2009年 09月 24日
前回の続きです。 ソナタ形式だ循環形式だ、と言いながら、その形式がどのような型をしているかは学習済みでも、意外とそうした個々の形式の意味については考えていないことがありますよね。そこで、今更ながらに、ソナタ形式について解説しました。今回はブラームスがソナタ形式の何に拘っているのかを、考えて見ます。そして、ちょっと、長くなるけれど、一度まとめますね。 交響曲では第1楽章にソナタ形式を用いるのが一般的ですが、それは、ソナタ形式自体に存在感があり、人の心に広大な空間を作るためです。これを1楽章に据え、聴衆の心に出来た空間に、これに続く各楽章で物語を展開させることで、自分の考えやイメージを聴衆に伝えようとしたわけです。それがロマン派の多くの作曲家の手法です。 しかし、ブラームスは、少なくとも私の考えでは物語を持っていません。そこには音楽あるのみです。ブラームスが第1楽章にソナタ形式を用いたのは、過去の大家の作品がそのようにしているから、という理由も説明の一つでしょうが、ブラームスなりの理由があったはずです。 それは、一つはソナタ形式がドイツ的な思考方法に合致していたからです。思考方法ですから、イメージではありません。思想信条でもない。ただの方法です。ブラームスにとっては「そのように致しました。」という意識もなかったかも知れません。日常的に何かを考えるように音楽を考える。言葉ではなくて音楽で音楽を考える。すると、それは自然にドイツ観念論的な方法に則って考えられる。極めて自然にソナタ形式が発想できたと思います。 また、一つは、「存在感」だと思います。ブラームスは聴衆に忘れられないような存在感のある音楽を提示したかった。それも、自分が慣れ親しみ、聴衆も良く知っている方法で、です。ここに、ブラームスのドイツ的なものの一端が垣間見られます。 ブラームスの交響曲における構築性の必要性は、人の心に音楽を提示するための空間確保であるわけです。また、その手段そのものが、存在感を主張しているわけです。そして、そこにブラームスは自分の人生観や生活感が滲み出ることを知っていた、または期待していたのではないかと思います。しかも、それは非常にドイツ的なあり方です。 このことは、形式についてのみ言えるのではなく、メロディーや音の考察にも、事情は多少異なりますが、そのまま利用出来ると思います。 例えば、メロディーは小さな宝石です。生れ出た最初は形も歪で、色も鮮明さに欠けますが、いらないものを除き、削り、磨きをかけることで、宝石になります。この宝石を交響曲の中でどのように使うかで、何を表明出来るのか?ブラームスが表明すべきは音楽そのものです。メロディーが持つ歴史的民族的意味合いや叙情性は物語との関連がないので音楽存在そのものへ収斂されてゆきます。だから、極論を言ってしまうと、よく磨かれたメロディーならば、基本的に何を使っても構わないわけです。書いてみると、随分思い切ったことの様に思われますが、きっとそのはずです。しかし、メロディーは交響曲の中で磨かれた姿のままでいられるわけではなく、繰り返され、変奏され、分割されます。これに堪えうるものでなければならないし、他のメロディーとの組み合わせも考慮しなければならない。そうして選択されたものが交響曲で使われるわけです。音楽の手段に堪え得るメロディーだけが使われている、という程に音楽的な理由はないでしょう。また、実際に理論を扱う様に2つのメロディーを止揚させてみる。止揚することで生じる、大きな変化をみて、音楽的な奥行きがでるかどうか、を調べもしたでしょう。そうして、交響曲に使うメロディーを厳選します。選ばれたメロディーだけが交響曲に使われます。 でも、実際はブラームス自身、個々のメロディーに対してそれぞれへの愛着はあったと思います。交響曲で堪え得なかったメロディーは歌曲になったり、室内楽になったりしたのではないかと思います。ともかくも、メロディーもまた構築性と等しく音楽の存在感を醸し出すものでなければならないと言うことです。 さて、生活史を見たり、歴史を見たりした後に、楽典の話しに至ってしまいましたが、そろそろ、もう一つの結論に至っても良い頃だと思います。 次回は、一つの結論に至ることとしましょう。 第1楽章の第1主題を扱った後からここまで、色々な話題を散文的に扱ってきたので、若干まとめてみる必要がありますね。 今日において、ブラームスの音楽は、深い意味を持ち、それに見合う強いサウンドの力を持ちながら、構築性の表現が困難なため、または聴衆の理解力が低いために、「心」に響きにくい。 この最初の結論から、我々が構築性のために何が出来るのか?という疑問に行き当たりました。そこでブラームスの交響曲の構築性は何のためにあるのか?ブラームスは何のために交響曲を書いたのか?を考えました。 そこでは、ロマン派の多くの作曲家と異なりブラームスの交響曲には表題性がなく、理念や物語を託しているのではない事を見出し、そして、音楽のための音楽であることを結論付けました。しかし、全ての作曲家の内なる音楽は理念や心情を超えて、人生観や生活観に根ざしたものが必ず含まれており、どんなに表題的な音楽であってもそれは滲み出ていることを考察しました。ブラームスの交響曲は表題的ではなく、純粋に音楽的であるので、ブラームスが滲み出しているはずの世界観や人生観に着目してみました。 そこで、ブラームスにとっての規範が何であるか、人生観まではなかなか踏み込めないものの、社会背景と照らしてどのような生活態度であったかを調べました。生活歴に関しては、でかおさんの紹介もあって「回想録集」に委ねましたが、社会背景については大雑把ですが、それを概観しました。結果、ブラームスは「古き良きドイツ」と、その「ドイツ人の生活」を人生の規範に据え、その枠組みから踏み出すことを躊躇していたように見えました。音楽もまた社会と隔たったところに位置づけました。このことは、自らが尊敬するシューマンとはまったく異なった生き方でありました。そこで、音楽に立ち返りブラームスの人生観や生活観が滲み出ているはずの、メロディー、構築性、音そのもの、から特に構築性について「形式」を詳しく見ることで関連を見出そうとしました。形式との関連を見ることでおのずと、メロディーや音そのものとの関連も見えてきました。ブラームスは彼自身より古い手法によって音楽を音楽に託せる事を見出し、その手法で音楽の存在を際立たせることが出来ました。その手法とはソナタ形式であり、メロディーもまた交響曲に耐えうるように磨き、選別することで音楽の存在を主張し、音そのものもまたこれに習う形でブラームスの交響曲に現れているだろう、ということまで、たどり着きました。 そして、一つの結論に至りましょう。要するに上の20行あまりをまとめるわけです。 若干言い換えも入りますがご容赦を。 ブラームスの交響曲は音楽の存在を主張するためにあり、そのためにソナタ形式等、従来的な方法で作られている。これらは、「古き良きドイツ」を規範とするブラームスの信条にも合致した方法であった。こうして絶対音楽としての交響曲をロマン派の時代に築くことが出来たが、そのためにブラームスは自らの存在する時代、社会と自らの音楽に隔たりを置かねばならなかった。 長々と書いてきましたが、言っていることはこれだけです。と、言うわけでもないのですが、ともあれ、まとめは以上です。 そして、ここから次の話題に進むわけですが、その前に一つの疑問だけ呈しておきたいと思います。 少しだけ本文に書いたのですが、社会と自らの音楽に隔たりを置かねばならなかったことで、ブラームスの立ち居地は微妙に歪みを生じたことと思います。「古き良きドイツ」人であるブラームスが、尊敬するシューマンの在り様と異なった位置に自分を置かねばならなかったこと。それは音楽的な意味合いはまるで異なるものの、若い頃に「穏やかに」決別したリストの立ち位置に近いことを意味したこと。この二つから生じているはずです。 それは、またブラームスの人生的な課題であり、社会に直面している自分の姿でもあったわけです。また、何より音楽的な意味で自分が何を成しているのか不安にさせる立ち位置でもありました。この歪みは間違いなく音楽、特に交響曲に現れているように思います。しかし、その歪みがどのように「含意」されているか?これは、大きなテーマになり得ると思いますが、ここでは考えずに、演奏を実践しながら噛み締めたいと思います。
by bassbassbassyy
| 2009-09-24 00:32
| 音楽
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