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2014年 05月 07日

次はベートーヴェンなのだが・・・

さて、交響曲である。
だが、エルガーを書いたら面倒になって来た上に、挨拶文をまだ書いていない事を思い出した。
やれやれである。
取り敢えず、2楽章から。
3拍目の音から1拍目の音へと入る時に、5度音程をちゃんと意識しないと、暗くなりますね。
それはともかく、落ち着いたテンポではあるけれども、明確な推進力を持っていないと、だれて聴こえますね。1拍目も2拍目も決してスタカートではないのですが、そっと着地したら、ゆとりを持ちながらも快活な2拍目を弾いて、ジャンプのための3拍目、っていう感じですかね。良くわかりませんね。まあ、わかって下さい。ここの推進力を内在させたまま、もうちょいデリケートな一区切りをぬけると、32分音符、付点16分音符、32分音符、8分音符の音形が出て来ます。ついつい、大腿でやっちゃうんだけれど、テンポ自体はゆっくりなので、ちゃんと音の長さは意識しましょう。低音楽器は遅れがちになるので、しっかりみなさんと一緒にいましょう。
「B」のところで2拍子的に8分音符を弾いている方は2小節単位で考えましょう。弦楽器のボウイングではダウン、ダウン、アップ:ダウン、ダウン、アップ、となります。
さて、繰り返し記号の後ですが、ここは、みなさんピリピリと緊張して下さい。ここの緊張感は一人ひとりがキョロキョロと探りあうような緊張感です。これがクレシェンドして71小節目に入ると、全員がメダカ(イワシでも可)の群れで天敵に警戒するような緊張感に変わります。71小節のデクレシェンドはとてもとても大切なので、弦のみなさま、宜しくお願いします。弦のかたのボウイングはヴァイオリンからバスまで、:ダウン、ダウン。アップ、ダウン。アップ、アップ:で統一しましょう(変わるかもしれないけれど)。
「D」のところの16分音符は、監督から色々と言われると思っていたのですが、あまり言われませんでした(私が寝ていた可能性もありますが)。思うに、32分音符は転ばないように。F#とかBナチュラルとかの音程が悪くなりがちですね。音の縦目をつけながら、拍節感も大切に、弾きましょう。
「G」の前、7小節のところ、チェロ・バスのフォルテ、スポルトは汚くならないようにしましょう。
今夜は、ここまで。
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by bassbassbassyy | 2014-05-07 22:19
2014年 05月 06日

エルガー

3日の弦楽器有志による音泉東京事務所大自主練大会(大袈裟)の中で意識された事柄を幾つか綴ってみたいと思います。

まずは、エルガーです。序奏の部分はテンポが揺れます。そんなにわかりにくくはないのですが、油断をするとズレちゃいます。基本はアレグレットとモデラートの2つですが、ポコやモルトのストリンジェント、アチェレランド、アテンポ、また、早さとは異なりますが、ラルガメンテ、ピュウモッソなど早さにまつわる雰囲気も変化します。
車と同じで、音楽も急には止まれません。アレグロからアンダンテに変化するところでは、アンダンテの直前からブレーキをかけないとならないので、小節線を越える前に充分に様子を伺う必要があります。
ゆっくりだったテンポを元に戻す時も「そこから」ではなく、「その前」で準備呼吸があります。
ストリンジェントやアチェレランドのように早くなる時、リタルダンドのように遅くなる時は、その記号のところからみんな一緒にアクセルやブレーキを踏み始めます。この違いは私は、楽譜に何か書いておかないとごちゃごちゃになってしまいます。
また、音の強弱も、事前に全体を見てみると、フォルテシシモからピアニシシシモ(?)まであるので、その部分、部分での音量の相対性も考えつつ、全体の中での音量の絶対性にも配慮しないと、終わる前に死んでしまいます。さらに、アレグロでは1小節の中でピアニシモからフォルテまたピアニシモと、短い間に大きな変化がありますので、しっかりと表現できないといけませんね。
練習番号9番の後半から10番は何でもないのに少しわかりにくくなっています。音程に気を付けて、周囲を聴きながら、しっかりと各自が各自の役割を果たさないと、他の楽器がどうして良いかわからなくなります。10番の2小節前のチェロ・バスは大きすぎてはいけませんが、スラーの中でふにゃふにゃにならず、縦線のわかるように弾く必要があります。他のみなさんはこのチェロバスが聴ける様でなくてはなりません。
練習番号10番からはアクセント、スタッカート、テヌートと音のかたちが異なる16部音符が連なっているので、しっかりと弾き分ける必要がありますね。小節番号12番の4小節前から2小節はヴァイオリンの方にはお気の毒です。人数がいないのでキツいとは思いますが、これが貧弱だとお話にならないので、覚悟してしっかりと弾いて下さい。入りの喰いつきに気をつけるのはもちろんですが、終わりの音にはもっと気を付けて下さい。
12番はコントラバスには悪夢です。入る前の16部音符の下降形にはテヌートがついていますが、音が低くなるにつれ貧弱にならないようにしっかり弾く必要があります。
8分音符もアクセント・テヌートで音を丸くしないようにしっかり弾くとともに、決して遅くならないように頑張らねばなりません。高弦の奏でるメロディーも、ともに高貴で輝かしい響きになるようにしましょう。
14番の3小節前、ともすると低弦と高弦の息が合わなくなるので一拍1拍をお互いに意識しながら14番の高みに登って行きましょう。高弦の方は休符前の8分音符の2つ目の音が短めに終わる傾向があるようですね。15番の3小節前のPはしっかりと音量を落しましょう。
フーガは、まあ、頑張りましょう。
セカンドでは3小節目の3拍目の裏、ファーストでは5小節目の3拍目の裏、チェロ・バスでは7小節目の3拍目の裏はいずれも印刷でアップから入るような指示がありますが、これはダウンで入ります。18番の1小節前のヴァイオリン・ヴィオラの8分音符、その後のチェロ・バスの同じ8分音符の下り基調のアクセントは全てダウンです。
再現部があって、30番からフィナーレですが、このフォルテシモを大きく入り過ぎると、終わりまでもたないので、ちょっと考えましょう。やたらと大きいよりも、伸びやかに、広々とした感じで音が出せると良いかも知れません。
本当のクライマックスは32番の4小節前にありますので、力を取っておきましょう。
32番からは「軽さ」を意識して、派手なアクセルはかけませんが、全体で「前」へ持って行きましょう。
このために、是非とも32番のピアノはしっかりと音量を絞って下さい。

さて、次はベートヴェンだが、面倒くさくなって来たぞ。
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by bassbassbassyy | 2014-05-06 14:37 | 音楽
2012年 10月 09日

東京公演合宿第1号

東京公演に向けた一回目の合宿が終わりました。
なかなか、充実した合宿でしたし、朧げながら、どの方向に向かって演奏すべきかが見えて来たような気がします。
今年度、音泉が基本としている姿勢は、弦楽器を中心としたプログラム、です。
「?」と思われる方もいらっしゃると思いますが、大方の弦楽器の方はご納得頂けているかと思います。「グレート」にはオーケストラに於ける弦楽器群の役割が如実に示されていますね。先のプログラムにあったベートヴェンの「7重奏曲」は管楽器と弦楽器のアンサンブルの中で弦楽器の役割を明確に位置付けており、この基礎の発展形があらゆるオーケストラ作品に繋がっています。そんなわけで、今年度の音泉は実践的にオーケストラにおける弦楽器の役割を知るプログラムとなりました。セレナーデやアダージョもその一役であり、弦楽器群としての可能性や性能を知るためには非常に良いプログラムになっています。

さて、今回の合宿では、監督より「音程」の課題が提示されました。
これまでの音泉で、今回程明確に「音程」が課題として提示されたことはありません。「音程」の課題とはいかなる課題と捉えるべきでしょう?
単純なところで言えば「チューニング・メーター」を相手に練習することで大分解決に近付きます。これに属する方法としては、指板に印を付けるとか、弦の方に印を付けるとかの方法があります。これでは近似値に近付くのが「せいぜい」なのですが、それでも蔑ろに出来ない、とても大事なことです。
ご存知と思いますが、3音以上のオクターブ以外の和音において、個々の音程に「正しい音程」と言えるものはありません。3つ以上の異なる音程のを同時に鳴らすと必ず不協和音が生じます。この不協和音を、あくまで「聴こえ」の範疇で、如何にその時々の和音の役割に沿った響きに仕立てるかが私たちの課題です。響きと言うからには音程によって生じる和音も大事なのですが、同時に異なる楽器が出すそれぞれの音色の役割もとても大事です。そして、音量の問題も絡んできます。
音程の問題を取り上げると、このように様々な問題が芋づる式に連なってきてしまう。アマチュアの我々には手に負えない問題と考えてしまいます。だからこそ、出来ることとしての「チューニング・メーター」が大事なのです。
でも、音泉はそこから一歩踏み出したい。

音程の問題が面倒なのは、これが人間の品性に関わる問題でもあるからです。
何故かを言うと、長くてややこしくなるので省きますが、音程の問題は、その音を出す人の勇気と、真理を探究する心と、潔さと、強調性に深くかかわるからです。これらは「正義」の問題にも近い。実に厄介です。そして、このような問題を簡単に「精神論」と決めつけて蔑ろにする人もいる。これは論理の問題なんですけど、ちゃんと考えることをしないで愚かしい決めつけをする。
私たちは勇気と、真理と、潔さと、強調性を持って、今度の東京公演に臨むことに致しましょう。音泉はここで一歩踏み出したいのです。
勇気と、真理と、潔さと、強調性を発揮する上で大切なのは周りを聴き、自分を知ること、音楽を知っておくことです。
その中で音程を確かなもにしようとすれば、どれだけの勇気が必要か、どれほどの真理探究心が必要か、且つ、それらに固執せず、強い協調性の基に、潔さを持って自らを捨てられるか、仲間と強調出来るか、これらが試されていることがわかります。
合奏中の1人弾きで音程のことをガミガミ言われると、だんだん出す音が貧弱になって、酷いとトゥッティーになっても音が出せなくなることを経験した人は少なくないのでは。これは、そもそも音楽をやる上で必要な勇気とか潔さとかについて、きちんと考えて来なかったためです。そもそも勇気や潔さがないから、では多分ないでしょう。持っていても発揮出来ないのです。音楽にそんなものが必要だと思っても見なかったからです。
監督の音程に関する指摘を良く思い出して下さい。音程は、ともすると、そもそもそこにあるものだったり、与えられるものだったりと考えられ勝ちですが、実はその一瞬一瞬に皆で作り上げているものです。言い回しの問題もあって必ずしも、そのように聴こえない場合もあったとは思いますが、監督の指摘は、私たち一人ひとりが音程を作り出していることを示していたかに思えます。個々の意図によって生じるものが音程であれば、和音は我々のものです。
一瞬一瞬にどのような音を出すか。気の遠くなるような事柄ですが、音泉のみなさんなら必ずより良く出来る。まずは長い音、短くても抜きん出ている音から始めましょう。どのような音程で、どのような音色で、どのような音量で、どのようなアタックで、どのような音の終わりで、本当に果てしない課題ですが、監督に指摘された音や、楽譜から抜きん出て来る音から始めて見ましょう。この努力は必ずお客様の耳に届く努力です。
では、諦めずに頑張りましょう。次回の合宿でより良い音楽を見出せるように。

もっとも、私の最優先課題は練習中に眠くならないように、疲れを合宿前にとることです。やれやれ。
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by bassbassbassyy | 2012-10-09 22:02 | 音楽
2011年 02月 16日

誉めて生じること

子供を育てていると、難しいと思うのが誉めることである。なので、難しく考えないために、誉めたいと思った時に誉めることにしている。でも、要注意なのがその他の兄弟である。とある状況で、弟を誉めたとき、それを見ていたお兄ちゃんがどう思うか、これには少し配慮がいる。

以前、秋の本番を翌週に控えた、とあるオケのリハに参加した時のことである。
中々思うようにならずも、少しは集中して一定の成果を見せた前半練習後の中休憩時間に、指揮台に上がった中年の団長さんが、事務連絡かと思いきや、いきなりセカンドヴァイオリンの若い女の子を誉め出した。その子は社会人2年目の公務員さんで大学生になってからヴァイオリンを始めたとのことだから、まだ楽器を持って6年。オケで弾くには充分なテクニック等持ち合わせていない。それが、とても良く練習していて上手になった、と、言うのである。目立たない子で、セカンドヴァイオリンのいつも後ろの方で弾いているから、目の悪い私には顔も良くわからない。私は耳もあまり良い方ではないので、どのぐらい上手くなったのかまるでわからないのだが、ともかく上手になったと言う。
さすが、団長さん、良く団員さんのことを見ているものだ、と感心した。
いつも、眠い目を擦ってリハに望んでいるどこぞの団長とはえらい違いである。

でも、その後が良くなかった。

彼女は仕事が終わってから毎日2〜3時間も自主練習して頑張っている。だから上手になったのだ。と団長さんは言う。確かにそれだけ頑張れば上手くなるだろう。これは良い。
みんなも、頑張って練習すれば上手くなるのだから、ちゃんと自主練習をしなさい。と団長さんは言った。これがまずかった。
ああ、これはちょっと配慮がないかな?と、思ったら、案の定、後半練習のみなさんのモチベーションは下がりっぱなしで、だらしのない練習になってしまった。田舎のオケで、団員の皆さんは純朴素朴な方が多く、それだけに団長の言葉が痛かったようだ。

全く、同じようなことが、この間、あるオケのリハで起こった。同じ結末に至った。
どこでも、いつでも同じようなことが起こるものである。

頑張って沢山練習をして上手になった方の努力はとても尊い。
それは間違っていない。
もし、これを、それなりの年齢から初めて、それなりの練習量で、それなりの努力で、それなりの先生について、それなりに勉強もして、まあ、他にも色々あるだろうけれど、頑張ると、プロになれるかも知れない。
でも、市民オケの団員は違う。
たまたま、時間が取れて、先生にもレッスン受けて、一生懸命練習した。けれど、上手く弾けない人が稀にいる。何がいけないのか、くよくよと思い悩んで、寸暇を惜しんで練習する。でも上手くならない。
もう少し多くの人は、たまたま、時間が取れて、練習するけど、先生に見てもらえず、独自の効率の悪い練習しか出来ず、上手くならない。
もっと、多くの人は、時間がなくて、それでも、何とか時間を見つけて、効率の悪い自己流の練習をして上手くならない。
そして、大部分の人は、本当に仕事に忙殺され、生活に謀殺され、疲弊したところで時間もなく、毎週のオケの練習時間が自分の楽器の練習時間だったりする。当然、上手に弾けるようになどなるわけがない。でも、音楽がやりたくて市民オケに所属して、本当にぎりぎりなんとか、オケに来る時間を作ってやってくるのである。定時に帰り上司に睨まれ、遅くに帰宅し奥さんに睨まれ、若しくは夕食を作らず子供にぶつくさ言われ、あちこちに迷惑をかけて、ぺこぺこ頭下げてやってくるのが、多くの市民オケの団員なのだ。練習して上手くなれ、と言われても練習することが出来ないのである。
それを、たまたま、時間を作ることが出来て充分に練習出来た人と比べられて、同じようにやれ、と言われれば、気持が萎えるのは当たり前である。個人練習の出来ない自分はここにいてはいけないのか?と思ったりもする。
音楽家であるマエストロやトレーナーに言われるのなら仕方ない。しかし同じ団員でもあるはずの団長から言われてしまっては、立つ瀬がなくなってしまうのである。
では、市民オケは上手くならないのか?そんなことはない。音楽はテクニックも大事だが、知っていることも大事なのである。音楽を知っている、こと、である。リハのマエストロはテクニックについても語るが、殆どは音楽の知って欲しいところを語っているのである。これが伝わらなければオケは駄目なのだ。
まあ、でも、これは、実は結構どこにでもある話しなのかも知れない。

さて、誉めることで生じるのはこれだけではない。
むしろ、こっちが原則である。
誉めた側に虚栄心があると、これは少しもののわかった人には瞬時にバレてしまう。そしてシラケる。誉められた本人がもののわかった人ならば、馬鹿にされたと思うだろう。
ところが、誉めた本人は、以外とそこに気が付かないのである。だから、必ず繰り返す。
誰かを誉めて、その人の周囲の人々のモチベーションまで高めるには、まず、誉める人間が虚心坦懐でなくてはならない。

私はなかなかその境地に達しないので、人前で誰かを誉めることがそうそう出来ない。

誉めて生じる「+」はあるけれど、きちんと考えてしたいですね。良い勉強になりました。
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by bassbassbassyy | 2011-02-16 23:36 | 音楽
2011年 01月 02日

一生懸命と本気

年頭のご挨拶に、今度の東京公演に出演するみなさんにご挨拶のメールを送りました。
当たり前の言葉で、今更ながらの「一生懸命」と「本気」を使いましたが、ここで改めて辞書を引かれる方は、まず、いないと思いますので、ちょっと、書いておこうかなぁ、と、思います。
国語の先生なら良くご存知のことと思いますが、「一生懸命」はもともと「一所懸命」から起こった言葉と言われています。比較してどっちが正しいと言うようなことはもうないような程、両方とも親しみのある言葉ですね。でも、「一所懸命」はその字の通り「一所」=「領地」を命懸けで守ることを示す言葉なので、場所や立場やものを死守するさいに使用する方が気持的にしっくりします。一方、「一生懸命」は何をするのでもともかく、命懸けであれば「一生懸命」として使って差し支えない訳です。
さて、これを踏まえて、あえて「一生懸命」を極々当たり前に使ってみました。本当は「一所懸命」を使ってみたい気持もあったのですが、この点については「その心は・・・」、お読みになったみなさんが「整え」て頂くのが宜しいかと存じます。
次に、「本気」ですが、これは本気以外の説明のしようがない言葉です。まあ、「真面目な気持」と言う説明がありますが「真面目」を辞書で引くと「本気であること」となります。
そんな訳で、辞書で引いて「本気」となる言葉が最初にありました。「真面目」「ぞっこん」「等閑」です。最後の等閑は「本気ではない」という意味です。
さて、「真面目」ですが、。元々はしきりに瞬きをする様をさしていた言葉だそうですが、これには「誠意のある」と言う意味が込められています。「等閑」は「誠意のない様子」と言うことが直ぐに浮かびますね。これは両方とも「様」から「心」を判断して指し示している言葉です。行動や様子から人の心が読み取れるとする考え方が基礎にあります。従って、そもそもの行動や様子が「本気」と受け取れないようなことでは、問題外、と言うことです。
さて、「ぞっこん」はおおまかの説によると「心底」に由来するようです。「心底より申します」と言う言い方が昔にはあった様で、「ウソ偽りのないことを言う」と言う意味と「私の言うことをきいて下さい」という意味があったのではないかと思われます。これは先の二つの例とは異なり自分の心を基に本気であることを指し示している言葉だと私は理解しました。
本気であることには、行動や様から読み取れる面と自身の心の底から顕われるという面と二つの意義があるのですが、両方とも大事なことだと思います。
私自身がそうでなくてはならないことなので、あまり人のことをとやかく言っては申し訳ないのですが、どうしても、そうであって欲しいなと思ってしまう方が見受けられる。と、言うか、人は時々そうなってしまう。私自身がそうなってしまう時がある。
でも、そう言うときはきっと、こんなブログは読まないのでしょうね。
難しいですね。
当たり前の言葉に、これだけの意味があるのは書いている私自身驚いてしまうのですが、「全て」ではないのですが「つきつめて」物事を考えることは意義のあることです。
音楽もそうです。
一つの曲もそうだと思います。
「これ」は「こうだ」と強く主張するためには、それなりの説得力を持たなければならない。
思い付きや一時の感性だけでは、どうにもならない。
ショスタコーヴィッチだってリヒャルトだって、丸山先生だってみなさんそうです。
だから、やる方も、一生懸命、本気で演奏しなきゃいけないのです。
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by bassbassbassyy | 2011-01-02 22:01 | 音楽
2010年 06月 02日

宇宙と人

2回目の合宿が終わり、あともう少し蒸し暑くなると、本番である。
今度の軽井沢公演においてホールに響くのは宇宙と人である。
文学的表現としての無機的な宇宙は、如何様な方法であれ観測され表現される。そうした時には既に有機的な何らかの象徴である。知覚することにおいて人の介在がないものはないように、我々の知る宇宙は人の仲介した宇宙である。初めて火星の表面を見た人は、人がそれを見ることが出来るように操作した結果を見ているのだ。だから、我々の見る物は全て人に還る。我々は物を見て人を見るのだ。己を見るのである。
こんな極端な物言いを真に受ける人は随分少なくなったけれど、でも、これって本当の一部ではある。
あまりバカにしてはいけない。
必ずしも意図していたわけではないが、今度のプログラムは、そんなプログラムなのだ。
そんな、って、どんな?
と、言われれば、来てみればわかる、と言うに決まっているので、こんな問答はただの宣伝である。

「ケフェウスノート」という曲は透明な印象のある(ある意味無機的な)響きで構成されたヴィジュアル的宇宙なのだが、これがとても人間臭い。別なところにも書いたのだが、NHK特集かなんかで「宇宙」という番組を放映するならBGMにもってこいである。透明感のある響きがいかにも宇宙っぽいのだ。こんなにも、「いかにも」的に音を重ねることが出来ると言うのはやはり凄いことだと思う。聴き終えた後に20分間沈思黙考したあげく「わからん!」と言わなければならない多くの現代音楽の中で、これも現代音楽だよ、って言うのはちょっと不公平な気がするぐらい、凄いことである。でも、そこがとても人間臭い。この曲を作曲された吉松 隆さんのことは全然存じ上げないのだが(ご挨拶はしたことがあります)、色々あるとしても、根は良い人なんじゃないかなぁ、と思わせる人間臭さを感じてしまう。
「二つのヴァイオリンのための協奏曲」は科学者がコンピュータが吐き出した数字の羅列を見て「成る程、宇宙はこうなっていたのか」とつぶやく時のような宇宙である。そんな場面が本当にあるかどうかは知らないけれど。
音が響き合い、動き、脈打ち、躍動し、微動だにせず、消えて、立ち上り、覆い、掠れて、凛とし、ありとあらゆる形容を数学的な的確さで表現しているが、それは人間を表現しているのではなくて、ただ、人間は真ん中にいる、のがこの曲である。「ケフェウスノート」とは全然別の宇宙である。人間が知り得た宇宙とは、人間が作り出した宇宙である。物理学者がどんなに無はまったくの無ではないよ、と言ったってそれはそう言う無を観測と言う人間行為によって、あるいは理論という思考によって、作り出された現実であって、それ以外に表現しようがなく、確率的というのは、所詮、概念でしかない。でも、宇宙はそう言う体系の中で成立している、というところの宇宙。こんな話しよりバッハを聴いている方が余程宇宙を感じられる。でも、バッハの宇宙は、どちらかと言うと人間臭いのではなく、人間がいる、ということの音楽だと感じる。
そして、どうあっても、宇宙とは無縁的に人間的な音楽としてのブラームス。心の音楽。心情の音楽。でも感情ではないし、感傷でもない。音楽による思考。音楽による感情。音楽による心情。
ブラームスには無機的であるところの概念は最初からない。私が見たから、そこに森があるのだ。そのくらい、人間なブラームスの交響曲は、徹底的に宇宙的ではない。土。道。街。家。畑。橋。城。自然が大好きで、アルプスが大好きで、重いお腹でとろとろ登る山道が大好きなブラームスは、自然に感動し、アルプスに畏敬し、そう感じながら、山道に苦しむ人間が(自分が)大好きだったのだ。
ブラームスの視点は最後に現われるけれど、私は、大地から見上げているような気になる。
象徴的な2つの宇宙とその狭間の、今ここにはない無数の宇宙を観測し、気が付いたら、恐ろしい程のズームアップで地上から宇宙を見上げている自分を見るのだ。
そんな、演奏会に出来たら、どんなに素晴らしいことだろう。
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by bassbassbassyy | 2010-06-02 23:16 | 音楽
2010年 04月 17日

を、張り替えに出しました。
弓の毛です。
実に3年振り。014.gif
すごいでしょー。

つるつるの毛で良く数々の演奏会を乗り切った!
と、思われたあなた、甘いですよ。

つるつるの弓の毛は実は便利である。
「これはダメだ!」002.gif
と思った曲に望む時は松ヤニを塗らなければ良いのである。

例えば、S師の振る某Aオケでフィンガルをやった時等、高い音&早いパッセージの弾けない私はつるつる弓で臨んだものである。
少しは音が出るから、本気で熱演できるし、それでいて周りに迷惑をかけず、ヴィジュアル系として思う存分働けるのである。003.gif

さて、冗談はこれくらいにして、
弓の張り替えでお金がなくなってしまった。
合宿に行けない。困った。042.gif
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by bassbassbassyy | 2010-04-17 22:20 | 音楽
2009年 10月 16日

唐突ですが、SNSでの話しを受けて   音泉で「革命」を取り上げようとするわけ

前もって言っておきますが、字ばっかです。
事務局長は覚悟して読むように。

 実は、こう言う問題提起を待っていました。
 はいそうですか、とあっさり受け入れるには難儀この上ない選曲ですからねぇ。反対意見が出ないのが却って心配でもありました。
 私は、団の運営を考える上で、この選曲は全く厄介なことであるなぁ、と今でも思っています。しかしながら、音泉としての音楽へのアプローチを考えると、艱難辛苦はあろうとも良い試みではないかとも考えています。選び取ると言う意味においては私には確信はありません。しかし、別の意味では、これで良いと考えていますし、覚悟も出来ています。

 そんな訳で、これから書くことは、この曲を想起する理由ではなくて、この選曲を受け入れる理由です。従って音楽監督がこの曲を選ばれたお考えとも異なるかも知れませんし、チェロ弾き男さんの意見に対する反論にはならないかも知れません。あしからず。
私が、この選曲を伺った際に、考えた順にお話します。

①音泉はそもそもアンサンブルを目的とした合奏団です。アンサンブルで出来る曲ならば何でも演奏の可能性はある、と言うのが基本的な姿勢です。その意味でドヴォルザークのチェロコンチェルトは限界への挑戦、に近い発想がありました。アンサンブルで出来るかという点に関して、音楽監督は「革命」はアンサンブルで出来るとはっきり言っていますので、演奏の可能性からは除外する理由はありません。この点で言えばむしろチェロコンチェルトの方が除外対象に近いのではないかと思っています。

②編成の問題ですが、現状の音泉の活動範囲から言うと、演奏可能な編成の範囲です。
楽器集め、人集めには尋常ならざる努力が必用ですが、幸い、メンバーの協力が得られれば必要楽器、人数は集められそうです。しかし、皆さんの協力が得られなければ無理です。
これについては、これまでのやり方を改めることを検討していますので、おいおい、お話しますね。また、経営的な面においても、これに堪え得る計画を立てるための試みを実施中です。その結果に応じて現実的な算段は出来ると思います。

③音泉で取り上げる曲目について以前よりみなさんに広く伺っておりましたが、具体的に私の元に伝えられた曲目は僅かでした。ただ、僅かながら演奏に取り上げるに非常に意味のある曲目だったので、これを取り上げる手順について熟考しているところでした。直ぐにやるよりも、何かを成し遂げた後でやる方が良い演奏に繋がると考えていたからです。そのとき、この選曲を伺いました。リクエストのあった曲に至るには「革命」は非常に良い題材であり、これまで音泉で取り上げた数々の演奏曲目の線上にはまるものと考えられました。「革命」とその後、幾つかの段階を経た上でそのリクエストにお答えできれば、今、取り上げるよりもより良い、意味深い演奏が出来る、と考えています。

④「その後の音泉」を考える上で「革命」は良い区切りとなると思われました。「その後の音泉」とは、以前の小編成のアンサンブルと言うことです。このことは既に皆さんにお伝えしているところです。しかし「革命」後、直ぐに小さくなれるわけではありません。音泉のコンセプトをもう一度明確にした上で、これまでご協力頂いたメンバーの皆さんに納得いただける形に持っていかなくてはならないと考えています。また、小さくすると言っても音泉で実現しようとしている試みには少なからぬ人員が必要ですし、全てのメンバーがいつでも音泉のために時間を作ってくれるわけではありません。これらを合わせて考察すると少なくとも2管編成分のメンバー表が埋まるくらいの方々が、音泉のメンバーでいて頂かなくてはなりません。私の考えでは、それは「革命」を演奏する人数にほぼ合致します。

⑤人の縁とは、そう簡単に価値付け、評価できるものではありませんが、それでも、誰しもが「このご縁は大切にしなければ」と思うことがあります。音泉を10年間続けてきて色々な方との出会いがあり、親交がありました。どれも貴重なものですが、今この時にそれを深めておかなければ後悔することになるご縁もあります。これは私個人の問題としてではなく、メンバー全員にとって貴重であるかどうかを計るわけですから、そう簡単には言えない事ですが、とても幸いなことに、比較的簡単に、誰もが同じように貴重に思えるご縁に音泉は恵まれました。このご縁を活かし、深めるための選曲という考え方もあると、私は考えています。

⑥「革命」でなければならない、という理由を私自身は明確に見出しているわけではありません。しかしながら「革命」ではいけないという理由は、はっきりと見出すことが出来ません。それならば「チェロコンチェルト」も「運命」も「ジュピター」も何らかの否定的な範疇に入ってしまうでしょう。例えばシューマンの交響曲1番や3番なら、私は明確に出来ないと言うことが出来ます。リストの殆どのオーケストラ曲もベルリオーズもワーグナーの序曲全ても、ドビッシーやラベル、ファリャ。出来ないと言い切れる曲はまだまだ沢山ありますが、「革命」は①②の条件を満たしているならば、出来ないと言える理由が見出せないのです。

 以前「ジュピター」を取り上げたとき、実は私はその選曲に懐疑的でした。良く知られた名曲であり、難曲でもあります。各パート譜に書かれていることは比較的単純で、この曲を難曲たらしめているのは、むしろ音符の隙間にあります。皆さんがこの曲を3回舞台に乗せ、その度にしっかりと練習することに飽きてしまうのではないか、音泉らしい「ジュピター」は出来ないのではないか、我々としての完成度に比べ聴衆の耳が既成の「ジュピター」に慣れすぎているのでは、等と色々懸念しました。これらの懸念が的外れであったことはそれぞれの演奏会で証明済みですが、同時に、あんなに良い演奏が出来たのに、ある種の未熟さも露呈したと思います。
 音楽には、否が応でも立ち向かわねばならない試練が付きまといますが、出来る出来ないに拘わらず、これとしっかり対峙する姿勢が音泉には薄れつつあったと思います。しかも「ジュピター」で露呈した未熟さは我々でも充分に乗り越えられるものでした。これを端的に指摘したのは亡くなられた平世さんです。
 「革命」には音泉に必用な姿勢を求める素地があります。比較的に解りやすく、技術的には困難でも、感覚的には「バーゼル」に比べれば少し楽かも知れません。しかも、弦と管との絡みの中で実現します。ステップとして捉えても妥当と言えます。

 それから、何より大事なのは、やってみると案外、楽しいかも知れないということです。
ショスタコヴィッチの楽曲はとても多いので全てを知る訳ではないのですが、同年代のその他の作曲家と比べると良く耳にしてきた方ではないかと思います。でも、今この曲に対峙した時、少なくとも自分は何も知らないことを認めざるを得ない。それを解き明かして行く楽しみがあります。テクニカルな苦労ならベートーヴェンの4番や9番も同じではないでしょうか?「革命」の2楽章はきっと楽しく弾けると思いますよ。

 音泉は趣味の集いですから、楽しくあるべきだと私も考えています。その楽しさを追求するにはどうしても苦しいところも背負わねばなりません。音楽をまじめに楽しむ、と言うことは、何も苦しい練習を沢山してプロのように楽器を扱えねば駄目だ、と言うことではありません。苦しいところも全部含めてしっかりと向き合い、各人なりの方法でこれにアプローチすることが、音楽を楽しむことだと思います。その各人が集まっての音泉です。苦しみをも共有するからこそ楽しみもあるのではないかと思います。

 音楽を広義に捕らえて人間活動の一環であり、社会性の一面であり、歴史である(つまりは文化ですな)とすると、アマチュアの演奏とは常に何某かの責任放棄を伴っています。作曲家に対し、楽曲に対し、聴衆に対し、人生を賭して音楽に掛けている演奏家に対し、社会に対し、歴史に対し、そして自分自身に対し。私は必ずしも皆さんに同意を求めるものではありませんが、出来ればそれを、我々は我々なりに音楽に対峙している、と言うことで少しは補いたいと思っていますし、その思いは共有したい。ですから、音泉の運営においても常にそういう側面を意識しています。ある楽曲を演奏するからには最低限、何々だけは皆で分かち合えるくらいにならないと意味がない、と言う目標設定をしています。そして、それは連綿と続いている。メインと言われる曲も、アンコールも、デュエットも、40人からの交響曲もです。全部が連綿と繋がる中で、一つ一つの音楽に託されているものを少しでも大切にしていきたい。大切さを増したい。この思いと、監督の選曲のあり方は今のところ一致していると思います。
 
 選曲の手順は、皆さんからのリクエストに基づいて監督と私が相談して決めています。相談とは言っても、選曲は音楽監督の先権事項です。監督が気遣って相談してくれている、というところですね。反面、監督の決めたことを代表としての私が否定するとなれば、これは音楽監督の任免事項に繋がります。取り上げる楽曲に反対したからと言って、音楽監督を辞めてください、とは決して言いませんが、音楽監督からすれば同じことです。監督も相当な覚悟で選曲に臨んでいる。これを大した理由もなく駄目出しすれば、不信任と取られても仕方ないでしょう。皆さんには全く見えないところでの話ですが、音泉が民主的な運営手法をとらない以上、私も監督もそれなりの緊張関係を保ちつつ運営にあたっています。いくら明確な規則はないと言っても一つの楽団である以上、歴史的な踏襲による一定の不文律は守らねばならないと言うのが私の持論です。そうした中で、今のところ音楽監督は充分に信用出来る選曲をしていると、私は自信を持って皆さんにお伝えすることが出来ます。

以上、6項目が音泉で「革命」を取り上げる訳で、付随する事柄を少々付け加えました。言葉足らずで意味不明、理解不能、もしくは、このような考え方に対する反論、意見、何でも仰っていただけると嬉しいです。一人で考える事には限度がある。みんなで考えて参りましょう。

選曲に対する意見を始めに述べて頂いたチェロ弾き男さんには、良い機会を作っていただいたと思います。ありがとうございました。叶うならば、チェロ弾き男さんに続くコメントがあればと思ったのですが、ちょっと、言いにくいことでもあるかも知れませんね。でも、言いにくいなんてことはまるでありませんので、余計に気遣わずどんどんコメントして下さい。
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by bassbassbassyy | 2009-10-16 00:36
2009年 09月 21日

ブラームスはお好きですか?(10)

 ブラームスの人と歴史についてかなり長々と考えてきましたが、これが交響曲にどう影響しているのか、これを考えることで、演奏上なにが変わってくるのか、そこらへんに話しを持ってかないと、脱線したまま終わっちゃいそうなので、そろそろ音楽に話しを戻します。でも、”見えてくる”のはまだちょっと先になります。037.gif

 ロマン派の多くの作曲家は自らの理念を現世との関係を持ちながらも一歩か二歩、場合によってはブルックナーのようにまるで関係ないと思われるところまで進ませて、音楽に託す傾向があります。過去であれ未来であれ、もしくは宇宙であれ、現世と連なりながらも現世とは異なる理想(反理想)世界を音楽に託すわけです。こう書くと分かりにくいのですが、要するに、現実の出来事をヒントに物語の世界を作り上げてそれを音楽にするわけです。
 例えば、国民学派のスメタナについて考えても、「我が祖国」のボヘミアは民族自立に燃え立つ当時の現状のボヘミアではなく、ボヘミアの自然とその自然の中で生活する人々を描いています。その描写は社会的な性格のものではなく、ボヘミアの自然と人との不変的な関係性にある一種の理想郷です。そうした理想郷的「我が祖国」だからこそ第2の「国歌」たるを得るわけです。
 悲劇的な意味合いでは、例えばマーラーなんかも同じことです。常に自分探しをしなければならず、立地点としたいはずのユダヤの血は社会的差別に会い、そこに安住することが出来ない。この現実に対する心の葛藤をイメージしたものが曲に宿る。メンデルスゾーンやシューマン、良く知られているロマン派の音楽家は誰もがそうした傾向を持っています。
 しかし、ブラームスは交響曲に音楽を託しているので、現世とも、理念とも、そもそもの隔たりがあります。何度も言うようですが、そこには意識的には現れ得ない、人生観や生活観が滲み出るのみです。そこでブラームスが作曲した交響曲に対して大切にしなければならないのは、音楽の背景となる理念や物語性ではなく、メロディーや構築性、そして、そこに生み出される音「そのもの」だろう、と言うことです。それを素直に探求することでまた、滲み出ている人生観や生活観が表現されると考えられるわけです。
 でも、こういうことも言えると思います。物語性が欠けているのなら、音楽としての構築性は何のためにあるのか?と。
 以前から述べているとおり、音楽の構築性は、空間と時間の両方を人の心に創造し、そので何かしらが行われる様を提供する場であります。時空世界と物語がなくて、何のための構築性か?
まずは、このことを知るために、あらためて形式について考えて見ます。

 ベートーヴェンが荘厳で緻密なしっかりとした建物みたいなソナタ形式を用いたのは、そこに庭や村や森の背景をくっつけて一つの城下町を作るためです。城下町には色々な人が住み生き生きと活動しています。領主もまた、悪い領主であれ、良い領主であれ、城下の人々とまみえながら生活しています。そこに物語が生まれた。狭苦しい制約ばかりの生活を強いられているのは、この城下では領主領民共々で、圧力は「外圧」です。共に手をとり、勝ち得た自由を喜びを持って掲げました。この曲が「運命」なわけです。別に領主、領民でなくても構いません。城を寺や、役所や会社に例えたって何ら問題はありません。ともかく、人が社会的に生活するくらいの広がりのある空間です。ソナタ形式は人の心に時間的経過を含む広大な空間を作ることが出来ます。それ自体が物語的要素を持っていますが、交響曲では、そこにロンドやスケルツォ等の別の形式をくっつけて、物語を、より広く、深いものに仕上げているのです。
 ベートーヴェンはロマン派の作曲家ではありませんが、ロマン派の作曲家に必要な空間作りの技法は殆ど全て彼の技法に拠ります。後の作曲家はそれを応用することになりました。ソナタ形式を用いることで人の心に音楽のための空間が出来ることを、いわば「発見」し、その作り方を整えたのがベートーヴェンであったわけです。
 ソナタ形式の最も重要な効果は音楽の存在感を醸し出すことです。ソナタ形式は文章で言えば「起承転結」。これはその他の形式にも言える事ですが、ソナタ形式の存在感は格別です。例えば循環形式は一つのまたは複数の旋律がその他のものの間に繰り返し垣間見られることで、音楽を印象付けますが、主題となる旋律や流れそのものは印象的ですが、全体としての存在感には欠けるものがあります。有名なところではサンサーンスのオルガン付きがありますが、どうでしょう?存在感がありますでしょうか?印象的ではありますが。
 ロンド形式はどうでしょう。これも、比較的単純な構造で基本的には二つの旋律が一つの別の旋律を挟んで繰り返されます。速いテンポの躍動的な旋律が繰り返されることで爆発的な高揚感があります。ベートーヴェンの第7交響曲の4楽章はまさに興奮しますね。でも、存在感は今一つではないでしょうか。循環形式もロンド形式も、この応用がジャズです。ブルースは一定のコード進行によって支えられている一つのテーマを何十回も繰り返すことで演奏されています。ブルースの曲は何千とあるのに、コード進行の型は一つです。たった12小節の繰り返しが、世界中で多くの人々を魅了しているのです。こうした、比較的な単純な作りの音楽は、もとはどこの民俗音楽でも行われていることで、人の心は「繰り返し」によって何らかの高揚感を生む、ということが利用されているわけです。クラシックではシャコンヌやパッサカリアも同じですね。

 ソナタ形式は序奏の後、異なる二つの旋律が提示され、それらが変奏され、再現され、終結します。特に大事なのは提示された旋律が変奏される際に大きな変化を感じる調性に移行することと、再現される際には二つの旋律(主に第2主題が)が調性も(第1主題に)より近い関係に置き換えられ、この二つが融和することです。当然第1主題は変奏されながらも何度も繰り返されるので非常に印象的になりますが、第2主題もまた印象的であり、再現されたときには第1主題に寄り添ってこれを支えて奥行きを醸し出します。限られた時間の中で旋律が繰り返され変奏し、融和することで空間的な広がりと時間的経緯を印象付けるわけです。さらに、終結部において、主調は守りながら(守られないこともたまにあります)比較的自由に第1主題や第2主題、他の旋律を様々な形で綾なす様に繰り広げ終結させることで、だめ押しする(ベートーヴェンはここが得意)。他の形式に比べ圧倒的に存在感があるのは空間的な広がりと時間的経緯が印象づけられるからです。また、再現部で「融和」すると言う事柄はドイツ観念論的な思考方法に近いものがあります。対立する概念(第1主題と第2主題)が様々に精査(変奏)された後に止揚(アウフヘーベン)する。ソナタ形式はドイツ人の思考法、19世紀の世界を代表する考え方の一つと同じような方法で現せられているわけです。ドイツ人にとっては音楽と言葉を同じ方法で考えることが出来たわけです。
 得意になっちゃいますよね。音楽は自分たちのものだと思うでしょう。
 ベートーヴェン自身、ソナタ形式の基本的なお約束事については少しづつ、ちょっと変えちゃえ、と変形させています。ブラームスの頃には色々な変形が行われて、逆にソナタ形式の効果が薄れてしまうものも沢山作られていました。今日、良く聴かれる曲はその後の淘汰に勝った音楽と言えますね。

ちょと、長くなったので、回を分けます。
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by bassbassbassyy | 2009-09-21 02:00 | 音楽
2009年 09月 02日

ブラームスはお好きですか?(6)

さて、先にSNS上ででかおさんにご紹介頂いた、ブラームスのエピソード。「ブラームス回想録集①~③」(2008:音楽の友社)読みました。これはお勧めです。ブラームスを身近に感じたいなら6,000円出して買って損はないです。でかおさんのご紹介通り、気難しくて不機嫌で、人を寄せ付けないブラームスのイメージが一転します。これを読んで、私はブラームスの時代背景とその作品との間にある「そぐわないもの」の殆ど(全てではないですよ)が解消されました。003.gif

ブラームスは音楽で何を語っているのか?
これにも、大きく関係しますので、みなさんどうぞ読んでみて下さい。
さて、結論からいいます。

「ブラームスは音楽で、音楽を語っている、もしくは主張している。」

なんか、簡単過ぎる言い回しで真実みがないですね。不思議なことにこういうことは色々な評論家の先生方が仰る様に難しい言い回しをしないと、本当ではないような気になってしまう。

「ブラームスは音楽でのみ語れる事柄を表現している。」

こうすると、文章的に「?」があって、少しは本当っぽいかも。

ベートーヴェンは人間の栄光と人類の平和を音楽に託しました。ベルリオーズは人間の内なる不条理を交響曲にしました。多くの作曲家が、自分の思いや考えを音楽に託しました。ブラームスは自分の音楽そのものを音楽に託した、と思います。これは、「音楽のための音楽」と言ってしまえば同じであるはずのハイドンやモーツアルトの音楽の在り様とは異なります。ハイドンやモーツアルトの音楽は、実用音楽でした。決められた空間で、決められたお客に対して、最高の満足度を達成するのが目的です。もちろん、自分のためにも作曲しているわけですから、音楽の意味としてそれが全てではありませんが。ブラームスの場合はロマン派全盛の時代にあって、世間的に言われる思想信条、場合によっては実用性すら省みず、ただ音楽のために音楽を考えたのではないかと思うのです。どちらかと言うと、バッハの世俗音楽と言われている分類の曲に似ているかもしれません。
ただし、ブラームスの場合、ロマン派と言われる音楽を背景にこれを考えなければならないのでとてもややこしい。

例えば、先のベルリオーズですが、彼自身がアヘンを吸ってか、または、綿密に練ったか、は知りませんが、ともかく殺人の計画を立てた経験を、架空の男の見た夢の話として音楽にした、と言っています。多分、半分は本当でも、半分はウソです。ミニチュアスコアを買うと高名な学者先生の解説がついているので読んでみて下さい。私はスコアを何処かになくしてしまった。確かに夢らしい不条理な話ではありますが、一連の文脈があり具体性に富んでいます。あんな夢、見る人いますかねぇ。ロマン派文学の中ではありそうですけど、私の周りで見そうなのはひろささんくらいでしょうか。
着想の基となったのは夢でも、それを敷衍する別の話があって、それと分かるところは秘匿しながらストーリーを組み立てた、と言うのが本当のところだと思います。これは、当時のフランスロマン派文学の有り様と深い関係がありますな。
まあ、何にせよそうして曲を書いたわけですが、あの交響曲の全てがベルリオーズの考えたストーリーに合致しているわけではありません。そこにも必ず音楽のための音楽が入っていると思います。固定楽想の手法を採用しているのは音楽のための手段ですね。
誰でもそうですが、何か良いアイディアを思いつくとそれを実現したくてたまらなくなる。作曲家は何かを表すために音楽を考える時もあるでしょうが、具体的な目的もなく、ふと思いついてしまうアイディアもあるはずです。むしろ、そうしたものの方が多いかも知れません。こうしたアイディアは使わずにおれない。なんだかんだ理由をくっつけて曲にしてしまうこともあるでしょう。だから多くの作曲家が楽譜帳を持って歩いた。ふっと、湧いたアイディアを書き留めるためです。そして何年も暖める。そして機会が来たときに作品に織り込むのです。

こうしたアイディアは作曲家の生活そのものです。具体性はないかも知れないけれど作曲家が生きる中での様々がエッセンスのように凝縮してその中に入っています。もちろん思想信条が入ることもありますし、散歩の途中で見かけた乞食の女の子のことが入っているかも知れない。神への思いや、戦争や病気や、ともかく色々です。ですから、個々のディティールとその曲に託された思想信条とは、実は関係がないこともしばしばなのです。しかし、単にそれだけでは、何故そのアイディアをそこに持ってきたのかの理由が分かりません。そこにそれを持ってくるのもまた、作曲家の価値観であり、思想信条であり、センスなのです。なんか取り留めのないような話ですが、実は私たちも日常的に同じ事をやっています。人に何か抽象的なことを伝えなければならないとき、「例えばね、」で始まる文脈をよく用いますが、これは同じことです。基となる考えがきちんとしていして、「例」の選択にセンスがあれば、話の内容が相手に伝わるばかりでなく、自分の人となりまで相手につたわります。でも、「例えばね」で始まる話そのものは、そのとき相手に伝えるために蓄えていたわけではないのです。
そんな訳で、どんな曲であれ、その曲のもつ意味合いとは、実は関係のない音楽のための音楽が含まれているわけです。
ちょっと、話しが脇へ言ってしまいました。
ここらで、一区切りしておきましょう。
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by bassbassbassyy | 2009-09-02 01:02 | 音楽