないと出来ませんね。まあ、出来ないんですけどね。統計的なところから見るとこんな感じですね。
 少なくて特徴的であること。多くて特徴的であること。敷衍的で特徴的であること。局所的で特徴的であること。これを解析すると全体が何となく見えて来る感じですね。
 でも、よい子のみなさんは真似しないで下さいね。
数えるのに時間がかかる割に、わかることは少ないから、こんなことしない方が良いかも。大体で良いと思います。027.gif

さて、いよいよ次回は最終回。
029.gif
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# by bassbassbassyy | 2009-10-17 01:53 | 音楽
2009年 10月 16日

唐突ですが、SNSでの話しを受けて   音泉で「革命」を取り上げようとするわけ

前もって言っておきますが、字ばっかです。
事務局長は覚悟して読むように。

 実は、こう言う問題提起を待っていました。
 はいそうですか、とあっさり受け入れるには難儀この上ない選曲ですからねぇ。反対意見が出ないのが却って心配でもありました。
 私は、団の運営を考える上で、この選曲は全く厄介なことであるなぁ、と今でも思っています。しかしながら、音泉としての音楽へのアプローチを考えると、艱難辛苦はあろうとも良い試みではないかとも考えています。選び取ると言う意味においては私には確信はありません。しかし、別の意味では、これで良いと考えていますし、覚悟も出来ています。

 そんな訳で、これから書くことは、この曲を想起する理由ではなくて、この選曲を受け入れる理由です。従って音楽監督がこの曲を選ばれたお考えとも異なるかも知れませんし、チェロ弾き男さんの意見に対する反論にはならないかも知れません。あしからず。
私が、この選曲を伺った際に、考えた順にお話します。

①音泉はそもそもアンサンブルを目的とした合奏団です。アンサンブルで出来る曲ならば何でも演奏の可能性はある、と言うのが基本的な姿勢です。その意味でドヴォルザークのチェロコンチェルトは限界への挑戦、に近い発想がありました。アンサンブルで出来るかという点に関して、音楽監督は「革命」はアンサンブルで出来るとはっきり言っていますので、演奏の可能性からは除外する理由はありません。この点で言えばむしろチェロコンチェルトの方が除外対象に近いのではないかと思っています。

②編成の問題ですが、現状の音泉の活動範囲から言うと、演奏可能な編成の範囲です。
楽器集め、人集めには尋常ならざる努力が必用ですが、幸い、メンバーの協力が得られれば必要楽器、人数は集められそうです。しかし、皆さんの協力が得られなければ無理です。
これについては、これまでのやり方を改めることを検討していますので、おいおい、お話しますね。また、経営的な面においても、これに堪え得る計画を立てるための試みを実施中です。その結果に応じて現実的な算段は出来ると思います。

③音泉で取り上げる曲目について以前よりみなさんに広く伺っておりましたが、具体的に私の元に伝えられた曲目は僅かでした。ただ、僅かながら演奏に取り上げるに非常に意味のある曲目だったので、これを取り上げる手順について熟考しているところでした。直ぐにやるよりも、何かを成し遂げた後でやる方が良い演奏に繋がると考えていたからです。そのとき、この選曲を伺いました。リクエストのあった曲に至るには「革命」は非常に良い題材であり、これまで音泉で取り上げた数々の演奏曲目の線上にはまるものと考えられました。「革命」とその後、幾つかの段階を経た上でそのリクエストにお答えできれば、今、取り上げるよりもより良い、意味深い演奏が出来る、と考えています。

④「その後の音泉」を考える上で「革命」は良い区切りとなると思われました。「その後の音泉」とは、以前の小編成のアンサンブルと言うことです。このことは既に皆さんにお伝えしているところです。しかし「革命」後、直ぐに小さくなれるわけではありません。音泉のコンセプトをもう一度明確にした上で、これまでご協力頂いたメンバーの皆さんに納得いただける形に持っていかなくてはならないと考えています。また、小さくすると言っても音泉で実現しようとしている試みには少なからぬ人員が必要ですし、全てのメンバーがいつでも音泉のために時間を作ってくれるわけではありません。これらを合わせて考察すると少なくとも2管編成分のメンバー表が埋まるくらいの方々が、音泉のメンバーでいて頂かなくてはなりません。私の考えでは、それは「革命」を演奏する人数にほぼ合致します。

⑤人の縁とは、そう簡単に価値付け、評価できるものではありませんが、それでも、誰しもが「このご縁は大切にしなければ」と思うことがあります。音泉を10年間続けてきて色々な方との出会いがあり、親交がありました。どれも貴重なものですが、今この時にそれを深めておかなければ後悔することになるご縁もあります。これは私個人の問題としてではなく、メンバー全員にとって貴重であるかどうかを計るわけですから、そう簡単には言えない事ですが、とても幸いなことに、比較的簡単に、誰もが同じように貴重に思えるご縁に音泉は恵まれました。このご縁を活かし、深めるための選曲という考え方もあると、私は考えています。

⑥「革命」でなければならない、という理由を私自身は明確に見出しているわけではありません。しかしながら「革命」ではいけないという理由は、はっきりと見出すことが出来ません。それならば「チェロコンチェルト」も「運命」も「ジュピター」も何らかの否定的な範疇に入ってしまうでしょう。例えばシューマンの交響曲1番や3番なら、私は明確に出来ないと言うことが出来ます。リストの殆どのオーケストラ曲もベルリオーズもワーグナーの序曲全ても、ドビッシーやラベル、ファリャ。出来ないと言い切れる曲はまだまだ沢山ありますが、「革命」は①②の条件を満たしているならば、出来ないと言える理由が見出せないのです。

 以前「ジュピター」を取り上げたとき、実は私はその選曲に懐疑的でした。良く知られた名曲であり、難曲でもあります。各パート譜に書かれていることは比較的単純で、この曲を難曲たらしめているのは、むしろ音符の隙間にあります。皆さんがこの曲を3回舞台に乗せ、その度にしっかりと練習することに飽きてしまうのではないか、音泉らしい「ジュピター」は出来ないのではないか、我々としての完成度に比べ聴衆の耳が既成の「ジュピター」に慣れすぎているのでは、等と色々懸念しました。これらの懸念が的外れであったことはそれぞれの演奏会で証明済みですが、同時に、あんなに良い演奏が出来たのに、ある種の未熟さも露呈したと思います。
 音楽には、否が応でも立ち向かわねばならない試練が付きまといますが、出来る出来ないに拘わらず、これとしっかり対峙する姿勢が音泉には薄れつつあったと思います。しかも「ジュピター」で露呈した未熟さは我々でも充分に乗り越えられるものでした。これを端的に指摘したのは亡くなられた平世さんです。
 「革命」には音泉に必用な姿勢を求める素地があります。比較的に解りやすく、技術的には困難でも、感覚的には「バーゼル」に比べれば少し楽かも知れません。しかも、弦と管との絡みの中で実現します。ステップとして捉えても妥当と言えます。

 それから、何より大事なのは、やってみると案外、楽しいかも知れないということです。
ショスタコヴィッチの楽曲はとても多いので全てを知る訳ではないのですが、同年代のその他の作曲家と比べると良く耳にしてきた方ではないかと思います。でも、今この曲に対峙した時、少なくとも自分は何も知らないことを認めざるを得ない。それを解き明かして行く楽しみがあります。テクニカルな苦労ならベートーヴェンの4番や9番も同じではないでしょうか?「革命」の2楽章はきっと楽しく弾けると思いますよ。

 音泉は趣味の集いですから、楽しくあるべきだと私も考えています。その楽しさを追求するにはどうしても苦しいところも背負わねばなりません。音楽をまじめに楽しむ、と言うことは、何も苦しい練習を沢山してプロのように楽器を扱えねば駄目だ、と言うことではありません。苦しいところも全部含めてしっかりと向き合い、各人なりの方法でこれにアプローチすることが、音楽を楽しむことだと思います。その各人が集まっての音泉です。苦しみをも共有するからこそ楽しみもあるのではないかと思います。

 音楽を広義に捕らえて人間活動の一環であり、社会性の一面であり、歴史である(つまりは文化ですな)とすると、アマチュアの演奏とは常に何某かの責任放棄を伴っています。作曲家に対し、楽曲に対し、聴衆に対し、人生を賭して音楽に掛けている演奏家に対し、社会に対し、歴史に対し、そして自分自身に対し。私は必ずしも皆さんに同意を求めるものではありませんが、出来ればそれを、我々は我々なりに音楽に対峙している、と言うことで少しは補いたいと思っていますし、その思いは共有したい。ですから、音泉の運営においても常にそういう側面を意識しています。ある楽曲を演奏するからには最低限、何々だけは皆で分かち合えるくらいにならないと意味がない、と言う目標設定をしています。そして、それは連綿と続いている。メインと言われる曲も、アンコールも、デュエットも、40人からの交響曲もです。全部が連綿と繋がる中で、一つ一つの音楽に託されているものを少しでも大切にしていきたい。大切さを増したい。この思いと、監督の選曲のあり方は今のところ一致していると思います。
 
 選曲の手順は、皆さんからのリクエストに基づいて監督と私が相談して決めています。相談とは言っても、選曲は音楽監督の先権事項です。監督が気遣って相談してくれている、というところですね。反面、監督の決めたことを代表としての私が否定するとなれば、これは音楽監督の任免事項に繋がります。取り上げる楽曲に反対したからと言って、音楽監督を辞めてください、とは決して言いませんが、音楽監督からすれば同じことです。監督も相当な覚悟で選曲に臨んでいる。これを大した理由もなく駄目出しすれば、不信任と取られても仕方ないでしょう。皆さんには全く見えないところでの話ですが、音泉が民主的な運営手法をとらない以上、私も監督もそれなりの緊張関係を保ちつつ運営にあたっています。いくら明確な規則はないと言っても一つの楽団である以上、歴史的な踏襲による一定の不文律は守らねばならないと言うのが私の持論です。そうした中で、今のところ音楽監督は充分に信用出来る選曲をしていると、私は自信を持って皆さんにお伝えすることが出来ます。

以上、6項目が音泉で「革命」を取り上げる訳で、付随する事柄を少々付け加えました。言葉足らずで意味不明、理解不能、もしくは、このような考え方に対する反論、意見、何でも仰っていただけると嬉しいです。一人で考える事には限度がある。みんなで考えて参りましょう。

選曲に対する意見を始めに述べて頂いたチェロ弾き男さんには、良い機会を作っていただいたと思います。ありがとうございました。叶うならば、チェロ弾き男さんに続くコメントがあればと思ったのですが、ちょっと、言いにくいことでもあるかも知れませんね。でも、言いにくいなんてことはまるでありませんので、余計に気遣わずどんどんコメントして下さい。
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# by bassbassbassyy | 2009-10-16 00:36
2009年 10月 14日

ブラームスはお好きですか?(14)

 失業中も中々忙しくて、更新が疎かになってしまいました。009.gif
 忙しい2週間でありました。酒飲んだり、演奏会出たり(普段と変わらんか)。実は、原稿自体は出来ているんですけど、こうして、前置きと言うか、つなぎを書かなくてはならなかったりして、掲載するのも結構大変なんです。
まあ、愚痴はこれぐらいにして。
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 で、ブラームスですが、そろそろ本番も近づいて来たので、終わりにしないといけませんな。どうしようか?013.gif
 ともかく、今回は音程、バランス、テンポについて考えて見たいと思います。
 はっきり言って、私がベース弾きだから言うのですが、ブラームスはベースです。
コントラバスが一番良い。何しろ難しい(早い)パッセージがない。私でもほぼ、弾けます。1番はちょっと難しい(早いところが結構ある)。2番は少し難しい(早いところがまだある)。3番はとても素晴らしい(早く弾くところがない)。4番は素晴らしい(早く弾くところが少ししかない)。それでいて効果的、且つ格好良い。なので、みなさん、ご自分が演奏される際には、必ずコントラバスを聴きながら演奏して下さい。
何何、音程が悪い!?
大丈夫、解放弦はしっかりチューニングメーターで合わせておきます。
何何、走る!?
大丈夫、しかり付いて来てくれれば、音楽を引っ張っている様に聴こえます。
何何、間違ってる!?
大丈夫、かな?まあ、ベースってのは間違えるもんです。
何何、休んでる!?
そりゃ、休みますよ。後ろの先生だって、1から3楽章まで休んでいるんだから、我々だって休みます。
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 まあ、バカはこれくらいにして、ブラームスの交響曲を演奏する場合に大事なのは低音。これはピアノで弾いた場合の左手の動き(特に小指と親指)のことです。パッセージの展開する最初の音を補強した小指か親指で弾くのがブラームスらしい音の作り方の基本でございますな。単純な例ではハンガリーの5番のテーマの伴奏の左手。1拍目強拍は親指でしっかりと弾きますよね。鍵盤をしっかり奥まで叩きつつ圧す。何と、ブラームスさんはこの単純明快な基本が大好きです。交響曲の場合でもピアノ演奏に置き換えた場合、左手の動きとして基本を捉えると和声の動きはほぼ予想出来ます。その響きの中で自分がどんな役割を演じているのか考えれば、比較的簡単(簡単ではないけど)にツボが見出せるでしょう。これは高音だけで彩られている部分にも有効です。
和声はリズムに比べると、明確な進行を示していますし、音は取りやすく出来ています。それだけに外すと痛いのですが、これは練習すれば外さない確率は上がりますから、済む話しですね。確実に音を取ること、和声上の役割を考える上では、ピアノ的に左手を意識すること。これでブラームスサウンドは我々のものです。なんちゃって。
このことばかりに執心していると大きな間違いに遭遇することになりますが、まあ、取り敢えず、最低限、ベースが弾いているところではベースの音を聴くこと。ベースが聴こえなくなってしまったら、それは音の出し過ぎか、別のことに気を取られ過ぎているかです。気にかけるべきは、もちろんその時々の主旋律ですが、ベースが主旋律を意識している限り、ベースを越えなければ大丈夫なわけです。それで駄目になっちゃったら、ベースのせいにすれば良い。これで、音程と音量はほぼばっちり。
でも、本当にこれをすると、ブラームスって、実は静かな音楽だってことが解ります。
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 では、テンポ。
 4番で大事なのは推進性です。先に行く力。でも単純な馬力の問題ではない。むしろ、トルクの問題。直進性ではなく回転運動における軸に関わる力と作用点までの距離の問題。また、回転軸を持つ系の問題。でかおさんの領域ですね。私の説明で良くわからない場合はでかおさんに訊いて下さい。潜在的な一定の力が常に軸に働いていて、軸からの距離が運動量を決定するんだけれど、回転軸を持つ系の、例えばマテリアルの問題みたいなのも意識してみたりして、みたいな感じです。テンポっていうのは各楽章で異なるから、トルクも異なると考えて良いのですが、何れにしても相当な力がある。どんな抗力が働いても仕事量は変わらない。強力なトルクがかかっている、と言う感じの推進性です。例えば、小節線。これを越える時には常に何らかの抗力が発生している。ゆっくりしている旋律上では、しかし、淡々と歩みは変わらず進んで行きます。でも激しいところでは抗力が大きい。と、進むことが出来ない。でも、軸にかかる抗力が増強しても一定のトルクが強大に働いているので、歩みを止めることがない。抗力は打ち破られて、トルクは不変なのであります。この場合、軸を持つ系のマテリアルな問題はどうしても生じてしまう。折れてしまうようなものではないんだけれど、固いゴムと鉄とを比べると多分、鉄の方が軸の回転速度に近い時間で抗力を打ち破る。ゴムだと打ち破るまでに時間がかかる。撓るからね。CDで聴ける幾つかの良い演奏の中での、演奏の質の違いは、このマテリアルな問題なのかな。中心軸からの距離は音の大きさや激しさ。だから、この推進性がきちんと表現出来る限りにおいては、アゴーギグの範疇も自然と広がる。この推進性がもっとも表現しやすいのは、予め許容されているアゴーギグの範疇が最も狭い場合、と言うことになりますな。でも、実際のブラームスの指示はそんなに多くないし、複雑でもないのだから、ある程度のアゴーギグは期待されていると考えるべきでしょうね。推進性の意味を考えずにアゴーギグを付けると、直ぐに不自然さが前面に出てしまう。飾り的アゴーギグ。これはブラームスの音楽を駄目にしてしまう。最近はプロの演奏でもこういうのが多いですね。残念。
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 多分、トルク等と言わずに直進力で説明した方がわかりやすいんだろうけれど、直進力だと説明しにくいなぁ。
 自動車で考えましょう。
 タイヤが回っていて前進すると言うこと。ブラームスの場合の前進性は、タイヤを回す力だろう、ということです。
 常に前進しようとする力が働いています。障害や躊躇はあるけれど少しも歩みは止まらない。こんなとき、淡々と進むよりも、障害や躊躇がある方が、歩みの止まらぬ様子がよく分かる。でも、止まってしまう、後ろを向いてしまう瞬間が出来てしまうと明らかな推進生というのは感じられなくなってしまう。淀んでも、強い抵抗に合っていようとも、断固としてタイヤを回し続ける決意が全編を貫いてこその推進性というもの。それが4番にはなくてはならない。嘆息のような旋律でも、時間が止まってしまったかのような古風な教会旋法でも、常に前進している。その歩みは絶対的な力に支配されていて潜在的に物凄い力を秘めている。そんな推進性が求められている、ということですね。
これを表現するためには、きちんと拍節を理解していること、一つ一つの障害、小節線や旋律の終わりや始まり、フェルマータ等をしっかり認識して対処すること。つまり簡単に超えないこと、が大事だと思います。若干凸凹した方が推進性は表現できる、と言うことですね。だから、事前に楽譜に印を付けて、そこに来たら周りを伺い合いましょう。その所々できっと何かが起きています。これだけでもブラームスらしさが出るでしょう。
却って解らなくなっちゃったかな。テンポの問題は演奏者総体の覚悟(精神の力)の問題ですからね。
みんながそう思ってやらなくちゃ駄目なんだと思います。034.gif
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# by bassbassbassyy | 2009-10-14 00:44 | 音楽