音泉室内合奏団の食卓

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2014年 05月 07日

次はベートーヴェンなのだが・・・

さて、交響曲である。
だが、エルガーを書いたら面倒になって来た上に、挨拶文をまだ書いていない事を思い出した。
やれやれである。
取り敢えず、2楽章から。
3拍目の音から1拍目の音へと入る時に、5度音程をちゃんと意識しないと、暗くなりますね。
それはともかく、落ち着いたテンポではあるけれども、明確な推進力を持っていないと、だれて聴こえますね。1拍目も2拍目も決してスタカートではないのですが、そっと着地したら、ゆとりを持ちながらも快活な2拍目を弾いて、ジャンプのための3拍目、っていう感じですかね。良くわかりませんね。まあ、わかって下さい。ここの推進力を内在させたまま、もうちょいデリケートな一区切りをぬけると、32分音符、付点16分音符、32分音符、8分音符の音形が出て来ます。ついつい、大腿でやっちゃうんだけれど、テンポ自体はゆっくりなので、ちゃんと音の長さは意識しましょう。低音楽器は遅れがちになるので、しっかりみなさんと一緒にいましょう。
「B」のところで2拍子的に8分音符を弾いている方は2小節単位で考えましょう。弦楽器のボウイングではダウン、ダウン、アップ:ダウン、ダウン、アップ、となります。
さて、繰り返し記号の後ですが、ここは、みなさんピリピリと緊張して下さい。ここの緊張感は一人ひとりがキョロキョロと探りあうような緊張感です。これがクレシェンドして71小節目に入ると、全員がメダカ(イワシでも可)の群れで天敵に警戒するような緊張感に変わります。71小節のデクレシェンドはとてもとても大切なので、弦のみなさま、宜しくお願いします。弦のかたのボウイングはヴァイオリンからバスまで、:ダウン、ダウン。アップ、ダウン。アップ、アップ:で統一しましょう(変わるかもしれないけれど)。
「D」のところの16分音符は、監督から色々と言われると思っていたのですが、あまり言われませんでした(私が寝ていた可能性もありますが)。思うに、32分音符は転ばないように。F#とかBナチュラルとかの音程が悪くなりがちですね。音の縦目をつけながら、拍節感も大切に、弾きましょう。
「G」の前、7小節のところ、チェロ・バスのフォルテ、スポルトは汚くならないようにしましょう。
今夜は、ここまで。
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by bassbassbassyy | 2014-05-07 22:19
2014年 05月 06日

エルガー

3日の弦楽器有志による音泉東京事務所大自主練大会(大袈裟)の中で意識された事柄を幾つか綴ってみたいと思います。

まずは、エルガーです。序奏の部分はテンポが揺れます。そんなにわかりにくくはないのですが、油断をするとズレちゃいます。基本はアレグレットとモデラートの2つですが、ポコやモルトのストリンジェント、アチェレランド、アテンポ、また、早さとは異なりますが、ラルガメンテ、ピュウモッソなど早さにまつわる雰囲気も変化します。
車と同じで、音楽も急には止まれません。アレグロからアンダンテに変化するところでは、アンダンテの直前からブレーキをかけないとならないので、小節線を越える前に充分に様子を伺う必要があります。
ゆっくりだったテンポを元に戻す時も「そこから」ではなく、「その前」で準備呼吸があります。
ストリンジェントやアチェレランドのように早くなる時、リタルダンドのように遅くなる時は、その記号のところからみんな一緒にアクセルやブレーキを踏み始めます。この違いは私は、楽譜に何か書いておかないとごちゃごちゃになってしまいます。
また、音の強弱も、事前に全体を見てみると、フォルテシシモからピアニシシシモ(?)まであるので、その部分、部分での音量の相対性も考えつつ、全体の中での音量の絶対性にも配慮しないと、終わる前に死んでしまいます。さらに、アレグロでは1小節の中でピアニシモからフォルテまたピアニシモと、短い間に大きな変化がありますので、しっかりと表現できないといけませんね。
練習番号9番の後半から10番は何でもないのに少しわかりにくくなっています。音程に気を付けて、周囲を聴きながら、しっかりと各自が各自の役割を果たさないと、他の楽器がどうして良いかわからなくなります。10番の2小節前のチェロ・バスは大きすぎてはいけませんが、スラーの中でふにゃふにゃにならず、縦線のわかるように弾く必要があります。他のみなさんはこのチェロバスが聴ける様でなくてはなりません。
練習番号10番からはアクセント、スタッカート、テヌートと音のかたちが異なる16部音符が連なっているので、しっかりと弾き分ける必要がありますね。小節番号12番の4小節前から2小節はヴァイオリンの方にはお気の毒です。人数がいないのでキツいとは思いますが、これが貧弱だとお話にならないので、覚悟してしっかりと弾いて下さい。入りの喰いつきに気をつけるのはもちろんですが、終わりの音にはもっと気を付けて下さい。
12番はコントラバスには悪夢です。入る前の16部音符の下降形にはテヌートがついていますが、音が低くなるにつれ貧弱にならないようにしっかり弾く必要があります。
8分音符もアクセント・テヌートで音を丸くしないようにしっかり弾くとともに、決して遅くならないように頑張らねばなりません。高弦の奏でるメロディーも、ともに高貴で輝かしい響きになるようにしましょう。
14番の3小節前、ともすると低弦と高弦の息が合わなくなるので一拍1拍をお互いに意識しながら14番の高みに登って行きましょう。高弦の方は休符前の8分音符の2つ目の音が短めに終わる傾向があるようですね。15番の3小節前のPはしっかりと音量を落しましょう。
フーガは、まあ、頑張りましょう。
セカンドでは3小節目の3拍目の裏、ファーストでは5小節目の3拍目の裏、チェロ・バスでは7小節目の3拍目の裏はいずれも印刷でアップから入るような指示がありますが、これはダウンで入ります。18番の1小節前のヴァイオリン・ヴィオラの8分音符、その後のチェロ・バスの同じ8分音符の下り基調のアクセントは全てダウンです。
再現部があって、30番からフィナーレですが、このフォルテシモを大きく入り過ぎると、終わりまでもたないので、ちょっと考えましょう。やたらと大きいよりも、伸びやかに、広々とした感じで音が出せると良いかも知れません。
本当のクライマックスは32番の4小節前にありますので、力を取っておきましょう。
32番からは「軽さ」を意識して、派手なアクセルはかけませんが、全体で「前」へ持って行きましょう。
このために、是非とも32番のピアノはしっかりと音量を絞って下さい。

さて、次はベートヴェンだが、面倒くさくなって来たぞ。
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by bassbassbassyy | 2014-05-06 14:37 | 音楽
2012年 10月 09日

東京公演合宿第1号

東京公演に向けた一回目の合宿が終わりました。
なかなか、充実した合宿でしたし、朧げながら、どの方向に向かって演奏すべきかが見えて来たような気がします。
今年度、音泉が基本としている姿勢は、弦楽器を中心としたプログラム、です。
「?」と思われる方もいらっしゃると思いますが、大方の弦楽器の方はご納得頂けているかと思います。「グレート」にはオーケストラに於ける弦楽器群の役割が如実に示されていますね。先のプログラムにあったベートヴェンの「7重奏曲」は管楽器と弦楽器のアンサンブルの中で弦楽器の役割を明確に位置付けており、この基礎の発展形があらゆるオーケストラ作品に繋がっています。そんなわけで、今年度の音泉は実践的にオーケストラにおける弦楽器の役割を知るプログラムとなりました。セレナーデやアダージョもその一役であり、弦楽器群としての可能性や性能を知るためには非常に良いプログラムになっています。

さて、今回の合宿では、監督より「音程」の課題が提示されました。
これまでの音泉で、今回程明確に「音程」が課題として提示されたことはありません。「音程」の課題とはいかなる課題と捉えるべきでしょう?
単純なところで言えば「チューニング・メーター」を相手に練習することで大分解決に近付きます。これに属する方法としては、指板に印を付けるとか、弦の方に印を付けるとかの方法があります。これでは近似値に近付くのが「せいぜい」なのですが、それでも蔑ろに出来ない、とても大事なことです。
ご存知と思いますが、3音以上のオクターブ以外の和音において、個々の音程に「正しい音程」と言えるものはありません。3つ以上の異なる音程のを同時に鳴らすと必ず不協和音が生じます。この不協和音を、あくまで「聴こえ」の範疇で、如何にその時々の和音の役割に沿った響きに仕立てるかが私たちの課題です。響きと言うからには音程によって生じる和音も大事なのですが、同時に異なる楽器が出すそれぞれの音色の役割もとても大事です。そして、音量の問題も絡んできます。
音程の問題を取り上げると、このように様々な問題が芋づる式に連なってきてしまう。アマチュアの我々には手に負えない問題と考えてしまいます。だからこそ、出来ることとしての「チューニング・メーター」が大事なのです。
でも、音泉はそこから一歩踏み出したい。

音程の問題が面倒なのは、これが人間の品性に関わる問題でもあるからです。
何故かを言うと、長くてややこしくなるので省きますが、音程の問題は、その音を出す人の勇気と、真理を探究する心と、潔さと、強調性に深くかかわるからです。これらは「正義」の問題にも近い。実に厄介です。そして、このような問題を簡単に「精神論」と決めつけて蔑ろにする人もいる。これは論理の問題なんですけど、ちゃんと考えることをしないで愚かしい決めつけをする。
私たちは勇気と、真理と、潔さと、強調性を持って、今度の東京公演に臨むことに致しましょう。音泉はここで一歩踏み出したいのです。
勇気と、真理と、潔さと、強調性を発揮する上で大切なのは周りを聴き、自分を知ること、音楽を知っておくことです。
その中で音程を確かなもにしようとすれば、どれだけの勇気が必要か、どれほどの真理探究心が必要か、且つ、それらに固執せず、強い協調性の基に、潔さを持って自らを捨てられるか、仲間と強調出来るか、これらが試されていることがわかります。
合奏中の1人弾きで音程のことをガミガミ言われると、だんだん出す音が貧弱になって、酷いとトゥッティーになっても音が出せなくなることを経験した人は少なくないのでは。これは、そもそも音楽をやる上で必要な勇気とか潔さとかについて、きちんと考えて来なかったためです。そもそも勇気や潔さがないから、では多分ないでしょう。持っていても発揮出来ないのです。音楽にそんなものが必要だと思っても見なかったからです。
監督の音程に関する指摘を良く思い出して下さい。音程は、ともすると、そもそもそこにあるものだったり、与えられるものだったりと考えられ勝ちですが、実はその一瞬一瞬に皆で作り上げているものです。言い回しの問題もあって必ずしも、そのように聴こえない場合もあったとは思いますが、監督の指摘は、私たち一人ひとりが音程を作り出していることを示していたかに思えます。個々の意図によって生じるものが音程であれば、和音は我々のものです。
一瞬一瞬にどのような音を出すか。気の遠くなるような事柄ですが、音泉のみなさんなら必ずより良く出来る。まずは長い音、短くても抜きん出ている音から始めましょう。どのような音程で、どのような音色で、どのような音量で、どのようなアタックで、どのような音の終わりで、本当に果てしない課題ですが、監督に指摘された音や、楽譜から抜きん出て来る音から始めて見ましょう。この努力は必ずお客様の耳に届く努力です。
では、諦めずに頑張りましょう。次回の合宿でより良い音楽を見出せるように。

もっとも、私の最優先課題は練習中に眠くならないように、疲れを合宿前にとることです。やれやれ。
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by bassbassbassyy | 2012-10-09 22:02 | 音楽
2011年 09月 10日

音符考

斎藤秀雄さんが「子供のための音楽教室」時代にK.136の冒頭を子供達のオケに何回もやり直しさせた、というお話を折につけ小澤征爾さんが仰っておられることは、ご存知の方も多いと思う。

全音符と8分音符。

何しろ「恐い」斎藤先生が無言で何回もやり直しをさせる。
きっと、恐かっただろうな、と、思う。

でも、「恐い」先生が前におられると言うことは幸いである。
自ら気が付かねばならないことがあるから、言葉では言い尽くせぬ、伝わらぬ、意味が薄れる、ことがあるから、気が付くまで繰り返されるのである。

我々はわからぬまま、気が付かぬまま、通り過ぎる。
気付く人と気付かぬ人が出るから、なお悪い。

繰り返しになるが、モーツアルトとハイドンとベートーヴェンの全音符や8分音符の有り様は同じように弾けなくてはならないが、作曲者によって、その曲によって、その曲のどこかの部位によって、一つとして同じ意味にはならない。つまり、同じに弾いてはならない。

聴く人が異なった感触を持って聴けるように演奏することは、ほとんどテクニカルな問題であって、演奏者の単なる気の持ち様だけに置き換えることは大分端折っているところがあると言わざるを得ない。気の持ち様は当然あって、その上でテクニカルに弾き分ける必要がある。

そんなことが出来るのだろうか?

やる前から出来ぬと判じてしまえば、それで終わりである。
恐い先生がいるも、いないも同じになる。

それで良いのか。

そんな考えならば、私はどこに足を向けても寝ることが出来る。
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by bassbassbassyy | 2011-09-10 00:08 | 音楽
2010年 03月 15日

 が今年の音泉のテーマです。014.gif
音泉のこれまでの「乗り」とはちいと違う。
自省的であり、内向的です。015.gif
しかし、外向きに、積極的にこれを進めると「革命」があるわけです。031.gif
まあ、言葉並べて喜んでいるだけですが、「変」から「革命」に至る道筋で、我々はこれまでの10年間に培って来た事柄とは、繋がっているけれど、一つ、二つ、高見からの見地を持たなくてはなりません。舘野さんとの共演はそこに位置付けされています。042.gif

音楽を楽しく演奏することは我々の理想です。これを文句なしに実現したとはとても言えない状況ですが、楽しむことの個々の意味は、みなさんが感じられたと思います。その「楽しさ」の位置付けをみなさんの個々の立場から、「人間」としての立場へ想像を膨らませて考えて見るのは、悪いことではないように思うからです。

絶望は、その絶望を背負ってしまった人にしかその絶望の意味はわからない。まあ、喜びもそうなのかも知れにけれど、何となく喜びは共有出来そうじゃないですか。でも、絶望は共有出来そうとは思えない。同じような状況が作り上げた二つの絶望が、それを背負った人にとって同じように感じられるとは思えない。何故でしょう?それは、絶望にはその人の生立ちや性格が色濃く反映されるからです。喜びだってそうなんですが、こちらは生立ちや性格よりも、そのときの状況がものを言う場合が多い。
そもそも、絶望を背負った人が、その絶望を誰かと分かち合えたと考えることは稀でしょう。

その絶望を、出来れば想像して欲しい。
さらには、その絶望の先にあった希望と喜びのことまでも想像して欲しい。
音楽表現云々の問題ではありません。
でも、これから来年の東京公演までは、絶望を常に意識しないではおれない、音泉となるはずです。その先にはいつも喜びがあるとは限りませんが、その先に「喜び」があることを信じて進む日々となるはずです。015.gif

さて、「変」には、もう一つ意味があります。
「半音下」という意味です。
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by bassbassbassyy | 2010-03-15 23:02 | 音楽
2009年 10月 28日

ブラームスはお好きですか?(16)

 クラシック音楽の曲には指揮者がいないと駄目な曲と指揮者がいない方が良いかも知れない曲とがあります。こんな分類は誰もやっていないけれど。でも、現代では殆どの楽団や劇場オーケストラは音楽監督のポストに指揮者を雇い、彼のプロデュースで演奏会を計画します。なので、どの曲に指揮者が必要か必要でないかを判断してるのは多くの場合、指揮者自身です。ウィーンフィルのようなオーケストラは例外でしょう。彼らは、自分たちのプログラムと指揮者を自分たちで決めていると言っています。いずれにせよ、こう言う分類は実は当たり前に行われているわけです。ただ、普通に考えて、小編成の室内楽には指揮者はいらないと判断されているし、オーケストラには指揮者が必要と判断されている、ということです。なので、この、普通、をとって考えて見ましょう。分類する人によって結果が随分と異なるのではないかと思いますが、私は以下のように考えます。
私の場合、交通整理の問題は避けられないものの、音楽の質を1番の基準に考えます。

楽曲が何であるかは敢えて問いません。027.gif

 例えば、モーツアルト。これは断然指揮者がいない方が良い曲が多いと思います。指揮者がいることを前提として書いている曲も少ないし。交通整理の問題がなければオペラでさえ指揮は必要ないでしょう。ジュピター等は強い意思を感じますが、文学的な意味で協約的ではありませんので、指揮者によって意思が統一される方向へ向かうと変な曲に聴こえます。
 ベートーヴェンは、多くの曲で、本当を言うと出来ればいた方が良い。音の意思と言うものを具現化し、方向性を定めるには指揮者がいた方が合理的です。そして、ベートーヴェンの楽曲はそう言う曲が多い。ピアノソナタ21番「ワルトシュタイン」なんて「?」な演奏を聴くと、「上手いんだから指揮者がいれば良い演奏になるのに」、とよく思います。ピアノソナタの演奏に指揮者がいたら変だけれど、音楽自体にはそれだけの内容がある。構造自体は後期ロマン派の楽曲群に比べたら簡単ですけど、精神性との統一は実に難しく出来ているように思います。
 シューマンは絶対指揮者が必用ですね。交通整理はもとより、バランサーとしての役割も重要です。アンサンブル自体は出来なかないようにも思いますが。
 ちょっと、「例えば」が長くなってしまいましたが、つまりはアンサンブルの問題はハードルとしてはわざと低く見積もっています。だって、我々だって充分とは言えないけれどドボルザークのチェロコンチェルトをやってしまったのですからね。本当は音楽の熟練者が集まれば出来ないはずはないのです。でも、やらない。楽曲における音楽の性格に統一性を持たせて物事を効果的に主張する方が演奏するほうも、聴く方も合理的なんです。指揮者は音楽をとても素晴らしいものにしてきました。でも、これが音楽の本質の一部を歪ませてしまっている面もあるわけです。人は、なんに付け慣れてしまうからねぇ。特に、ベートーヴェン以降のロマン派といわれる音楽は音楽に文学的表現を求めますからね。意思を束ね、方向性を定め、その方向性を殊更に一方向へ向ける必用のある曲、方向性が一定ではない曲、が出来てしまう。こういう曲には指揮者が必用になるのですね。先のワルトシュタインは一人の人が弾くにはテクニカル的なものと音楽の意思の関連がとても難解なので、よっぽど強い意志を持って思い切った形での選択が出来ないと支離滅裂な演奏になってしまう。こういう事を整理できる人が必要なんです。ピアノは弾いているのは一人なのにね。ピアニストって大変ですよね。かよさんは凄いなぁ。003.gif

 さて、「ブラームスはどうなのよ?」と言うことですね。問題は。034.gif

 ブラームスは、上に書いたような意味では、指揮者がいない方が良い曲が多いと、私は思います。交響曲は全て指揮者がいない方が本来的なブラームスが出来るはずだと思うのです。1番はちょっと違いますが。こんなこと言うとS師には怒られそうだけれど。
 理由は、これまで書いたものを読み返して頂ければわかると思います。再三言うようにブラームスは音楽を音楽で語った訳ですから、演奏者がきちんと音楽を語れれば指揮者はいらないのです。取りまとめて、方向性を定めるべき意思はブラームスの音楽では音楽そのものだからです。
 でもね、演奏家が音楽を語らなくなってしまってはどうしたって指揮者は必用になるし、本当の本当に演奏家から音楽が消えてしまうと、ブラームスはもう音楽として聴けなくなってしまうのですね。郷愁に満ちたメランコリックな響きだけになってしまう。これは悲しいことです。007.gif

 私たち音泉は演奏家としては未熟な者の集まりです。充分に音楽を語れるとは思えません。(そうではない方々もおられますが。)
「だったら、指揮者が必用じゃないか!」と仰る方がおられると思いますが、その通りです。新潟では指揮者が棒を振って下さいます。
だから東京と新潟では大きな差が生じるはずです。
この差は私たちの未熟さの分になるはずです。
これを実感したい。実感して頂きたい。
 S師が新潟でも吹きたいと仰せになった時は「はちゃ〜」と思いましただよ。その後、不幸な偶然の連なりから幸運に転じて、やはり棒を取って頂くことになって、どんなにホッとしたことか。042.gif
 逆に言うと、東京公演で私たちが、どれだけ演奏家としての自覚の元に演奏出来るか、と言うことの達成度が高ければ高い程、この差は埋められるはずです。
 でも、本来、音泉が大きな楽曲を演奏するときでも指揮者をお願いしなかったのは、単に経済上の理由(要するにギャラですね)だけではなく、アマチュアであっても演奏者たる位置を自分たちなりに確認すべし、との意思があったためです。最初に交響曲を演奏したのは、第3回演奏会松本公演のモーツアルトでした。普通なら弦楽合奏で指揮者を必要とするブリテンのシンプル・シンフォニーを5人で演奏したのは第2回演奏会東京公演です。交響曲は第20回以来だと思われている方も居られるかも知れませんが、ずっと前から、実はやっているのです。演奏者が、皆同じ立場でコンサートを行う。ワルツ、ポルカだって、本当は監督をなるべく立たせないで演奏したい。まあ、これは伝統的な「弾き振り」に則っているので、そんなには拘りませんが。
 音泉はもともと、演奏者が本来的に音楽をしよう、それで演奏者としての本来の立場を取り戻そう、とする意思を含む団体なのです。これは私と監督が霊泉寺温泉のお湯に浸かりながら話し合ったことです。のぼせてなければ間違いありません。
 しかし、音泉の現状を端的に言うならば、「音楽監督頼り」です。発音から弓の使い方から、音程から、楽譜の読み方から、山菜の採り方まで(これは良いのか)、何から何まで、音楽監督の指導を頼っています。これでは、ブラームスはメランコリックな響きだけになってしまう。監督が教えてくれるのを待っていては駄目です。手取り足取りご指導を願っていては良い演奏は出来ません。自分で探求し、出来るならば自分で決める。その末に、これでどうだ、と、音楽監督に自分の音楽を託す。煮るなり焼くなり好きにしやがれべらんめい、と言うところまで自分で持っていく。この努力に勤しむ姿勢が音泉らしいブラームスに繋がると思います。017.gif
 まあ、なかなか持ってけないんですけどね。頼り癖というのはなかなか抜けない。けれど、そう言う努力をする。そういう姿勢でいることが大事。かつ、その上で、全体の調性者であり裁定者である監督の指示にはまずは従う。従った上で納得いかないときは、納得いかないと問えばよい。監督だって間違えることはあるでしょう。(キノコ採りのときは間違えないで欲しい。)人に頼っておいて完全無欠を求めてはいけません。

 音泉は、音楽する自分とは何か、というトートロジーです。単純な自分探しとは違います。これは、同時に音楽とは何か、人生とは何か、という2つの哲学に繋がります(力んで考える必要はないんですけれど)。この解を求めるために管楽器と弦楽器によるアンサンブルを10年続けている。指揮者に頼っていてはこの解は見つかりませんが、音楽監督に頼っていても同じことです。私自身も、そもそも依存的ではありましたが、ここ数年、特に依存的になってきたような気がします。色々なことが原因として言えるとは思いますが、自分自身以外の何かのせいにしたってあまり意味はありません。やってくれること、そうなっていること、そうなること、というのは流れに甘えているだけですね。流れは誰かが作っているのです。例え流れに翻弄されても、僅かな力でも、流れは自分でも作らなきゃいけない。人に認めてもらうとか、知ってもらうとか、大事ですけれど、そうじゃなくても良いから、自分なりに流れを作っていると、言えるとよいですね。何にせよ、自分の立地点は自分で決めねばなりません。そういう立場を物言わず貫いている方もちゃんとおられます。
この解の探求の上にブラームスは存在しています。ついでに言うとバーゼルも。014.gif

 さて、今年の音泉のテーマは「愛」です(久々に登場)。
最後まで言わないつもりだったけれど、種明かししちゃうと、ブラームスは愛されたかった人なんです。ブラームス・ブログの最初の方で、何となく、否定的に示唆してはあるんですけどね。まあ、だから、音泉のテーマも愛なんです(←偶然を必然のように装う例)。
 ブラームスは多くの人と同じように、お金も、地位も、名誉も必要としましたが、もっと身近で、暖かく、親しみのあるものとして、「愛」を欲していました。愛されるためには愛さねばならないことも知っていましたので、そのように努めました。自ら出向き、働き、語り、笑い、慰めました。おかげで現実的な生活の面においては様々な愛に支えられて孤独なわりに幸福だったと思います。しかし、音楽における「愛」には充分に満たされることがなかったように思います。自らは提示することしか出来ませんからね。残っている書簡にも書かれていないようなので、想像に過ぎませんが、ブラームスの必要としていた理解を示せたのはクララだけだったのではないかと思います。それは今日も同じ状況にある、と思います。今日、ブラームスを理解し、楽曲をこよなく愛している演奏は皆無に近い。思い入れのある演奏はもちろんありますけれど、思い入れと愛とは違います。または、分析し構築する。CD訊いても、解説読んでも、評論読んでも、何となく「?」がついて回る。過去から現在までの偉大な指揮者や演奏家等の実績を前にして、私がこんなことを言うのはとてもとても僭越なことですけど、そう感じてしまう。
 ブラームスの音楽は、愛されたがっている。ならば、ブラームスの音楽を愛してやまない音泉の演奏、と言うもはやれないものだろうか?それが、音楽を愛し、自分を愛し、他者を愛することに繋がるということです。でも、ドルチェじゃないですよ。私たちは自分の「愛」をもっと厳しく鍛えねばなりませんからね。016.gif

 なんか説教みたいな話も混じってしまいましたが、これは私が自分に言い聞かせていることであります。私の言葉に引っかかりを感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、勘弁してくださいね。
 私には楽器を自由に扱う技術が充分にはありません。もちろん練習はしますが、足らないことは音楽をやる上で、何を持ってしても補うことの出来ぬことです。なので、せめて、音楽をする心には必要充分な研鑽を積みたいと思っています。それが少し言葉になってしまった、と、言ったところですかね。
 それから、これまで書いてきたことは私の考えです。なるべくきちんとした根拠のあることを書いてきましたが、とりとめのない憶測も時には含まれています。どの部分は根拠があって、どの部分が適当なのかは想像してみて下さい。矛盾している箇所も幾つもあります。両極を含有する大意というものも想像してみて下さい。何度も書いていますが、みんながこれから演奏する曲についてみんなが考えて持ち寄り、曲に託しながら、納得いくように練習して演奏に活かすことが重要なのだと思います。
ブラームスのお話はこれで終わりです。
頑張りましょう。041.gif
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by bassbassbassyy | 2009-10-28 00:36 | 音楽
2009年 10月 14日

ブラームスはお好きですか?(14)

 失業中も中々忙しくて、更新が疎かになってしまいました。009.gif
 忙しい2週間でありました。酒飲んだり、演奏会出たり(普段と変わらんか)。実は、原稿自体は出来ているんですけど、こうして、前置きと言うか、つなぎを書かなくてはならなかったりして、掲載するのも結構大変なんです。
まあ、愚痴はこれぐらいにして。
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 で、ブラームスですが、そろそろ本番も近づいて来たので、終わりにしないといけませんな。どうしようか?013.gif
 ともかく、今回は音程、バランス、テンポについて考えて見たいと思います。
 はっきり言って、私がベース弾きだから言うのですが、ブラームスはベースです。
コントラバスが一番良い。何しろ難しい(早い)パッセージがない。私でもほぼ、弾けます。1番はちょっと難しい(早いところが結構ある)。2番は少し難しい(早いところがまだある)。3番はとても素晴らしい(早く弾くところがない)。4番は素晴らしい(早く弾くところが少ししかない)。それでいて効果的、且つ格好良い。なので、みなさん、ご自分が演奏される際には、必ずコントラバスを聴きながら演奏して下さい。
何何、音程が悪い!?
大丈夫、解放弦はしっかりチューニングメーターで合わせておきます。
何何、走る!?
大丈夫、しかり付いて来てくれれば、音楽を引っ張っている様に聴こえます。
何何、間違ってる!?
大丈夫、かな?まあ、ベースってのは間違えるもんです。
何何、休んでる!?
そりゃ、休みますよ。後ろの先生だって、1から3楽章まで休んでいるんだから、我々だって休みます。
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 まあ、バカはこれくらいにして、ブラームスの交響曲を演奏する場合に大事なのは低音。これはピアノで弾いた場合の左手の動き(特に小指と親指)のことです。パッセージの展開する最初の音を補強した小指か親指で弾くのがブラームスらしい音の作り方の基本でございますな。単純な例ではハンガリーの5番のテーマの伴奏の左手。1拍目強拍は親指でしっかりと弾きますよね。鍵盤をしっかり奥まで叩きつつ圧す。何と、ブラームスさんはこの単純明快な基本が大好きです。交響曲の場合でもピアノ演奏に置き換えた場合、左手の動きとして基本を捉えると和声の動きはほぼ予想出来ます。その響きの中で自分がどんな役割を演じているのか考えれば、比較的簡単(簡単ではないけど)にツボが見出せるでしょう。これは高音だけで彩られている部分にも有効です。
和声はリズムに比べると、明確な進行を示していますし、音は取りやすく出来ています。それだけに外すと痛いのですが、これは練習すれば外さない確率は上がりますから、済む話しですね。確実に音を取ること、和声上の役割を考える上では、ピアノ的に左手を意識すること。これでブラームスサウンドは我々のものです。なんちゃって。
このことばかりに執心していると大きな間違いに遭遇することになりますが、まあ、取り敢えず、最低限、ベースが弾いているところではベースの音を聴くこと。ベースが聴こえなくなってしまったら、それは音の出し過ぎか、別のことに気を取られ過ぎているかです。気にかけるべきは、もちろんその時々の主旋律ですが、ベースが主旋律を意識している限り、ベースを越えなければ大丈夫なわけです。それで駄目になっちゃったら、ベースのせいにすれば良い。これで、音程と音量はほぼばっちり。
でも、本当にこれをすると、ブラームスって、実は静かな音楽だってことが解ります。
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 では、テンポ。
 4番で大事なのは推進性です。先に行く力。でも単純な馬力の問題ではない。むしろ、トルクの問題。直進性ではなく回転運動における軸に関わる力と作用点までの距離の問題。また、回転軸を持つ系の問題。でかおさんの領域ですね。私の説明で良くわからない場合はでかおさんに訊いて下さい。潜在的な一定の力が常に軸に働いていて、軸からの距離が運動量を決定するんだけれど、回転軸を持つ系の、例えばマテリアルの問題みたいなのも意識してみたりして、みたいな感じです。テンポっていうのは各楽章で異なるから、トルクも異なると考えて良いのですが、何れにしても相当な力がある。どんな抗力が働いても仕事量は変わらない。強力なトルクがかかっている、と言う感じの推進性です。例えば、小節線。これを越える時には常に何らかの抗力が発生している。ゆっくりしている旋律上では、しかし、淡々と歩みは変わらず進んで行きます。でも激しいところでは抗力が大きい。と、進むことが出来ない。でも、軸にかかる抗力が増強しても一定のトルクが強大に働いているので、歩みを止めることがない。抗力は打ち破られて、トルクは不変なのであります。この場合、軸を持つ系のマテリアルな問題はどうしても生じてしまう。折れてしまうようなものではないんだけれど、固いゴムと鉄とを比べると多分、鉄の方が軸の回転速度に近い時間で抗力を打ち破る。ゴムだと打ち破るまでに時間がかかる。撓るからね。CDで聴ける幾つかの良い演奏の中での、演奏の質の違いは、このマテリアルな問題なのかな。中心軸からの距離は音の大きさや激しさ。だから、この推進性がきちんと表現出来る限りにおいては、アゴーギグの範疇も自然と広がる。この推進性がもっとも表現しやすいのは、予め許容されているアゴーギグの範疇が最も狭い場合、と言うことになりますな。でも、実際のブラームスの指示はそんなに多くないし、複雑でもないのだから、ある程度のアゴーギグは期待されていると考えるべきでしょうね。推進性の意味を考えずにアゴーギグを付けると、直ぐに不自然さが前面に出てしまう。飾り的アゴーギグ。これはブラームスの音楽を駄目にしてしまう。最近はプロの演奏でもこういうのが多いですね。残念。
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 多分、トルク等と言わずに直進力で説明した方がわかりやすいんだろうけれど、直進力だと説明しにくいなぁ。
 自動車で考えましょう。
 タイヤが回っていて前進すると言うこと。ブラームスの場合の前進性は、タイヤを回す力だろう、ということです。
 常に前進しようとする力が働いています。障害や躊躇はあるけれど少しも歩みは止まらない。こんなとき、淡々と進むよりも、障害や躊躇がある方が、歩みの止まらぬ様子がよく分かる。でも、止まってしまう、後ろを向いてしまう瞬間が出来てしまうと明らかな推進生というのは感じられなくなってしまう。淀んでも、強い抵抗に合っていようとも、断固としてタイヤを回し続ける決意が全編を貫いてこその推進性というもの。それが4番にはなくてはならない。嘆息のような旋律でも、時間が止まってしまったかのような古風な教会旋法でも、常に前進している。その歩みは絶対的な力に支配されていて潜在的に物凄い力を秘めている。そんな推進性が求められている、ということですね。
これを表現するためには、きちんと拍節を理解していること、一つ一つの障害、小節線や旋律の終わりや始まり、フェルマータ等をしっかり認識して対処すること。つまり簡単に超えないこと、が大事だと思います。若干凸凹した方が推進性は表現できる、と言うことですね。だから、事前に楽譜に印を付けて、そこに来たら周りを伺い合いましょう。その所々できっと何かが起きています。これだけでもブラームスらしさが出るでしょう。
却って解らなくなっちゃったかな。テンポの問題は演奏者総体の覚悟(精神の力)の問題ですからね。
みんながそう思ってやらなくちゃ駄目なんだと思います。034.gif
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by bassbassbassyy | 2009-10-14 00:44 | 音楽
2009年 07月 18日

予習の意味

アナリーゼって、まあ、アナライズする訳なんだけれども、この間、監督と温泉に入っているときに面白い話しを聞きました。
少なくとも監督の学生時代は授業でアナリーゼはやらなかったとのこと。
本当!と、思わず叫ぶ程ビックリした。学校としてどう取り上げていたか良くわからないとのこと。
う〜む。021.gif

それから、改めてアナリーゼの意味を考えて見た。
その楽曲の背景にあるものを知ることは、演奏するに当たり、本当に役に立つのか?
特に、我々アマチュアにとってどれほどの意味をなすのか?013.gif

まあ、考えるまでもなく、色々と役に立つと思い当たることが沢山あるのであるが、しかし、色々と知ったからと言って、ここにある早くて弾けないパッセージが弾けるようになる訳ではない。音符はしっかり弾けるように練習しなければならないことは変わらない。
演奏に必要な情報は譜面に書いてある。
だから、譜面から最大限情報を引き出してそれを確実に音にすることを考えて方が、我々のような練習時間のすくないアマチュアには大切なのではないか、と、言うことも出来る。

でも、それで良いのか?
音を発しなければ音楽にはならないが、しかし、音を発していただけでは、今を生きる自分としてどうなのであろう?

音の羅列がある。音を出してみる。思うに、こんな抑揚があると美しいと感じる。そのようにしてみる。気持よかった。以上。001.gif
こうして、感覚に頼って演奏することも大事なときもある。
自分の感覚ってのは確かに大事なものなのだ。

しかし、自分の感覚に頼り切って果たして、みんなが良かったと思ってくれる演奏が出来るのだろうか?ここを考えなくてはならない。また、自分の感覚にしたって、その裏付けが欲しいはずだ。何故そうするのか?自分自身が納得出来ていなければ、思い切ってやれないではないか?

アナリーゼは、それをすれば必ず良い演奏が出来るというものではない。しかし、自信をもって演奏したいならば大切になるはずなのだ。逆に言うとアナリーゼのない演奏は思い切りが良くないか、独りよがりも是とする奔放さを宿した演奏になるのだ。

とは、言ったものの、アナリーゼの結果がいつも一つの結論を出すとは限らない。余計に迷いを生じさせることもあるだろう。それでも分析は必要なのだ。ここにある楽曲ときちんとお付き合いしたいのならば、何故そうなのか、をきちんと考えておかないと、なんか、失礼なような気がする。
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そんな訳で、そろそろブラームスについて語ろうではないか。
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by bassbassbassyy | 2009-07-18 02:20 | 音楽