音泉室内合奏団の食卓

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2014年 05月 07日

次はベートーヴェンなのだが・・・

さて、交響曲である。
だが、エルガーを書いたら面倒になって来た上に、挨拶文をまだ書いていない事を思い出した。
やれやれである。
取り敢えず、2楽章から。
3拍目の音から1拍目の音へと入る時に、5度音程をちゃんと意識しないと、暗くなりますね。
それはともかく、落ち着いたテンポではあるけれども、明確な推進力を持っていないと、だれて聴こえますね。1拍目も2拍目も決してスタカートではないのですが、そっと着地したら、ゆとりを持ちながらも快活な2拍目を弾いて、ジャンプのための3拍目、っていう感じですかね。良くわかりませんね。まあ、わかって下さい。ここの推進力を内在させたまま、もうちょいデリケートな一区切りをぬけると、32分音符、付点16分音符、32分音符、8分音符の音形が出て来ます。ついつい、大腿でやっちゃうんだけれど、テンポ自体はゆっくりなので、ちゃんと音の長さは意識しましょう。低音楽器は遅れがちになるので、しっかりみなさんと一緒にいましょう。
「B」のところで2拍子的に8分音符を弾いている方は2小節単位で考えましょう。弦楽器のボウイングではダウン、ダウン、アップ:ダウン、ダウン、アップ、となります。
さて、繰り返し記号の後ですが、ここは、みなさんピリピリと緊張して下さい。ここの緊張感は一人ひとりがキョロキョロと探りあうような緊張感です。これがクレシェンドして71小節目に入ると、全員がメダカ(イワシでも可)の群れで天敵に警戒するような緊張感に変わります。71小節のデクレシェンドはとてもとても大切なので、弦のみなさま、宜しくお願いします。弦のかたのボウイングはヴァイオリンからバスまで、:ダウン、ダウン。アップ、ダウン。アップ、アップ:で統一しましょう(変わるかもしれないけれど)。
「D」のところの16分音符は、監督から色々と言われると思っていたのですが、あまり言われませんでした(私が寝ていた可能性もありますが)。思うに、32分音符は転ばないように。F#とかBナチュラルとかの音程が悪くなりがちですね。音の縦目をつけながら、拍節感も大切に、弾きましょう。
「G」の前、7小節のところ、チェロ・バスのフォルテ、スポルトは汚くならないようにしましょう。
今夜は、ここまで。
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by bassbassbassyy | 2014-05-07 22:19
2012年 10月 09日

東京公演合宿第1号

東京公演に向けた一回目の合宿が終わりました。
なかなか、充実した合宿でしたし、朧げながら、どの方向に向かって演奏すべきかが見えて来たような気がします。
今年度、音泉が基本としている姿勢は、弦楽器を中心としたプログラム、です。
「?」と思われる方もいらっしゃると思いますが、大方の弦楽器の方はご納得頂けているかと思います。「グレート」にはオーケストラに於ける弦楽器群の役割が如実に示されていますね。先のプログラムにあったベートヴェンの「7重奏曲」は管楽器と弦楽器のアンサンブルの中で弦楽器の役割を明確に位置付けており、この基礎の発展形があらゆるオーケストラ作品に繋がっています。そんなわけで、今年度の音泉は実践的にオーケストラにおける弦楽器の役割を知るプログラムとなりました。セレナーデやアダージョもその一役であり、弦楽器群としての可能性や性能を知るためには非常に良いプログラムになっています。

さて、今回の合宿では、監督より「音程」の課題が提示されました。
これまでの音泉で、今回程明確に「音程」が課題として提示されたことはありません。「音程」の課題とはいかなる課題と捉えるべきでしょう?
単純なところで言えば「チューニング・メーター」を相手に練習することで大分解決に近付きます。これに属する方法としては、指板に印を付けるとか、弦の方に印を付けるとかの方法があります。これでは近似値に近付くのが「せいぜい」なのですが、それでも蔑ろに出来ない、とても大事なことです。
ご存知と思いますが、3音以上のオクターブ以外の和音において、個々の音程に「正しい音程」と言えるものはありません。3つ以上の異なる音程のを同時に鳴らすと必ず不協和音が生じます。この不協和音を、あくまで「聴こえ」の範疇で、如何にその時々の和音の役割に沿った響きに仕立てるかが私たちの課題です。響きと言うからには音程によって生じる和音も大事なのですが、同時に異なる楽器が出すそれぞれの音色の役割もとても大事です。そして、音量の問題も絡んできます。
音程の問題を取り上げると、このように様々な問題が芋づる式に連なってきてしまう。アマチュアの我々には手に負えない問題と考えてしまいます。だからこそ、出来ることとしての「チューニング・メーター」が大事なのです。
でも、音泉はそこから一歩踏み出したい。

音程の問題が面倒なのは、これが人間の品性に関わる問題でもあるからです。
何故かを言うと、長くてややこしくなるので省きますが、音程の問題は、その音を出す人の勇気と、真理を探究する心と、潔さと、強調性に深くかかわるからです。これらは「正義」の問題にも近い。実に厄介です。そして、このような問題を簡単に「精神論」と決めつけて蔑ろにする人もいる。これは論理の問題なんですけど、ちゃんと考えることをしないで愚かしい決めつけをする。
私たちは勇気と、真理と、潔さと、強調性を持って、今度の東京公演に臨むことに致しましょう。音泉はここで一歩踏み出したいのです。
勇気と、真理と、潔さと、強調性を発揮する上で大切なのは周りを聴き、自分を知ること、音楽を知っておくことです。
その中で音程を確かなもにしようとすれば、どれだけの勇気が必要か、どれほどの真理探究心が必要か、且つ、それらに固執せず、強い協調性の基に、潔さを持って自らを捨てられるか、仲間と強調出来るか、これらが試されていることがわかります。
合奏中の1人弾きで音程のことをガミガミ言われると、だんだん出す音が貧弱になって、酷いとトゥッティーになっても音が出せなくなることを経験した人は少なくないのでは。これは、そもそも音楽をやる上で必要な勇気とか潔さとかについて、きちんと考えて来なかったためです。そもそも勇気や潔さがないから、では多分ないでしょう。持っていても発揮出来ないのです。音楽にそんなものが必要だと思っても見なかったからです。
監督の音程に関する指摘を良く思い出して下さい。音程は、ともすると、そもそもそこにあるものだったり、与えられるものだったりと考えられ勝ちですが、実はその一瞬一瞬に皆で作り上げているものです。言い回しの問題もあって必ずしも、そのように聴こえない場合もあったとは思いますが、監督の指摘は、私たち一人ひとりが音程を作り出していることを示していたかに思えます。個々の意図によって生じるものが音程であれば、和音は我々のものです。
一瞬一瞬にどのような音を出すか。気の遠くなるような事柄ですが、音泉のみなさんなら必ずより良く出来る。まずは長い音、短くても抜きん出ている音から始めましょう。どのような音程で、どのような音色で、どのような音量で、どのようなアタックで、どのような音の終わりで、本当に果てしない課題ですが、監督に指摘された音や、楽譜から抜きん出て来る音から始めて見ましょう。この努力は必ずお客様の耳に届く努力です。
では、諦めずに頑張りましょう。次回の合宿でより良い音楽を見出せるように。

もっとも、私の最優先課題は練習中に眠くならないように、疲れを合宿前にとることです。やれやれ。
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by bassbassbassyy | 2012-10-09 22:02 | 音楽
2011年 03月 09日

虚栄心

驚いたことに、前回のブログの記事を書いた直後の2日間はアクセス数が通常の10倍くらいあった。
まあ、更新すると自動的にアクセスしたり、更新したことが表示されたりする登録をすれば、この数は、驚く数字ではないのだけど。
でも、念のために、「とあるオーケストラ」の方々でご覧になった方に申し上げるが、誰かを揶揄したくて書いたのではなく、自戒の意味を込めて書いたのである。そのことを、ここに申し上げておきます。

とは言え、人前で物申すにはきちんとした考えがなくてはならないですね。難しい。
そこで、引き続き、虚栄心について。

虚栄心から人前で誰かを誉めるのは、自分はこんなにもみなさんのことを見ていますよ、努力している人を知っていますよ、そう言う人をきちんと誉める自分は何て偉い人だろうと言うことをわかって下さいいね、と、言っているのである。
これは、どうしたって、情けない。
前回のブログで述べた団長さんは、こんな情けない方ではありません。だから、誉めた段階では、たいしたもんだ、と、感心した訳です。
それを、見習え、と言うことが問題なのですね。
この団長さんは虚栄心とは縁のない人で、どちらかと言うと、「馬鹿」がつく程の正直者、飾りのない人です。だから、ヴァイオリンの人を誉めた時も、実に気持良く、素直に受け止められた。
こういう人だから、演奏も虚心坦懐。一生懸命練習して、マエストロの指摘もきちんと楽譜に書き込んで、自分なりに消化して、後は実に素直に、ばばば、っと弾く。
でも、ばばば、っと弾くと、10回に1回くらい、おやや!、っと言うことが起こる。
配慮が足りないのだ。これに配慮があれば、実に素晴らしい演奏家なのだけれど。
でも、おやや!があっても、気持は悪くならない。団長さんの頑張りはきちんと客席にまで通じる。
こういうところ、音楽は凄いのだ。

しかし、
虚栄心の固まりみたいな人は、こう言う演奏が出来ない。
自分が可愛くて音楽をやる人は、自分で何かをやる、と言うことが出来ず、どうしても、誰かの真似事に終止してしまうので、実質感が伴わない。ばばば、と、出来ないのだ。
周りの音も、良く聴いている振りは出来るけれど、実質的にはきいていないので、タイミングを計ることは出来ても、自分自身がタイミングとなることが出来ない。
こういう人は、必ずしも悪い人ではないかも知れないが、音楽をするには、不向きである。
そこそこやれているのに、いつでも、きちんと、足りない。
そう言う人の音楽は。

塩野七生さんが、大著「ローマ人の物語」の中で、虚栄心について興味深いことを書いている。
成る程なぁ、と、思う。そして、やはり、音楽には向かないなぁ、と思う。
興味のある方はGoogleで「塩野七生」「虚栄心」とくぐってみて下さい。

悪意を持つ方で、虚栄心に満ちた方は、音楽をすべきではなく、直ぐに違うことを始めた方が良い。
何故なら、音楽ではバレてしまうからです。
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by bassbassbassyy | 2011-03-09 23:18 | 運営
2011年 02月 16日

誉めて生じること

子供を育てていると、難しいと思うのが誉めることである。なので、難しく考えないために、誉めたいと思った時に誉めることにしている。でも、要注意なのがその他の兄弟である。とある状況で、弟を誉めたとき、それを見ていたお兄ちゃんがどう思うか、これには少し配慮がいる。

以前、秋の本番を翌週に控えた、とあるオケのリハに参加した時のことである。
中々思うようにならずも、少しは集中して一定の成果を見せた前半練習後の中休憩時間に、指揮台に上がった中年の団長さんが、事務連絡かと思いきや、いきなりセカンドヴァイオリンの若い女の子を誉め出した。その子は社会人2年目の公務員さんで大学生になってからヴァイオリンを始めたとのことだから、まだ楽器を持って6年。オケで弾くには充分なテクニック等持ち合わせていない。それが、とても良く練習していて上手になった、と、言うのである。目立たない子で、セカンドヴァイオリンのいつも後ろの方で弾いているから、目の悪い私には顔も良くわからない。私は耳もあまり良い方ではないので、どのぐらい上手くなったのかまるでわからないのだが、ともかく上手になったと言う。
さすが、団長さん、良く団員さんのことを見ているものだ、と感心した。
いつも、眠い目を擦ってリハに望んでいるどこぞの団長とはえらい違いである。

でも、その後が良くなかった。

彼女は仕事が終わってから毎日2〜3時間も自主練習して頑張っている。だから上手になったのだ。と団長さんは言う。確かにそれだけ頑張れば上手くなるだろう。これは良い。
みんなも、頑張って練習すれば上手くなるのだから、ちゃんと自主練習をしなさい。と団長さんは言った。これがまずかった。
ああ、これはちょっと配慮がないかな?と、思ったら、案の定、後半練習のみなさんのモチベーションは下がりっぱなしで、だらしのない練習になってしまった。田舎のオケで、団員の皆さんは純朴素朴な方が多く、それだけに団長の言葉が痛かったようだ。

全く、同じようなことが、この間、あるオケのリハで起こった。同じ結末に至った。
どこでも、いつでも同じようなことが起こるものである。

頑張って沢山練習をして上手になった方の努力はとても尊い。
それは間違っていない。
もし、これを、それなりの年齢から初めて、それなりの練習量で、それなりの努力で、それなりの先生について、それなりに勉強もして、まあ、他にも色々あるだろうけれど、頑張ると、プロになれるかも知れない。
でも、市民オケの団員は違う。
たまたま、時間が取れて、先生にもレッスン受けて、一生懸命練習した。けれど、上手く弾けない人が稀にいる。何がいけないのか、くよくよと思い悩んで、寸暇を惜しんで練習する。でも上手くならない。
もう少し多くの人は、たまたま、時間が取れて、練習するけど、先生に見てもらえず、独自の効率の悪い練習しか出来ず、上手くならない。
もっと、多くの人は、時間がなくて、それでも、何とか時間を見つけて、効率の悪い自己流の練習をして上手くならない。
そして、大部分の人は、本当に仕事に忙殺され、生活に謀殺され、疲弊したところで時間もなく、毎週のオケの練習時間が自分の楽器の練習時間だったりする。当然、上手に弾けるようになどなるわけがない。でも、音楽がやりたくて市民オケに所属して、本当にぎりぎりなんとか、オケに来る時間を作ってやってくるのである。定時に帰り上司に睨まれ、遅くに帰宅し奥さんに睨まれ、若しくは夕食を作らず子供にぶつくさ言われ、あちこちに迷惑をかけて、ぺこぺこ頭下げてやってくるのが、多くの市民オケの団員なのだ。練習して上手くなれ、と言われても練習することが出来ないのである。
それを、たまたま、時間を作ることが出来て充分に練習出来た人と比べられて、同じようにやれ、と言われれば、気持が萎えるのは当たり前である。個人練習の出来ない自分はここにいてはいけないのか?と思ったりもする。
音楽家であるマエストロやトレーナーに言われるのなら仕方ない。しかし同じ団員でもあるはずの団長から言われてしまっては、立つ瀬がなくなってしまうのである。
では、市民オケは上手くならないのか?そんなことはない。音楽はテクニックも大事だが、知っていることも大事なのである。音楽を知っている、こと、である。リハのマエストロはテクニックについても語るが、殆どは音楽の知って欲しいところを語っているのである。これが伝わらなければオケは駄目なのだ。
まあ、でも、これは、実は結構どこにでもある話しなのかも知れない。

さて、誉めることで生じるのはこれだけではない。
むしろ、こっちが原則である。
誉めた側に虚栄心があると、これは少しもののわかった人には瞬時にバレてしまう。そしてシラケる。誉められた本人がもののわかった人ならば、馬鹿にされたと思うだろう。
ところが、誉めた本人は、以外とそこに気が付かないのである。だから、必ず繰り返す。
誰かを誉めて、その人の周囲の人々のモチベーションまで高めるには、まず、誉める人間が虚心坦懐でなくてはならない。

私はなかなかその境地に達しないので、人前で誰かを誉めることがそうそう出来ない。

誉めて生じる「+」はあるけれど、きちんと考えてしたいですね。良い勉強になりました。
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by bassbassbassyy | 2011-02-16 23:36 | 音楽
2010年 06月 02日

宇宙と人

2回目の合宿が終わり、あともう少し蒸し暑くなると、本番である。
今度の軽井沢公演においてホールに響くのは宇宙と人である。
文学的表現としての無機的な宇宙は、如何様な方法であれ観測され表現される。そうした時には既に有機的な何らかの象徴である。知覚することにおいて人の介在がないものはないように、我々の知る宇宙は人の仲介した宇宙である。初めて火星の表面を見た人は、人がそれを見ることが出来るように操作した結果を見ているのだ。だから、我々の見る物は全て人に還る。我々は物を見て人を見るのだ。己を見るのである。
こんな極端な物言いを真に受ける人は随分少なくなったけれど、でも、これって本当の一部ではある。
あまりバカにしてはいけない。
必ずしも意図していたわけではないが、今度のプログラムは、そんなプログラムなのだ。
そんな、って、どんな?
と、言われれば、来てみればわかる、と言うに決まっているので、こんな問答はただの宣伝である。

「ケフェウスノート」という曲は透明な印象のある(ある意味無機的な)響きで構成されたヴィジュアル的宇宙なのだが、これがとても人間臭い。別なところにも書いたのだが、NHK特集かなんかで「宇宙」という番組を放映するならBGMにもってこいである。透明感のある響きがいかにも宇宙っぽいのだ。こんなにも、「いかにも」的に音を重ねることが出来ると言うのはやはり凄いことだと思う。聴き終えた後に20分間沈思黙考したあげく「わからん!」と言わなければならない多くの現代音楽の中で、これも現代音楽だよ、って言うのはちょっと不公平な気がするぐらい、凄いことである。でも、そこがとても人間臭い。この曲を作曲された吉松 隆さんのことは全然存じ上げないのだが(ご挨拶はしたことがあります)、色々あるとしても、根は良い人なんじゃないかなぁ、と思わせる人間臭さを感じてしまう。
「二つのヴァイオリンのための協奏曲」は科学者がコンピュータが吐き出した数字の羅列を見て「成る程、宇宙はこうなっていたのか」とつぶやく時のような宇宙である。そんな場面が本当にあるかどうかは知らないけれど。
音が響き合い、動き、脈打ち、躍動し、微動だにせず、消えて、立ち上り、覆い、掠れて、凛とし、ありとあらゆる形容を数学的な的確さで表現しているが、それは人間を表現しているのではなくて、ただ、人間は真ん中にいる、のがこの曲である。「ケフェウスノート」とは全然別の宇宙である。人間が知り得た宇宙とは、人間が作り出した宇宙である。物理学者がどんなに無はまったくの無ではないよ、と言ったってそれはそう言う無を観測と言う人間行為によって、あるいは理論という思考によって、作り出された現実であって、それ以外に表現しようがなく、確率的というのは、所詮、概念でしかない。でも、宇宙はそう言う体系の中で成立している、というところの宇宙。こんな話しよりバッハを聴いている方が余程宇宙を感じられる。でも、バッハの宇宙は、どちらかと言うと人間臭いのではなく、人間がいる、ということの音楽だと感じる。
そして、どうあっても、宇宙とは無縁的に人間的な音楽としてのブラームス。心の音楽。心情の音楽。でも感情ではないし、感傷でもない。音楽による思考。音楽による感情。音楽による心情。
ブラームスには無機的であるところの概念は最初からない。私が見たから、そこに森があるのだ。そのくらい、人間なブラームスの交響曲は、徹底的に宇宙的ではない。土。道。街。家。畑。橋。城。自然が大好きで、アルプスが大好きで、重いお腹でとろとろ登る山道が大好きなブラームスは、自然に感動し、アルプスに畏敬し、そう感じながら、山道に苦しむ人間が(自分が)大好きだったのだ。
ブラームスの視点は最後に現われるけれど、私は、大地から見上げているような気になる。
象徴的な2つの宇宙とその狭間の、今ここにはない無数の宇宙を観測し、気が付いたら、恐ろしい程のズームアップで地上から宇宙を見上げている自分を見るのだ。
そんな、演奏会に出来たら、どんなに素晴らしいことだろう。
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by bassbassbassyy | 2010-06-02 23:16 | 音楽
2010年 04月 17日

を、張り替えに出しました。
弓の毛です。
実に3年振り。014.gif
すごいでしょー。

つるつるの毛で良く数々の演奏会を乗り切った!
と、思われたあなた、甘いですよ。

つるつるの弓の毛は実は便利である。
「これはダメだ!」002.gif
と思った曲に望む時は松ヤニを塗らなければ良いのである。

例えば、S師の振る某Aオケでフィンガルをやった時等、高い音&早いパッセージの弾けない私はつるつる弓で臨んだものである。
少しは音が出るから、本気で熱演できるし、それでいて周りに迷惑をかけず、ヴィジュアル系として思う存分働けるのである。003.gif

さて、冗談はこれくらいにして、
弓の張り替えでお金がなくなってしまった。
合宿に行けない。困った。042.gif
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by bassbassbassyy | 2010-04-17 22:20 | 音楽
2010年 03月 15日

 が今年の音泉のテーマです。014.gif
音泉のこれまでの「乗り」とはちいと違う。
自省的であり、内向的です。015.gif
しかし、外向きに、積極的にこれを進めると「革命」があるわけです。031.gif
まあ、言葉並べて喜んでいるだけですが、「変」から「革命」に至る道筋で、我々はこれまでの10年間に培って来た事柄とは、繋がっているけれど、一つ、二つ、高見からの見地を持たなくてはなりません。舘野さんとの共演はそこに位置付けされています。042.gif

音楽を楽しく演奏することは我々の理想です。これを文句なしに実現したとはとても言えない状況ですが、楽しむことの個々の意味は、みなさんが感じられたと思います。その「楽しさ」の位置付けをみなさんの個々の立場から、「人間」としての立場へ想像を膨らませて考えて見るのは、悪いことではないように思うからです。

絶望は、その絶望を背負ってしまった人にしかその絶望の意味はわからない。まあ、喜びもそうなのかも知れにけれど、何となく喜びは共有出来そうじゃないですか。でも、絶望は共有出来そうとは思えない。同じような状況が作り上げた二つの絶望が、それを背負った人にとって同じように感じられるとは思えない。何故でしょう?それは、絶望にはその人の生立ちや性格が色濃く反映されるからです。喜びだってそうなんですが、こちらは生立ちや性格よりも、そのときの状況がものを言う場合が多い。
そもそも、絶望を背負った人が、その絶望を誰かと分かち合えたと考えることは稀でしょう。

その絶望を、出来れば想像して欲しい。
さらには、その絶望の先にあった希望と喜びのことまでも想像して欲しい。
音楽表現云々の問題ではありません。
でも、これから来年の東京公演までは、絶望を常に意識しないではおれない、音泉となるはずです。その先にはいつも喜びがあるとは限りませんが、その先に「喜び」があることを信じて進む日々となるはずです。015.gif

さて、「変」には、もう一つ意味があります。
「半音下」という意味です。
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by bassbassbassyy | 2010-03-15 23:02 | 音楽
2009年 12月 31日

あけましておめでとうございます

東京公演後引っ越しやらなにやらとばたばたとしてしまい、ご無沙汰してしまいました。失礼致しました。
さて、昨年の音泉のテーマは「愛」でした。テーマと言っても特別に何かをするわけでもなかったのですが、振り返って見るとなかなか有意義なテーマであったと思います。その有意の中身についてはそれぞれで考えて頂ければ良いのですが、私なりに感じたことを一つだけ述べさせて頂くとします。
「愛」の尊さ、はかなさ、力強さはたとえ漠然としたものであれ誰もが感じているところのものでありますが、これはベクトルであって、その真に大切なところはそれが起こるところと、方向性である、ということです。このことには意外と誰もが気がつかない。詳細に言うと面倒になりますので、詳しくは申しませんが、この一年の音泉の活動から、「愛」を通してそんなことを強く感じました。
みなさんは、いかがでしょう。
さて、この一年を踏まえて、これからの一年のテーマを考えました。
今年のテーマはズバリ「変」です。
予め言っておきますが「変態」の「変」ではありません。Tさんは喜ばないように。
この一年の間に私は音泉のメンバーで必至に自分を変えようとする幾人かの方々の姿を何回となく垣間見ました。必至と言うのはいささか誇大に過ぎるかも知れませんが、これからのために自分が変わらなければならない、という決意がにじみ出るような姿がそこには感じられました。まあ、皆さん良いお年なので変わると言うことの大変さは十分身にしみているでしょうし、今更何を、という気持ちも起こる事ではあります。でも、そうやってより良くあろうとする姿はとても尊い。
比べて、変化を恐れて身構えている姿はあまり格好良くない。
残念なことに、変えられない自分に、無理に正当性をこじつけて、結果、醜い姿をさらしてしまった方もお見受けしました。時には自分自身もそうであったかも知れません。
音泉も変わることを恐れてはいけない。信念を持って良いとするところは貫くけれども、そのために変わらなければならないところは変えていくべきだと思うのです。
まあ、実際は何を変えるかなんてわからないんですけど、気持ちだけでもそんなつもりでおれたら良いな、と、思います。
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by bassbassbassyy | 2009-12-31 23:01 | 運営
2009年 10月 28日

ブラームスはお好きですか?(16)

 クラシック音楽の曲には指揮者がいないと駄目な曲と指揮者がいない方が良いかも知れない曲とがあります。こんな分類は誰もやっていないけれど。でも、現代では殆どの楽団や劇場オーケストラは音楽監督のポストに指揮者を雇い、彼のプロデュースで演奏会を計画します。なので、どの曲に指揮者が必要か必要でないかを判断してるのは多くの場合、指揮者自身です。ウィーンフィルのようなオーケストラは例外でしょう。彼らは、自分たちのプログラムと指揮者を自分たちで決めていると言っています。いずれにせよ、こう言う分類は実は当たり前に行われているわけです。ただ、普通に考えて、小編成の室内楽には指揮者はいらないと判断されているし、オーケストラには指揮者が必要と判断されている、ということです。なので、この、普通、をとって考えて見ましょう。分類する人によって結果が随分と異なるのではないかと思いますが、私は以下のように考えます。
私の場合、交通整理の問題は避けられないものの、音楽の質を1番の基準に考えます。

楽曲が何であるかは敢えて問いません。027.gif

 例えば、モーツアルト。これは断然指揮者がいない方が良い曲が多いと思います。指揮者がいることを前提として書いている曲も少ないし。交通整理の問題がなければオペラでさえ指揮は必要ないでしょう。ジュピター等は強い意思を感じますが、文学的な意味で協約的ではありませんので、指揮者によって意思が統一される方向へ向かうと変な曲に聴こえます。
 ベートーヴェンは、多くの曲で、本当を言うと出来ればいた方が良い。音の意思と言うものを具現化し、方向性を定めるには指揮者がいた方が合理的です。そして、ベートーヴェンの楽曲はそう言う曲が多い。ピアノソナタ21番「ワルトシュタイン」なんて「?」な演奏を聴くと、「上手いんだから指揮者がいれば良い演奏になるのに」、とよく思います。ピアノソナタの演奏に指揮者がいたら変だけれど、音楽自体にはそれだけの内容がある。構造自体は後期ロマン派の楽曲群に比べたら簡単ですけど、精神性との統一は実に難しく出来ているように思います。
 シューマンは絶対指揮者が必用ですね。交通整理はもとより、バランサーとしての役割も重要です。アンサンブル自体は出来なかないようにも思いますが。
 ちょっと、「例えば」が長くなってしまいましたが、つまりはアンサンブルの問題はハードルとしてはわざと低く見積もっています。だって、我々だって充分とは言えないけれどドボルザークのチェロコンチェルトをやってしまったのですからね。本当は音楽の熟練者が集まれば出来ないはずはないのです。でも、やらない。楽曲における音楽の性格に統一性を持たせて物事を効果的に主張する方が演奏するほうも、聴く方も合理的なんです。指揮者は音楽をとても素晴らしいものにしてきました。でも、これが音楽の本質の一部を歪ませてしまっている面もあるわけです。人は、なんに付け慣れてしまうからねぇ。特に、ベートーヴェン以降のロマン派といわれる音楽は音楽に文学的表現を求めますからね。意思を束ね、方向性を定め、その方向性を殊更に一方向へ向ける必用のある曲、方向性が一定ではない曲、が出来てしまう。こういう曲には指揮者が必用になるのですね。先のワルトシュタインは一人の人が弾くにはテクニカル的なものと音楽の意思の関連がとても難解なので、よっぽど強い意志を持って思い切った形での選択が出来ないと支離滅裂な演奏になってしまう。こういう事を整理できる人が必要なんです。ピアノは弾いているのは一人なのにね。ピアニストって大変ですよね。かよさんは凄いなぁ。003.gif

 さて、「ブラームスはどうなのよ?」と言うことですね。問題は。034.gif

 ブラームスは、上に書いたような意味では、指揮者がいない方が良い曲が多いと、私は思います。交響曲は全て指揮者がいない方が本来的なブラームスが出来るはずだと思うのです。1番はちょっと違いますが。こんなこと言うとS師には怒られそうだけれど。
 理由は、これまで書いたものを読み返して頂ければわかると思います。再三言うようにブラームスは音楽を音楽で語った訳ですから、演奏者がきちんと音楽を語れれば指揮者はいらないのです。取りまとめて、方向性を定めるべき意思はブラームスの音楽では音楽そのものだからです。
 でもね、演奏家が音楽を語らなくなってしまってはどうしたって指揮者は必用になるし、本当の本当に演奏家から音楽が消えてしまうと、ブラームスはもう音楽として聴けなくなってしまうのですね。郷愁に満ちたメランコリックな響きだけになってしまう。これは悲しいことです。007.gif

 私たち音泉は演奏家としては未熟な者の集まりです。充分に音楽を語れるとは思えません。(そうではない方々もおられますが。)
「だったら、指揮者が必用じゃないか!」と仰る方がおられると思いますが、その通りです。新潟では指揮者が棒を振って下さいます。
だから東京と新潟では大きな差が生じるはずです。
この差は私たちの未熟さの分になるはずです。
これを実感したい。実感して頂きたい。
 S師が新潟でも吹きたいと仰せになった時は「はちゃ〜」と思いましただよ。その後、不幸な偶然の連なりから幸運に転じて、やはり棒を取って頂くことになって、どんなにホッとしたことか。042.gif
 逆に言うと、東京公演で私たちが、どれだけ演奏家としての自覚の元に演奏出来るか、と言うことの達成度が高ければ高い程、この差は埋められるはずです。
 でも、本来、音泉が大きな楽曲を演奏するときでも指揮者をお願いしなかったのは、単に経済上の理由(要するにギャラですね)だけではなく、アマチュアであっても演奏者たる位置を自分たちなりに確認すべし、との意思があったためです。最初に交響曲を演奏したのは、第3回演奏会松本公演のモーツアルトでした。普通なら弦楽合奏で指揮者を必要とするブリテンのシンプル・シンフォニーを5人で演奏したのは第2回演奏会東京公演です。交響曲は第20回以来だと思われている方も居られるかも知れませんが、ずっと前から、実はやっているのです。演奏者が、皆同じ立場でコンサートを行う。ワルツ、ポルカだって、本当は監督をなるべく立たせないで演奏したい。まあ、これは伝統的な「弾き振り」に則っているので、そんなには拘りませんが。
 音泉はもともと、演奏者が本来的に音楽をしよう、それで演奏者としての本来の立場を取り戻そう、とする意思を含む団体なのです。これは私と監督が霊泉寺温泉のお湯に浸かりながら話し合ったことです。のぼせてなければ間違いありません。
 しかし、音泉の現状を端的に言うならば、「音楽監督頼り」です。発音から弓の使い方から、音程から、楽譜の読み方から、山菜の採り方まで(これは良いのか)、何から何まで、音楽監督の指導を頼っています。これでは、ブラームスはメランコリックな響きだけになってしまう。監督が教えてくれるのを待っていては駄目です。手取り足取りご指導を願っていては良い演奏は出来ません。自分で探求し、出来るならば自分で決める。その末に、これでどうだ、と、音楽監督に自分の音楽を託す。煮るなり焼くなり好きにしやがれべらんめい、と言うところまで自分で持っていく。この努力に勤しむ姿勢が音泉らしいブラームスに繋がると思います。017.gif
 まあ、なかなか持ってけないんですけどね。頼り癖というのはなかなか抜けない。けれど、そう言う努力をする。そういう姿勢でいることが大事。かつ、その上で、全体の調性者であり裁定者である監督の指示にはまずは従う。従った上で納得いかないときは、納得いかないと問えばよい。監督だって間違えることはあるでしょう。(キノコ採りのときは間違えないで欲しい。)人に頼っておいて完全無欠を求めてはいけません。

 音泉は、音楽する自分とは何か、というトートロジーです。単純な自分探しとは違います。これは、同時に音楽とは何か、人生とは何か、という2つの哲学に繋がります(力んで考える必要はないんですけれど)。この解を求めるために管楽器と弦楽器によるアンサンブルを10年続けている。指揮者に頼っていてはこの解は見つかりませんが、音楽監督に頼っていても同じことです。私自身も、そもそも依存的ではありましたが、ここ数年、特に依存的になってきたような気がします。色々なことが原因として言えるとは思いますが、自分自身以外の何かのせいにしたってあまり意味はありません。やってくれること、そうなっていること、そうなること、というのは流れに甘えているだけですね。流れは誰かが作っているのです。例え流れに翻弄されても、僅かな力でも、流れは自分でも作らなきゃいけない。人に認めてもらうとか、知ってもらうとか、大事ですけれど、そうじゃなくても良いから、自分なりに流れを作っていると、言えるとよいですね。何にせよ、自分の立地点は自分で決めねばなりません。そういう立場を物言わず貫いている方もちゃんとおられます。
この解の探求の上にブラームスは存在しています。ついでに言うとバーゼルも。014.gif

 さて、今年の音泉のテーマは「愛」です(久々に登場)。
最後まで言わないつもりだったけれど、種明かししちゃうと、ブラームスは愛されたかった人なんです。ブラームス・ブログの最初の方で、何となく、否定的に示唆してはあるんですけどね。まあ、だから、音泉のテーマも愛なんです(←偶然を必然のように装う例)。
 ブラームスは多くの人と同じように、お金も、地位も、名誉も必要としましたが、もっと身近で、暖かく、親しみのあるものとして、「愛」を欲していました。愛されるためには愛さねばならないことも知っていましたので、そのように努めました。自ら出向き、働き、語り、笑い、慰めました。おかげで現実的な生活の面においては様々な愛に支えられて孤独なわりに幸福だったと思います。しかし、音楽における「愛」には充分に満たされることがなかったように思います。自らは提示することしか出来ませんからね。残っている書簡にも書かれていないようなので、想像に過ぎませんが、ブラームスの必要としていた理解を示せたのはクララだけだったのではないかと思います。それは今日も同じ状況にある、と思います。今日、ブラームスを理解し、楽曲をこよなく愛している演奏は皆無に近い。思い入れのある演奏はもちろんありますけれど、思い入れと愛とは違います。または、分析し構築する。CD訊いても、解説読んでも、評論読んでも、何となく「?」がついて回る。過去から現在までの偉大な指揮者や演奏家等の実績を前にして、私がこんなことを言うのはとてもとても僭越なことですけど、そう感じてしまう。
 ブラームスの音楽は、愛されたがっている。ならば、ブラームスの音楽を愛してやまない音泉の演奏、と言うもはやれないものだろうか?それが、音楽を愛し、自分を愛し、他者を愛することに繋がるということです。でも、ドルチェじゃないですよ。私たちは自分の「愛」をもっと厳しく鍛えねばなりませんからね。016.gif

 なんか説教みたいな話も混じってしまいましたが、これは私が自分に言い聞かせていることであります。私の言葉に引っかかりを感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、勘弁してくださいね。
 私には楽器を自由に扱う技術が充分にはありません。もちろん練習はしますが、足らないことは音楽をやる上で、何を持ってしても補うことの出来ぬことです。なので、せめて、音楽をする心には必要充分な研鑽を積みたいと思っています。それが少し言葉になってしまった、と、言ったところですかね。
 それから、これまで書いてきたことは私の考えです。なるべくきちんとした根拠のあることを書いてきましたが、とりとめのない憶測も時には含まれています。どの部分は根拠があって、どの部分が適当なのかは想像してみて下さい。矛盾している箇所も幾つもあります。両極を含有する大意というものも想像してみて下さい。何度も書いていますが、みんながこれから演奏する曲についてみんなが考えて持ち寄り、曲に託しながら、納得いくように練習して演奏に活かすことが重要なのだと思います。
ブラームスのお話はこれで終わりです。
頑張りましょう。041.gif
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by bassbassbassyy | 2009-10-28 00:36 | 音楽
2009年 09月 21日

ブラームスはお好きですか?(10)

 ブラームスの人と歴史についてかなり長々と考えてきましたが、これが交響曲にどう影響しているのか、これを考えることで、演奏上なにが変わってくるのか、そこらへんに話しを持ってかないと、脱線したまま終わっちゃいそうなので、そろそろ音楽に話しを戻します。でも、”見えてくる”のはまだちょっと先になります。037.gif

 ロマン派の多くの作曲家は自らの理念を現世との関係を持ちながらも一歩か二歩、場合によってはブルックナーのようにまるで関係ないと思われるところまで進ませて、音楽に託す傾向があります。過去であれ未来であれ、もしくは宇宙であれ、現世と連なりながらも現世とは異なる理想(反理想)世界を音楽に託すわけです。こう書くと分かりにくいのですが、要するに、現実の出来事をヒントに物語の世界を作り上げてそれを音楽にするわけです。
 例えば、国民学派のスメタナについて考えても、「我が祖国」のボヘミアは民族自立に燃え立つ当時の現状のボヘミアではなく、ボヘミアの自然とその自然の中で生活する人々を描いています。その描写は社会的な性格のものではなく、ボヘミアの自然と人との不変的な関係性にある一種の理想郷です。そうした理想郷的「我が祖国」だからこそ第2の「国歌」たるを得るわけです。
 悲劇的な意味合いでは、例えばマーラーなんかも同じことです。常に自分探しをしなければならず、立地点としたいはずのユダヤの血は社会的差別に会い、そこに安住することが出来ない。この現実に対する心の葛藤をイメージしたものが曲に宿る。メンデルスゾーンやシューマン、良く知られているロマン派の音楽家は誰もがそうした傾向を持っています。
 しかし、ブラームスは交響曲に音楽を託しているので、現世とも、理念とも、そもそもの隔たりがあります。何度も言うようですが、そこには意識的には現れ得ない、人生観や生活観が滲み出るのみです。そこでブラームスが作曲した交響曲に対して大切にしなければならないのは、音楽の背景となる理念や物語性ではなく、メロディーや構築性、そして、そこに生み出される音「そのもの」だろう、と言うことです。それを素直に探求することでまた、滲み出ている人生観や生活観が表現されると考えられるわけです。
 でも、こういうことも言えると思います。物語性が欠けているのなら、音楽としての構築性は何のためにあるのか?と。
 以前から述べているとおり、音楽の構築性は、空間と時間の両方を人の心に創造し、そので何かしらが行われる様を提供する場であります。時空世界と物語がなくて、何のための構築性か?
まずは、このことを知るために、あらためて形式について考えて見ます。

 ベートーヴェンが荘厳で緻密なしっかりとした建物みたいなソナタ形式を用いたのは、そこに庭や村や森の背景をくっつけて一つの城下町を作るためです。城下町には色々な人が住み生き生きと活動しています。領主もまた、悪い領主であれ、良い領主であれ、城下の人々とまみえながら生活しています。そこに物語が生まれた。狭苦しい制約ばかりの生活を強いられているのは、この城下では領主領民共々で、圧力は「外圧」です。共に手をとり、勝ち得た自由を喜びを持って掲げました。この曲が「運命」なわけです。別に領主、領民でなくても構いません。城を寺や、役所や会社に例えたって何ら問題はありません。ともかく、人が社会的に生活するくらいの広がりのある空間です。ソナタ形式は人の心に時間的経過を含む広大な空間を作ることが出来ます。それ自体が物語的要素を持っていますが、交響曲では、そこにロンドやスケルツォ等の別の形式をくっつけて、物語を、より広く、深いものに仕上げているのです。
 ベートーヴェンはロマン派の作曲家ではありませんが、ロマン派の作曲家に必要な空間作りの技法は殆ど全て彼の技法に拠ります。後の作曲家はそれを応用することになりました。ソナタ形式を用いることで人の心に音楽のための空間が出来ることを、いわば「発見」し、その作り方を整えたのがベートーヴェンであったわけです。
 ソナタ形式の最も重要な効果は音楽の存在感を醸し出すことです。ソナタ形式は文章で言えば「起承転結」。これはその他の形式にも言える事ですが、ソナタ形式の存在感は格別です。例えば循環形式は一つのまたは複数の旋律がその他のものの間に繰り返し垣間見られることで、音楽を印象付けますが、主題となる旋律や流れそのものは印象的ですが、全体としての存在感には欠けるものがあります。有名なところではサンサーンスのオルガン付きがありますが、どうでしょう?存在感がありますでしょうか?印象的ではありますが。
 ロンド形式はどうでしょう。これも、比較的単純な構造で基本的には二つの旋律が一つの別の旋律を挟んで繰り返されます。速いテンポの躍動的な旋律が繰り返されることで爆発的な高揚感があります。ベートーヴェンの第7交響曲の4楽章はまさに興奮しますね。でも、存在感は今一つではないでしょうか。循環形式もロンド形式も、この応用がジャズです。ブルースは一定のコード進行によって支えられている一つのテーマを何十回も繰り返すことで演奏されています。ブルースの曲は何千とあるのに、コード進行の型は一つです。たった12小節の繰り返しが、世界中で多くの人々を魅了しているのです。こうした、比較的な単純な作りの音楽は、もとはどこの民俗音楽でも行われていることで、人の心は「繰り返し」によって何らかの高揚感を生む、ということが利用されているわけです。クラシックではシャコンヌやパッサカリアも同じですね。

 ソナタ形式は序奏の後、異なる二つの旋律が提示され、それらが変奏され、再現され、終結します。特に大事なのは提示された旋律が変奏される際に大きな変化を感じる調性に移行することと、再現される際には二つの旋律(主に第2主題が)が調性も(第1主題に)より近い関係に置き換えられ、この二つが融和することです。当然第1主題は変奏されながらも何度も繰り返されるので非常に印象的になりますが、第2主題もまた印象的であり、再現されたときには第1主題に寄り添ってこれを支えて奥行きを醸し出します。限られた時間の中で旋律が繰り返され変奏し、融和することで空間的な広がりと時間的経緯を印象付けるわけです。さらに、終結部において、主調は守りながら(守られないこともたまにあります)比較的自由に第1主題や第2主題、他の旋律を様々な形で綾なす様に繰り広げ終結させることで、だめ押しする(ベートーヴェンはここが得意)。他の形式に比べ圧倒的に存在感があるのは空間的な広がりと時間的経緯が印象づけられるからです。また、再現部で「融和」すると言う事柄はドイツ観念論的な思考方法に近いものがあります。対立する概念(第1主題と第2主題)が様々に精査(変奏)された後に止揚(アウフヘーベン)する。ソナタ形式はドイツ人の思考法、19世紀の世界を代表する考え方の一つと同じような方法で現せられているわけです。ドイツ人にとっては音楽と言葉を同じ方法で考えることが出来たわけです。
 得意になっちゃいますよね。音楽は自分たちのものだと思うでしょう。
 ベートーヴェン自身、ソナタ形式の基本的なお約束事については少しづつ、ちょっと変えちゃえ、と変形させています。ブラームスの頃には色々な変形が行われて、逆にソナタ形式の効果が薄れてしまうものも沢山作られていました。今日、良く聴かれる曲はその後の淘汰に勝った音楽と言えますね。

ちょと、長くなったので、回を分けます。
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by bassbassbassyy | 2009-09-21 02:00 | 音楽