音泉室内合奏団の食卓

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2014年 05月 06日

エルガー

3日の弦楽器有志による音泉東京事務所大自主練大会(大袈裟)の中で意識された事柄を幾つか綴ってみたいと思います。

まずは、エルガーです。序奏の部分はテンポが揺れます。そんなにわかりにくくはないのですが、油断をするとズレちゃいます。基本はアレグレットとモデラートの2つですが、ポコやモルトのストリンジェント、アチェレランド、アテンポ、また、早さとは異なりますが、ラルガメンテ、ピュウモッソなど早さにまつわる雰囲気も変化します。
車と同じで、音楽も急には止まれません。アレグロからアンダンテに変化するところでは、アンダンテの直前からブレーキをかけないとならないので、小節線を越える前に充分に様子を伺う必要があります。
ゆっくりだったテンポを元に戻す時も「そこから」ではなく、「その前」で準備呼吸があります。
ストリンジェントやアチェレランドのように早くなる時、リタルダンドのように遅くなる時は、その記号のところからみんな一緒にアクセルやブレーキを踏み始めます。この違いは私は、楽譜に何か書いておかないとごちゃごちゃになってしまいます。
また、音の強弱も、事前に全体を見てみると、フォルテシシモからピアニシシシモ(?)まであるので、その部分、部分での音量の相対性も考えつつ、全体の中での音量の絶対性にも配慮しないと、終わる前に死んでしまいます。さらに、アレグロでは1小節の中でピアニシモからフォルテまたピアニシモと、短い間に大きな変化がありますので、しっかりと表現できないといけませんね。
練習番号9番の後半から10番は何でもないのに少しわかりにくくなっています。音程に気を付けて、周囲を聴きながら、しっかりと各自が各自の役割を果たさないと、他の楽器がどうして良いかわからなくなります。10番の2小節前のチェロ・バスは大きすぎてはいけませんが、スラーの中でふにゃふにゃにならず、縦線のわかるように弾く必要があります。他のみなさんはこのチェロバスが聴ける様でなくてはなりません。
練習番号10番からはアクセント、スタッカート、テヌートと音のかたちが異なる16部音符が連なっているので、しっかりと弾き分ける必要がありますね。小節番号12番の4小節前から2小節はヴァイオリンの方にはお気の毒です。人数がいないのでキツいとは思いますが、これが貧弱だとお話にならないので、覚悟してしっかりと弾いて下さい。入りの喰いつきに気をつけるのはもちろんですが、終わりの音にはもっと気を付けて下さい。
12番はコントラバスには悪夢です。入る前の16部音符の下降形にはテヌートがついていますが、音が低くなるにつれ貧弱にならないようにしっかり弾く必要があります。
8分音符もアクセント・テヌートで音を丸くしないようにしっかり弾くとともに、決して遅くならないように頑張らねばなりません。高弦の奏でるメロディーも、ともに高貴で輝かしい響きになるようにしましょう。
14番の3小節前、ともすると低弦と高弦の息が合わなくなるので一拍1拍をお互いに意識しながら14番の高みに登って行きましょう。高弦の方は休符前の8分音符の2つ目の音が短めに終わる傾向があるようですね。15番の3小節前のPはしっかりと音量を落しましょう。
フーガは、まあ、頑張りましょう。
セカンドでは3小節目の3拍目の裏、ファーストでは5小節目の3拍目の裏、チェロ・バスでは7小節目の3拍目の裏はいずれも印刷でアップから入るような指示がありますが、これはダウンで入ります。18番の1小節前のヴァイオリン・ヴィオラの8分音符、その後のチェロ・バスの同じ8分音符の下り基調のアクセントは全てダウンです。
再現部があって、30番からフィナーレですが、このフォルテシモを大きく入り過ぎると、終わりまでもたないので、ちょっと考えましょう。やたらと大きいよりも、伸びやかに、広々とした感じで音が出せると良いかも知れません。
本当のクライマックスは32番の4小節前にありますので、力を取っておきましょう。
32番からは「軽さ」を意識して、派手なアクセルはかけませんが、全体で「前」へ持って行きましょう。
このために、是非とも32番のピアノはしっかりと音量を絞って下さい。

さて、次はベートヴェンだが、面倒くさくなって来たぞ。
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by bassbassbassyy | 2014-05-06 14:37 | 音楽
2011年 09月 10日

音符考

斎藤秀雄さんが「子供のための音楽教室」時代にK.136の冒頭を子供達のオケに何回もやり直しさせた、というお話を折につけ小澤征爾さんが仰っておられることは、ご存知の方も多いと思う。

全音符と8分音符。

何しろ「恐い」斎藤先生が無言で何回もやり直しをさせる。
きっと、恐かっただろうな、と、思う。

でも、「恐い」先生が前におられると言うことは幸いである。
自ら気が付かねばならないことがあるから、言葉では言い尽くせぬ、伝わらぬ、意味が薄れる、ことがあるから、気が付くまで繰り返されるのである。

我々はわからぬまま、気が付かぬまま、通り過ぎる。
気付く人と気付かぬ人が出るから、なお悪い。

繰り返しになるが、モーツアルトとハイドンとベートーヴェンの全音符や8分音符の有り様は同じように弾けなくてはならないが、作曲者によって、その曲によって、その曲のどこかの部位によって、一つとして同じ意味にはならない。つまり、同じに弾いてはならない。

聴く人が異なった感触を持って聴けるように演奏することは、ほとんどテクニカルな問題であって、演奏者の単なる気の持ち様だけに置き換えることは大分端折っているところがあると言わざるを得ない。気の持ち様は当然あって、その上でテクニカルに弾き分ける必要がある。

そんなことが出来るのだろうか?

やる前から出来ぬと判じてしまえば、それで終わりである。
恐い先生がいるも、いないも同じになる。

それで良いのか。

そんな考えならば、私はどこに足を向けても寝ることが出来る。
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by bassbassbassyy | 2011-09-10 00:08 | 音楽
2011年 03月 09日

虚栄心

驚いたことに、前回のブログの記事を書いた直後の2日間はアクセス数が通常の10倍くらいあった。
まあ、更新すると自動的にアクセスしたり、更新したことが表示されたりする登録をすれば、この数は、驚く数字ではないのだけど。
でも、念のために、「とあるオーケストラ」の方々でご覧になった方に申し上げるが、誰かを揶揄したくて書いたのではなく、自戒の意味を込めて書いたのである。そのことを、ここに申し上げておきます。

とは言え、人前で物申すにはきちんとした考えがなくてはならないですね。難しい。
そこで、引き続き、虚栄心について。

虚栄心から人前で誰かを誉めるのは、自分はこんなにもみなさんのことを見ていますよ、努力している人を知っていますよ、そう言う人をきちんと誉める自分は何て偉い人だろうと言うことをわかって下さいいね、と、言っているのである。
これは、どうしたって、情けない。
前回のブログで述べた団長さんは、こんな情けない方ではありません。だから、誉めた段階では、たいしたもんだ、と、感心した訳です。
それを、見習え、と言うことが問題なのですね。
この団長さんは虚栄心とは縁のない人で、どちらかと言うと、「馬鹿」がつく程の正直者、飾りのない人です。だから、ヴァイオリンの人を誉めた時も、実に気持良く、素直に受け止められた。
こういう人だから、演奏も虚心坦懐。一生懸命練習して、マエストロの指摘もきちんと楽譜に書き込んで、自分なりに消化して、後は実に素直に、ばばば、っと弾く。
でも、ばばば、っと弾くと、10回に1回くらい、おやや!、っと言うことが起こる。
配慮が足りないのだ。これに配慮があれば、実に素晴らしい演奏家なのだけれど。
でも、おやや!があっても、気持は悪くならない。団長さんの頑張りはきちんと客席にまで通じる。
こういうところ、音楽は凄いのだ。

しかし、
虚栄心の固まりみたいな人は、こう言う演奏が出来ない。
自分が可愛くて音楽をやる人は、自分で何かをやる、と言うことが出来ず、どうしても、誰かの真似事に終止してしまうので、実質感が伴わない。ばばば、と、出来ないのだ。
周りの音も、良く聴いている振りは出来るけれど、実質的にはきいていないので、タイミングを計ることは出来ても、自分自身がタイミングとなることが出来ない。
こういう人は、必ずしも悪い人ではないかも知れないが、音楽をするには、不向きである。
そこそこやれているのに、いつでも、きちんと、足りない。
そう言う人の音楽は。

塩野七生さんが、大著「ローマ人の物語」の中で、虚栄心について興味深いことを書いている。
成る程なぁ、と、思う。そして、やはり、音楽には向かないなぁ、と思う。
興味のある方はGoogleで「塩野七生」「虚栄心」とくぐってみて下さい。

悪意を持つ方で、虚栄心に満ちた方は、音楽をすべきではなく、直ぐに違うことを始めた方が良い。
何故なら、音楽ではバレてしまうからです。
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by bassbassbassyy | 2011-03-09 23:18 | 運営
2011年 01月 02日

一生懸命と本気

年頭のご挨拶に、今度の東京公演に出演するみなさんにご挨拶のメールを送りました。
当たり前の言葉で、今更ながらの「一生懸命」と「本気」を使いましたが、ここで改めて辞書を引かれる方は、まず、いないと思いますので、ちょっと、書いておこうかなぁ、と、思います。
国語の先生なら良くご存知のことと思いますが、「一生懸命」はもともと「一所懸命」から起こった言葉と言われています。比較してどっちが正しいと言うようなことはもうないような程、両方とも親しみのある言葉ですね。でも、「一所懸命」はその字の通り「一所」=「領地」を命懸けで守ることを示す言葉なので、場所や立場やものを死守するさいに使用する方が気持的にしっくりします。一方、「一生懸命」は何をするのでもともかく、命懸けであれば「一生懸命」として使って差し支えない訳です。
さて、これを踏まえて、あえて「一生懸命」を極々当たり前に使ってみました。本当は「一所懸命」を使ってみたい気持もあったのですが、この点については「その心は・・・」、お読みになったみなさんが「整え」て頂くのが宜しいかと存じます。
次に、「本気」ですが、これは本気以外の説明のしようがない言葉です。まあ、「真面目な気持」と言う説明がありますが「真面目」を辞書で引くと「本気であること」となります。
そんな訳で、辞書で引いて「本気」となる言葉が最初にありました。「真面目」「ぞっこん」「等閑」です。最後の等閑は「本気ではない」という意味です。
さて、「真面目」ですが、。元々はしきりに瞬きをする様をさしていた言葉だそうですが、これには「誠意のある」と言う意味が込められています。「等閑」は「誠意のない様子」と言うことが直ぐに浮かびますね。これは両方とも「様」から「心」を判断して指し示している言葉です。行動や様子から人の心が読み取れるとする考え方が基礎にあります。従って、そもそもの行動や様子が「本気」と受け取れないようなことでは、問題外、と言うことです。
さて、「ぞっこん」はおおまかの説によると「心底」に由来するようです。「心底より申します」と言う言い方が昔にはあった様で、「ウソ偽りのないことを言う」と言う意味と「私の言うことをきいて下さい」という意味があったのではないかと思われます。これは先の二つの例とは異なり自分の心を基に本気であることを指し示している言葉だと私は理解しました。
本気であることには、行動や様から読み取れる面と自身の心の底から顕われるという面と二つの意義があるのですが、両方とも大事なことだと思います。
私自身がそうでなくてはならないことなので、あまり人のことをとやかく言っては申し訳ないのですが、どうしても、そうであって欲しいなと思ってしまう方が見受けられる。と、言うか、人は時々そうなってしまう。私自身がそうなってしまう時がある。
でも、そう言うときはきっと、こんなブログは読まないのでしょうね。
難しいですね。
当たり前の言葉に、これだけの意味があるのは書いている私自身驚いてしまうのですが、「全て」ではないのですが「つきつめて」物事を考えることは意義のあることです。
音楽もそうです。
一つの曲もそうだと思います。
「これ」は「こうだ」と強く主張するためには、それなりの説得力を持たなければならない。
思い付きや一時の感性だけでは、どうにもならない。
ショスタコーヴィッチだってリヒャルトだって、丸山先生だってみなさんそうです。
だから、やる方も、一生懸命、本気で演奏しなきゃいけないのです。
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by bassbassbassyy | 2011-01-02 22:01 | 音楽
2010年 03月 15日

 が今年の音泉のテーマです。014.gif
音泉のこれまでの「乗り」とはちいと違う。
自省的であり、内向的です。015.gif
しかし、外向きに、積極的にこれを進めると「革命」があるわけです。031.gif
まあ、言葉並べて喜んでいるだけですが、「変」から「革命」に至る道筋で、我々はこれまでの10年間に培って来た事柄とは、繋がっているけれど、一つ、二つ、高見からの見地を持たなくてはなりません。舘野さんとの共演はそこに位置付けされています。042.gif

音楽を楽しく演奏することは我々の理想です。これを文句なしに実現したとはとても言えない状況ですが、楽しむことの個々の意味は、みなさんが感じられたと思います。その「楽しさ」の位置付けをみなさんの個々の立場から、「人間」としての立場へ想像を膨らませて考えて見るのは、悪いことではないように思うからです。

絶望は、その絶望を背負ってしまった人にしかその絶望の意味はわからない。まあ、喜びもそうなのかも知れにけれど、何となく喜びは共有出来そうじゃないですか。でも、絶望は共有出来そうとは思えない。同じような状況が作り上げた二つの絶望が、それを背負った人にとって同じように感じられるとは思えない。何故でしょう?それは、絶望にはその人の生立ちや性格が色濃く反映されるからです。喜びだってそうなんですが、こちらは生立ちや性格よりも、そのときの状況がものを言う場合が多い。
そもそも、絶望を背負った人が、その絶望を誰かと分かち合えたと考えることは稀でしょう。

その絶望を、出来れば想像して欲しい。
さらには、その絶望の先にあった希望と喜びのことまでも想像して欲しい。
音楽表現云々の問題ではありません。
でも、これから来年の東京公演までは、絶望を常に意識しないではおれない、音泉となるはずです。その先にはいつも喜びがあるとは限りませんが、その先に「喜び」があることを信じて進む日々となるはずです。015.gif

さて、「変」には、もう一つ意味があります。
「半音下」という意味です。
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by bassbassbassyy | 2010-03-15 23:02 | 音楽
2009年 09月 02日

ブラームスはお好きですか?(6)

さて、先にSNS上ででかおさんにご紹介頂いた、ブラームスのエピソード。「ブラームス回想録集①~③」(2008:音楽の友社)読みました。これはお勧めです。ブラームスを身近に感じたいなら6,000円出して買って損はないです。でかおさんのご紹介通り、気難しくて不機嫌で、人を寄せ付けないブラームスのイメージが一転します。これを読んで、私はブラームスの時代背景とその作品との間にある「そぐわないもの」の殆ど(全てではないですよ)が解消されました。003.gif

ブラームスは音楽で何を語っているのか?
これにも、大きく関係しますので、みなさんどうぞ読んでみて下さい。
さて、結論からいいます。

「ブラームスは音楽で、音楽を語っている、もしくは主張している。」

なんか、簡単過ぎる言い回しで真実みがないですね。不思議なことにこういうことは色々な評論家の先生方が仰る様に難しい言い回しをしないと、本当ではないような気になってしまう。

「ブラームスは音楽でのみ語れる事柄を表現している。」

こうすると、文章的に「?」があって、少しは本当っぽいかも。

ベートーヴェンは人間の栄光と人類の平和を音楽に託しました。ベルリオーズは人間の内なる不条理を交響曲にしました。多くの作曲家が、自分の思いや考えを音楽に託しました。ブラームスは自分の音楽そのものを音楽に託した、と思います。これは、「音楽のための音楽」と言ってしまえば同じであるはずのハイドンやモーツアルトの音楽の在り様とは異なります。ハイドンやモーツアルトの音楽は、実用音楽でした。決められた空間で、決められたお客に対して、最高の満足度を達成するのが目的です。もちろん、自分のためにも作曲しているわけですから、音楽の意味としてそれが全てではありませんが。ブラームスの場合はロマン派全盛の時代にあって、世間的に言われる思想信条、場合によっては実用性すら省みず、ただ音楽のために音楽を考えたのではないかと思うのです。どちらかと言うと、バッハの世俗音楽と言われている分類の曲に似ているかもしれません。
ただし、ブラームスの場合、ロマン派と言われる音楽を背景にこれを考えなければならないのでとてもややこしい。

例えば、先のベルリオーズですが、彼自身がアヘンを吸ってか、または、綿密に練ったか、は知りませんが、ともかく殺人の計画を立てた経験を、架空の男の見た夢の話として音楽にした、と言っています。多分、半分は本当でも、半分はウソです。ミニチュアスコアを買うと高名な学者先生の解説がついているので読んでみて下さい。私はスコアを何処かになくしてしまった。確かに夢らしい不条理な話ではありますが、一連の文脈があり具体性に富んでいます。あんな夢、見る人いますかねぇ。ロマン派文学の中ではありそうですけど、私の周りで見そうなのはひろささんくらいでしょうか。
着想の基となったのは夢でも、それを敷衍する別の話があって、それと分かるところは秘匿しながらストーリーを組み立てた、と言うのが本当のところだと思います。これは、当時のフランスロマン派文学の有り様と深い関係がありますな。
まあ、何にせよそうして曲を書いたわけですが、あの交響曲の全てがベルリオーズの考えたストーリーに合致しているわけではありません。そこにも必ず音楽のための音楽が入っていると思います。固定楽想の手法を採用しているのは音楽のための手段ですね。
誰でもそうですが、何か良いアイディアを思いつくとそれを実現したくてたまらなくなる。作曲家は何かを表すために音楽を考える時もあるでしょうが、具体的な目的もなく、ふと思いついてしまうアイディアもあるはずです。むしろ、そうしたものの方が多いかも知れません。こうしたアイディアは使わずにおれない。なんだかんだ理由をくっつけて曲にしてしまうこともあるでしょう。だから多くの作曲家が楽譜帳を持って歩いた。ふっと、湧いたアイディアを書き留めるためです。そして何年も暖める。そして機会が来たときに作品に織り込むのです。

こうしたアイディアは作曲家の生活そのものです。具体性はないかも知れないけれど作曲家が生きる中での様々がエッセンスのように凝縮してその中に入っています。もちろん思想信条が入ることもありますし、散歩の途中で見かけた乞食の女の子のことが入っているかも知れない。神への思いや、戦争や病気や、ともかく色々です。ですから、個々のディティールとその曲に託された思想信条とは、実は関係がないこともしばしばなのです。しかし、単にそれだけでは、何故そのアイディアをそこに持ってきたのかの理由が分かりません。そこにそれを持ってくるのもまた、作曲家の価値観であり、思想信条であり、センスなのです。なんか取り留めのないような話ですが、実は私たちも日常的に同じ事をやっています。人に何か抽象的なことを伝えなければならないとき、「例えばね、」で始まる文脈をよく用いますが、これは同じことです。基となる考えがきちんとしていして、「例」の選択にセンスがあれば、話の内容が相手に伝わるばかりでなく、自分の人となりまで相手につたわります。でも、「例えばね」で始まる話そのものは、そのとき相手に伝えるために蓄えていたわけではないのです。
そんな訳で、どんな曲であれ、その曲のもつ意味合いとは、実は関係のない音楽のための音楽が含まれているわけです。
ちょっと、話しが脇へ言ってしまいました。
ここらで、一区切りしておきましょう。
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by bassbassbassyy | 2009-09-02 01:02 | 音楽